夏影
せてぃ
夏影
細く、白い煙が、青い空へ立ち昇っていく。真夏の積乱雲が両脇から背を伸ばす、その間。他のどの季節よりも濃い、深い青色に、白い煙はゆっくりと延びていく。その先端は次第に薄くなり、希釈されて、空の青の中に溶けて消える。
あの境目のどの辺りで、母はこの世から消えるのだろうか、と考えた。この世からあの世へと旅立つのだろう、と考えていた。
「お兄ちゃん」
隣には妹がいた。七歳になったばかり。ぼくは十二歳になったばかり。どちらにしても、母親を喪うには早すぎる年齢だった。さらに言うならば、父親を喪うにも、早すぎる年齢だったと思う。
妹、愛菜は、何と表現したらいいか、わからない表情をしていた。いまにも泣き出しそうでありながら、無表情を保ち、しかし立っているのも困難な程の悲愴を、その無表情の下に隠していることが容易にわかってしまう幼さが、愛菜の顔にはっきりとした色を付けず、灰色と呼ぶほかない、あまりにも様々な感情が複雑に混ざり合った表情をしていた。何を話せばいいのか、ぼくと何かを話したいと思っても、言葉を発した瞬間に、泣き崩れてしまう自分をわかっていて、だからこそ、話したいと思うのに、やはり言葉を発することはできない、そんな声で、どうにか、お兄ちゃん、とだけ口にした愛菜は、静かにぼくの隣に立って、そっとぼくの左手を握った。
「愛菜」
ぼくは母の存在が薄まる境界を、見定められずにいた。あのどの辺りから、母はぼくたちとは遠く離れた存在に変わってしまうのだろうか。田園の只中に立つ、高い煙突から延びる白い母の影。早稲の鮮やかな緑と、黒いのっぽのシルエット。白い入道雲と濃い青空。世界はこんなにも色に満ち、光り輝いているのに、妹の顔にだけは色がない。あらゆる色が存在していて、そして、色がない。それが耐えられず、ぼくはしゃがんで、妹と向き合った。
「泣いて、いいんだよ」
その言葉が堰を切ったようだった。無表情は一変し、愛菜は顔をくしゃくしゃにして泣いた。大きな泣き声が青い空に広がって、ぼくもそれにつられて泣いた。妹ほどの大泣きではなかったと思う。むせび泣くように、泣いた。
父が逝ったのは、愛菜が一歳になる前だった。だから愛菜は父親を知らない。それはぼくと、ちょうど対になる偶然だった。
ぼくの本当の母親が、父を捨てて出て行ったのも、ぼくが一歳になる前だったそうだ。何が原因だったのかは、父は話してくれなかった。ただ、話すつもりではいたらしく、お前にも理解できるようになったら、必ず話すよ、といつも哀しげな笑顔と共に言っていた。いまとなってはその理由は、終にわからず仕舞いになってしまった。交通事故で突然、ぼくの前から去ってしまった父に、その理由を聞くことはもうできない。
一歳になる前の愛菜と、父が再婚した女性が、五歳のぼくの家族になった。ぼくは子供ながらに、逝った父の代わりにならなければ、と決意した。子供である自分の力不足を理解して、自分できることで、精いっぱい、父が愛した女性の力にならなければならない。そんな使命感を心に宿した。しかしそれは、始め、使命感だけの感情ではたぶん、なかっただろう。心のどこかにある恐怖を、自分は役に立てるのだ、と示すことで、埋めようとしていた。
また、捨てられるかもしれない。
顔も知らない実の母親に、父親と置き去りにされた恐怖が、ぼくの胸の奥に、頭の片隅に、きっと宿っていた。それが蛇のように首をもたげようとする。そんなことはない。そんなことはもう起こらない。そう言い切っても、実の父を亡くしたぼくには、恐怖を払しょくすることはできなかった。だって、一つ屋根の下にいるのは、血のつながりのない、女性なのだから。
それがわかっていたのだろう。父の再婚相手の女性は、父の葬儀が済んだ日、ぼくと二人きりになると、こんな話をした。
貴くん、これからもよろしくね。
貴くんとわたし、二人で愛菜を育てようね。
ぼくはその言葉を聞いた時、父の葬儀中よりも、大きな声で泣いたのを覚えている。誰かに頼りにされること。ここにいていいのだ、と言ってもらえることが、これほどうれしいものなのか、と知ったのは、たぶん、唯一の親族を喪ったあの日だった。あの日、父の再婚相手はぼくの母になった。
だからぼくは、自分の中の恐怖を埋めるためではなく、懸命に、父の代わりを努めようとした。そのあたりのことはどうなっていたのかはわからないが、父の死によって降りた保険金と、事故の慰謝料を含めても、生活は決して楽なものではなく、母はぼくたちを育てるために、毎日働きに出なければならなかった。しかし、母は文句ひとつ、愚痴の一つも漏らさなかった。本当は疲れているはずなのに。辛いはずなのに。だからぼくもより懸命になった。母から様々なことを教わり、自分にできることを少しずつ増やしていった。愛菜のおむつを替えて、母が作り置いた離乳食を食べさせ、ミルクを作って飲ませた。愛菜が保育園に通えるようになると、小学校の帰りにぼくが迎えに行った。
愛菜は、そうしたぼくと母の経緯を知らない。父親を知らないのと同じように、ぼくが父親の連れ子であったことなどを知らない。自分は、母が父と結婚する前に、別の男性との間に生まれ、実の父に捨てられたことを、妹は知らない。ぼくたちは日々、生きることに精いっぱいで、懸命で、だから毎日が輝いていた。ぼくは母と愛菜と過ごした時間を思い出すと、楽しい思い出しか出てこない。一般的な家庭の、どこかに旅行したり、おいしいものを食べたり、ということはほとんどなかった。それでも、ぼくたちは生きることそのものに一生懸命だった。だから、毎日が楽しかったのかもしれない。そんな風に思う。そんな時間の中では、過去を振り返って話す時間など、ぼくにはなかったし、きっと母にもなかったと思う。だから愛菜は、ぼくと血のつながりがないことを知らない。
「愛菜」
真夏の日差しの中、おかっぱ頭の下で、顔をくしゃくしゃにして泣く愛菜に、ぼくは伝える言葉を決めていた。泣いていいんだよ。あの偉大な母が逝った。進行の早い病気だった。それでも母は、最期の瞬間まで、治ることを信じていた。戦っていた。ぼくたちに惜しみない愛を注いてくれた。そんな母が逝った。こんな時は、泣いていいのだ。そして、
「これからもよろしくね」
愛菜は一瞬、びっくりしたような顔をして、また泣いた。真夏の空に、その大きな声は吸い込まれていく。きっと、あの薄くなった煙の向こうにいる母にも、この元気な声は届いたはずだ。
これでいいんだよね。
在りし日に、母がぼくに掛けてくれた言葉。それと同じものを愛菜に聞かせたぼくは、泣きじゃくる愛菜の肩越しに、立ち昇る白い煙を見た。そこに母がまだいるような気がした。
それから、ぼくたち兄妹は、母の妹夫婦に育てられた。
叔母夫婦には子供がなく、母によく似た性格の叔母は、ぼくたちのことを本当に大切にしてくれた。義理の父となった叔父も、彼からすればぼくなど、血のつながりどころか、一切のつながりがない存在にも関わらず、懸命に働いてぼくらを育て、中学生になった時には、ぼくの進路について、真剣に話し合ってくれた。そうして少しずつ、少しずつ、本当の家族になろうとしてくれた。
こんなことがあるんだなあ、とぼくが自分の歩んできた人生を、初めて振り返ったのは、高校卒業を間近に控えた、十八の早春だった。あの日、母を亡くしてから初めて、ぼくは自分のこれまでの生活を振り返った。中学生になった愛菜と二人、自室でコーヒーと紅茶を間に挟んで向き合い、そんな話をしたことを覚えている。そう、あの時も愛菜がぼくのことを、会話の隙間で、お兄ちゃん、と呼び、あの灰色の表情を見せた。様々な感情が入り乱れ、色が混ざり合って色を無くした表情。何か話したいことがあるのか、と訊くとうつむき、紅茶に手を伸ばしたあの日の愛菜は、それまで見て来たどんな様子の愛菜よりも大人びていて、ぼくの幼い記憶に刻まれた、赤ん坊の愛菜の姿とは重ならず、めまいにも似た感情を一瞬、抱いたことを思い出した。
「お兄ちゃん」
そう、ちょうどこんな風に。
「きれいだな」
目の前にいる愛菜は白いウェディングドレスに身を包んでいる。これまで見たことがないほど、きれいにメイクアップされ、純白のドレスに身を包んだ姿は、やはりぼくの幼い記憶に刻まれた、幼い妹の姿には重ならず、めまいにも似た感情を抱いた。
三十を目前に控えたぼくに、妹から結婚する、との知らせが来たのは一年ほど前。それから愛菜は式の準備に奔走し、この日を迎えた。愛菜は大学を出た後、大手企業に就職し、そこで知り合った男性に、猛烈なアピールをされ、結婚までに至っていた。正直なところ、どんな男だ、とぼくは心配したのだが、会ってみた瞬間、ぼくは彼に自分の父の姿を見てしまった。何が似ている、というわけではないと思ったが、どこか似ていた。それが、ぼくが、彼の男性と妹の結婚を許した理由だった。
「ありがとう……」
愛菜は、特別活発な方ではないが、かと言って根暗ではない。しかし、灰色の表情に覆い隠された状態では、暗く、沈んだ印象ばかりが目立ってしまう。感謝の言葉を伝えられても、歯切れが悪い。
「よかったな、愛菜」
「お兄ちゃん!」
急に大きな声を出すので、ぼくは驚いて周囲を見た。式場の新婦控室には、愛菜に衣装を着せ、メイクを施したスタッフが数人いたが、いまさっき、退室していったところだった。そろそろ挙式の時間になるため、別のスタッフが来ると言っていた。
ぼくと愛菜、二人だけになった部屋で、愛菜はぼくの顔を見上げた。つい先ほどまでの表情の色のなさは消え、代わりにいまにも泣き出しそうな顔ををしていた。あの夏の日、母を見送った空を思い出した。
「わたし、知っていたよ」
ぐっ、と、ぼくの胸のあたりが、急に息を吸えなくなった。
「知ってたんだよ」
何を、と訊かなかったのは、ぼくがそのことに、どこか気が付いていたからかもしれない。気が付いていて、それはない、と思っていたからかもしれない。
「愛菜」
拗ねた子供のように、少し俯いた妹に、ぼくは一歩近づいた。正面に立つ妹はもう、ぼくの知っている妹ではなく、愛菜という一人の女性としてそこにあった。
夏影 せてぃ @sethy
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