予期せぬ旅立ち

 家に帰ったハサンは、はてこれからどうしよう、と考えた。とりあえず、女からもらった金はある。調べてみるとそこそこの金額になるようだった。だから当面の間は問題ないとしても……その後だ。また誰か親切な女性が現れないかなあと思ったが、さしあたって心当たりはなかった。ハサンは考え……そして思った。そうだ、旅に出よう。


 考えてみれば自分は失恋をしたのである。傷心の人間なのである。その傷心をいやすには旅に出るのが一番いいのではないか、とハサンは思ったのだった。それに旅をしている間に、また、親切な女性に出会うかもしれない。そこでハサンは旅の準備をすると、日ごろ一緒にふらふらと遊んでいた仲間たちに別れを告げ、都の間を流れる大河をゆく船に乗って、新しい土地へと旅立っていったのであった。


 船はするすると河を下って行った。ハサンは旅をするのが初めてで、どれも新鮮で面白かった。船は愉快な乗り物で、そこで様々な人々に会うのも愉快だった。しかし自分を助けてくれそうな女性には会わなかった。船はやがて海へ出、航海の難所を越えた後、大きな港町へ到着した。この港に各地からの物品が集められ、そしてさらに大きな船に積み替えられて、外洋へと出ていくのだった。




――――




 その日、ハサンはあてもなく港を歩いていた。この町に来て幾日かたっていた。港は賑やかだった。多くの船乗りや商人が歩き回り、多くの言葉が飛び交い、活力に満ちていた。しかしハサンの気持ちは憂鬱だった。


 月日はいくらか経過していたのに、しかし状況はよろしくなかった。親切な女性にはやはり会ってなかった。お金は、元恋人からもらったものと家から持ち出してきたもの、当初はそれなりにあったが、徐々に減りつつあった。お金の袋が軽くなるにつれ、ハサンの気持ちは重くなっていった。残っている費用から換算して、そろそろ都に戻らねばならない。だが――都に戻って、どうするというのだろう。


 いっそもっと遠くへ行きたいなあ……とハサンは港に停泊する船たちを見て思った。外洋用の大きな船がどっしりとした帆柱を並べていた。日が差し、海はきらめき、船の上を海鳥たちが飛んでいた。ここまでの船の旅はなかなかに楽しいものだった。さらにもっと遠くへ船で出かけていきたい……。ハサンはそう思ったが、それが許される費用はなかった。


 行くもできず、戻るも気が進まず、ハサンは憂鬱だった。けれども世界は楽し気で人々は生命力に溢れ、陽は明るくて、眼前には美しい光景が広がっていた。そんな中をとぼとぼ進みながらハサンは思った。もう少しこの町にいよう。けれども……そうしてるうちに金はどんどん減ってしまう。このまま減っていったら……全てなくなってしまったら……どうなるのだろう。ああこの苦境を逃げ出したい、本当にどこか遠くに行きたい……そんなことを考えていると、ふと、人の声が飛び込んできた。気になってハサンは足を止めた。その中に、自分の名前を聞いたような気がしたからだ。


「ハサンという男を知らないか」


 そう、一人の中年の男性が言っていた。港は、その男のいる辺りは騒がしかった。一つの船団なのか、何隻かの大型船が止まっていた。そして出港が近いのか、その準備に人々が追われていた。荷を運ぶ人夫、別れを惜しむ人々、それらの群れの中で、中年の男は通りかかる人々を捕まえて、そう聞いていた。


 ハサンは近寄って行った。中年の男に尋ねられた相手は、その質問に知らないと返して、立ち去って行くところだった。尋ねたほうはがっかりし、そして慌てていた。ハサンは男のそばに来ると、言った。


「ハサンは、おれだが」


 男が驚き、喜び、そして怒り出した。「おまえか! ああ、一体今まで何をやってたんだ! おまえはあの船に乗るんだろう!? 置いていかれるところだったぞ!」


 ハサンは面食らった。しかし、男は素早くハサンの腕をつかむと、船のほうに引きずって行った。おそらくこれは、人違いだ、とハサンは思った。そのことを男に知らせようとして口を開き……そして途中でやめた。ふと思ったのだ。この男はあの船に乗るべきハサンとおれとを勘違いしている。でも黙っていてもよいのではないか? このまま黙ってあの船に乗って……そして旅に出るのも悪くないのではないか?


 船に乗っている間は食べるものや眠る場所が与えられるだろう。このままここでお金がなくなり、貧苦のうちに死んでいくよりいいのではないか? そうハサンは思ったのだった。


 船は近づいていた。近くで見ると想像以上に大きく、どっしりと重たげだった。船乗りと思しき人々、商人らしき人々、そしてたくさんの積荷で、辺りははちきれんばかりの活気に溢れていた。それらにあてられてハサンも次第に愉快になってきた。人生はどう転がるかわからず、いやこれから先も何が待っているかわからないが、とりあえず、面白いことも待っているのではないかと、そういう気持ちになってきたのだ。

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