ハサン、海に出る
原ねずみ
1. ハサン、窮地に陥る
ハサン、窮地に陥る
時刻は夕暮れ、簡素な住居の間の狭い路地を、男が一人ゆっくりと歩いていた。すらりとした身のこなしの美しい顔立ちをした若い男だった。穏やかそうな満ち足りた表情をしており、歩き方も悠然と優雅だった。身に着けているものはさほど金がかかっているようではなかったが、その佇まい、全体の雰囲気から、男が現在の生活におおむね満足しているであろうことがわかった。裸足の子どもたちが男のそばを駆け抜けた。痩せた犬が何かを探すようにひょこひょこと歩いていた。路地は平和で、また男も平和そうだった。
とある家の前に着いて、男は扉を叩いた。扉が開かれ、これも若くて美しい、そして豊かな胸をした女が現れた。男は女に微笑みかけた。親しいものに対する笑みだったが、女は笑わず、男を冷たく見つめた。
男は戸惑った。予想外の反応が返ってきたからだった。男は戸惑いつつも、優しい声で女に言った。
「どうしたんだい。なんだか機嫌が悪いようだけど……」
「もう来ないでほしいの」
冷たい声で女がぴしゃりと言った。男が言葉を失っていると、女はさらに続けた。
「もう来ないで。あのね、あなたにはもううんざりなの。つまりお別れしましょうってことなの」
「うんざりって……そんな突然」
男の声に狼狽の色が混じった。女は表情を変えぬまま、男を見て言った。
「突然ではないわ。私は我慢してたの。ずっと……あなたを信じて……。でももう限界!」
途端に怒りが女の顔に表れた。女はきっと眉をつりあげると男につめよった。
「あなたは一日ふらふらして、私があなたに尽くしてずっと尽くして……。ああ、あなたのために私はどれほどのことをしたかしら! そしてあなたのためにどれだけのお金が出ていったかしら! でもあなたが私にしてくれたことって、何!?」
「してくれたこと……えっと、愛してあげたじゃないか。心を込めて、君だけを愛して……」
「愛でおなかは膨れない!!」
女はきっぱりと言い放った。そして小さな袋を取り出すと、男にぎゅうぎゅうとそれを押し付けた。
「もう私はいやなの、こんな生活は! お別れしましょ! あなたはあなたで勝手に生きて! でも気の毒だから最後にお餞別をあげる! これだけあれば当分は生きていけるでしょ!」
袋の中身はどうやらいくばくかの金であるらしかった。男はうろたえつつも、とりあえずそれを受け取った。くれるというのだから、それを断る理由はない。
男が受け取ったのを見ると、女は男からぱっと身を放した。そして扉の取っ手に手をかけると男に向かってはっきりと言った。
「さようなら! もう二度と来ないでね!」
男の鼻先で、扉が猛烈な勢いで閉まった。男は終始呆然としたままだった。とりあえず、もう一度扉を叩いてみる。女の名前を呼んでみる。しかし中は森閑と、返事一つなかった。男は少し扉から離れ、そしてため息をついた。
どうやら、予想外の、困った事態が起こったらしい、と思った。どうしてあの女はあんなに腹を立てていたのだろう。しばらくすれば機嫌も直るかな。でも……あの剣幕だとどうだろうか。当分はここに来ないほうがいいだろうか。
男の手の中には女からもらった小袋があった。それなりに重く、このことは男の心を明るくさせた。そこで男は袋を手に、自分の家に帰ることにした。
夕暮れの光が路地に差し込み、人々の生活の匂いと日常の会話が辺りにあった。路地は平和で……男は……先ほどよりは平和ではなかったが、しょげていても仕方ないとばかりに、餞別の小袋の重みを励みに、路地を歩いていくのだった。
――――
男の名前はハサンといった。まだ20そこそこの男であった。それなりに羽振りのよい商人の家に生まれ、おっとりと育てられた。両親が早くに亡くなり、その遺産を受け取り自分で商売を始めてみようとしたが、商才がなかったのか、たちまち家は傾いてしまった。ハサンは困ったが、彼はまれにみる美しい顔をしており、そのせいか、黙っていても助けてくれる女たちがおり、そのため食うに困るといったことにはならず、今までやはりおっとりのんびりと生きてきたのだった。
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