オハシとタコ

 小橋雅一おはしまさいちの一日は、幼馴染である太田おおたことみを起こす時から始まる。

 勿論それに辿り着くまでの起床・支度・朝食等の行動は済ませている。済ませているが、考えているのは「如何にしてタコを起こそうか?」その一点である。

 例えば、この日は三か月前に一度試した起床方法を再利用した。そのままでは味気ないので、アレンジを加えた上で。

「おはよう雅一君! 悪いんだけど、今日もお願いね」

 苦笑しながらことみの部屋を指差す彼女の母親にひとつ頷いてみせてから、彼は階段を上り躊躇いもなく部屋の扉を開ける。長年慣れ親しんだ扉は音もなく、雅一が通れる道を作った。見えるのは、考えるのはことみのことばかりである彼は、すぐにベッドへ近付いて、手をポケットに忍ばせる。取り出したのはタオル地のハンカチに包まれた小さな保冷材だった。

 一度幸せそうな寝顔のことみを目視し、空いている左手を宙に浮かせ。

 雅一は、彼女の首の付け根に触れるよう、そっと保冷剤を枕に置いた。

「ぴひゃあああっ?!」

 途端、小動物のか細い悲鳴に似た声を出して、ことみは反射的に飛び起きる。しかし起きた先の顔には、普段の景色ではない、他人の手のひらという壁が立ちふさがっており。

「びふ!」

 べちんと情けない音が、雅一の悪戯の締めくくりとなった。


 補足すると、太田ことみは決して朝に弱いタイプではない。ただ単純に、雅一がことみよりも早く起床し、早く彼女の部屋へ侵入し、起こすと称して悪戯を行っているだけである。

「もう、オハシくん酷いよ~。折角良い夢見てたのに!」

「へえ、どんな?」

「なんだったっけ……」

 毎日毎回繰り返される雅一の悪ふざけに、ことみは本気で怒らない。多少口を尖らせることもあるが、すぐに意識が別の方へ向けられてしまう性格に起因するものだった。二人が喧嘩をしたことは、今まで一度も無い。

「思い出したあ! 色んな種類のドーナツ、いっぱい食べてる夢! えへへ、嬉しかったなあ……」

「後から代金請求されて、タコが泣くのは分かった」

「ひえ! 嫌だよお~」

 朝の通学路を歩きながら他愛のない話をぽつぽつと続けていく。この道を使っているのは雅一とことみしか居ないために、必然二人きりとなる。しかし彼らはあくまで幼馴染。交わされるのは甘さも何も無い、気楽な会話であった。

「あ、でもねでもね! オハシくんが一緒に居たから嬉しくて楽しくていっぱい食べちゃって……えーっとつまり、オハシくんが何とかしてくれたと思う!」

 驚きの声と共に思い出し、はにかむように笑い、満面の笑顔を見せ。そんなことみに対し、雅一は変わらぬ声色で、冷たく告げた。

「俺なら泣き叫ぶタコを置いて帰るわ」

「そんなあ!」

 酷いよおと泣き声染みた呻きを上げることみを見て、彼は薄く笑った。

 二人の様子は今日も変わりなく、綻びなく、揺れ動かず。


 彼らの通う高校に近付くと、他の学生の姿も通学路に現れ始めた。部活動を始めるには遅く、どんなにのんびり歩いても遅刻にはならないであろう時間。やがて運動部の活動している様子が目に入る。その中にクラスメイトの姿を確認しつつ、雅一たちは校舎に入った。

 靴を履き替え教室に向かう。二年二組が彼らのクラスだ。雅一がとんでもなく覚えやすいと思う一方で、ことみは何度か入る教室を間違えていた。

 教室には、既にそれぞれ仲の良い友人が登校していた。雅一の元には春雨更太はるさめこうたが、ことみの元にはむらさきゆかりがやって来る。四人で雑談や昼食を取ることもあるが、基本的には同性の相手と学校では過ごしているのだ。ふ、と雅一とことみは別れて、声を掛けてくれた相手と話し始めた。

 雅一に手を振った更太は、多少離れた場所に立ったことみを一瞥した後、小さい目を更に細めた。拍子に彼の白い歯が垣間見える。良く言えば明るい、悪く言えば軽薄な言動の更太が最初に話のネタとして採用するのはことみである。

「オハシ、今日は太田にどんなちょっかい掛けてきたの?」

「起こす時に保冷材使った、のと革靴に新聞紙ちょっとだけ詰めた」

「地味にこすいコトしてんなあ! いや、前者は結構派手か?」

 楽しそうに笑った後ふむと思案する更太に、雅一は身振り手振りを止めて、奥に居ることみの姿を見た。先程から変わらず、友人ゆかりの席で楽しそうに話をしている。声が届きそうな気配は無い。

 このようにことみの様子を確認する必要があるのは、雅一の目の前に居る男が冗談で「失言」した場合、それが一番聞かれたくない相手の耳に入ってしまうのを避けるためである。今日は、声量を遠まわしに諫めたり話題に気を遣ったりする必要は無さそうだ。

「嫌がりはしたけど、他と比べるとそうでもないから、派手では無いな」

「重要視するトコそこかあ。いや、そうだな。けど毎度毎度飽きないね、今日はあと何すんの?」

「一つ、教科書を鞄から机の中に移動させておこうかなと思うけど、後は決めてない。授業中考える」

「うわあ、太田慌てそうだな~! カワイソー。オハシに虐められちゃって。それなのに……」

 意味深に言葉を切って、更太はことみ達へ視線を送った。釣られて雅一も再び様子を伺う。くすくすと穏やかに会話をしていた彼女達が、二人に気付いて同じように更太達を見つめる。瞬間、ぱちりと更太が顔を戻し、ことみが雅一に向かって笑いかけ、手を振った。

 朝礼前の独特な時間がもたらしたその一瞬は、雅一にどこか逢瀬染みたもののように感じさせた。……という考えはすぐに振り払う。愉快な思考だなと反射的に自虐を飛ばすと、僅かばかり羞恥が込み上げてしまい、悪循環に陥りそうなので無理やり中断した。

「いやー、それでもオハシを愛す太田は健気だねえ」

 その時、更太が話を再開したので乗ることにした。話の内容は丁度正反対だ。阿呆な思考は雅一の片隅に追いやられた。

 顔を戻す一瞬に、雅一へ笑いかけたことみを見ていたらしい。

「違うっつってんだろ。誰にでもあんな感じで笑ってるじゃん、アイツ」

 雅一のやや乱暴な言い方を気に留めず、更太は笑みを崩さないまま大仰に教室を見回した。それから肩をすくめるポーズ。彼が「そんな事ないだろう?」と言外に述べているのを雅一は嫌々ながら察した。こんな会話を続けるのは不本意だ。しかし、朝礼という強制会話遮断機能はまだ発動に時間が掛かる。

 一先ず、席に移動することで話が変わらないか期待を掛けた。鞄を開け、時間割を確認し。今日一番嫌な科目は何だろうか。

「そういやハルサメ、今日の体育って持久走だったっけ?」

 目に付いたのは両者苦手としている体育の二文字だった。そう発すると途端に更太の顔は苦いものとなる。痩躯を体現した二人は見た目通り体力がない。既に体格差も表れている高校生としては、なかなか苦痛の時間である。

 彼の問いに、更太は渋い面持ちで頷いた。

「そうそう。女子に混ざって十分で終えてえなー」

 男子は女子より五分長い時間となっている。男女で充分な性差が出ている時期だが、それを棚に上げて更太は不満を漏らす。運動神経よりも何よりも基礎体力が足りていないと自覚しているので、その限界を測る持久走は酷く億劫だった。雅一は話が逸れた手ごたえを感じたが、すぐ体育が手間という面倒さに塗り潰されていく。

 二人揃って、重い溜息を吐いた。

 朝礼の時間が近付くと、学生は徐々に席へ着き始める。担任である甘粕千代子あまかすちよこが軽やかな足音を立てて教室に入り、教壇に立つ。ほころぶような笑顔を浮かべて挨拶する千代子は可愛らしく、年下の生徒たちも和んでしまう有様だが、雅一は幼馴染への悪戯方法を思案することに回帰していた。

百舌鳥もずさーん」「はい」「薬宮くん」「はあい」「米原くん」「はいっ」

 千代子の出席を取る柔らかな声も右から左へ通り抜けてしまう。もっとも雅一の出席番号は二番なので、残りの時間は聞き流すだけで問題ない。クラスメイトの名前を全員覚えてはいないが、米原光史は、最後だけあって覚えている。出席確認が終わり、連絡事項の伝達が始まるかもしれない。雅一は千代子へ多少意識を向けることにした。

 一瞬だけ、彼はことみに視線を送る。――幸せそうに手帳を開いている顔は大勢の人間が「微笑ましい」と頬を緩ませるものだろう、と。思わなくもないが。それだけだ。


 どの学生にも担当教官にも重い時間である「四限の体育」が終わると、昼休みが始まる。予め食欲が減退している状態を予想していた雅一は、着替えを済ませた後、多少空いた購買で軽めの食事を購入しようと決めていた。道連れは疲れ切った笑顔で雅一の予定に賛同した更太である。

「コロッケパンとハムカツサンドにしよう」

「えっ、オハシ……」「嘘だよ。食える訳ないだろ、俺が」

 冗談を交わしながら体操着と財布を持ち購買へ歩く。教室に戻ると遠回りだったため、予め小銭入れを所持している。更太は後から話を聞いたので、後払いで購入を雅一に任せた。

 疲れ切った体にも優しい昼食を手に入れ、雅一たちはさっさと購買を後にする。昼時の校舎は賑わいを見せており、くだらない会話や校庭で元気に運動する声が響き渡っていた。初日であれば胸高鳴ったであろう光景も、繰り返されれば取るに足らない日常の一コマである。それよりも、五限英語の小テストをどう乗り切るかが差し迫った問題だった。

「(単語帳を鞄から机に……は焦ってお昼休み全部使いそうだから止めとくか。そもそも家に忘れてそうだな、タコの場合)」

 雅一に限っては、ことみへの日課が済んでいないことも可及的速やかに解決せねばならない問題であるのだが。

 教室への道を歩く二人に、ハプニングが発生したのはその時だった。

 先程まで喧騒として捉えていた他人の声が、途端明瞭に届いてきた。

「小柳先輩……す、好きです! 良ければ意識してください!」

 その言葉が周囲に聞こえた瞬間、彼らは示し合わせたように動きを止めてしまう。小テスト範囲の単語は頭の片隅に追いやられ、少しでも重要な現場を目撃したいと声の傍へと這い寄る。体が勝手に。いつの間にか。

 運が良いのか悪いのか、告白をされた相手は既知の同輩であったのだ。健気でたどたどしい言葉を紡いでみせた一つ下の彼女はどんな学生なのか。雅一の元へ、更太の無言の視線が飛んでくる。見返し、頷き合う。まず現場である一階の踊り場近くへ、こそこそと移動。次いで、聞こえない振りをしながら階段を上り、声が届くであろう段で止まった。

 存分に周囲を警戒しながら、そっと耳を傾ける。あわよくば多少覗く。そんな心持ちで彼らは待ちの姿勢に入った。食事とテスト勉強に宛てられる休み時間は刻一刻と減っていく。

「えーと。意識、かあ」

 そんな覗き魔二人には気付かず、小柳環こやぎたまきは学ランの襟元を引っ掻くように撫でた。顔見知りの後輩に呼び出されたと思いきや早々に思いを告げられ、彼は困惑しているのであった。ペースが掴めないのである。何を返せばいいのか、自分の気持ちはどう形容出来るのか。思考が追い付いていない状態だった。許されたのは鸚鵡になることだけ。

「はい。その、まだ先輩が私のこと好きじゃないのは分かってるので。き、嫌われないでいてくれたら嬉しいです」

 一生懸命重ねられる言葉も、今の環にとっては多方面から繰り出される波状攻撃以外の何物でもない。何度経験しても、慣れないものは慣れないのであった。

 鸚鵡にすらなれなくなった環の返事を、後輩だけでなく雅一たちも焦れながら待ち続ける。

 ――後輩チャン、結構テンパってんな~。

 ――配慮と緊張と本音って感じだな。

 二人は階段の手すりを壁代わりに隠れながら、耳打ちでコメントを述べる。揃って知り合いでない方の観察をしていた。その理由を論じたい気持ちを抑えつつ、雅一は改めて現場の様子を眺めてみる。微動だにしない環と、見るからに落ち着かない素振りの後輩女子。

 いっそのこと、振ってしまえばいいのに。

 ふと胸に去来した思いを、雅一はつい、口にしてしまいそうになった。

 それは僅かな気の緩み。……結果として、滲み出た感情が言葉になることはなかった。環が突如として盛大な溜息を吐いたからだ。

 環本人としては、告白を受けてから続く、自身に纏わり付く怨霊のような困惑を振り払いたい一心だった。このままでは返事もままならないと危惧したのだ。しかし、結果として周囲(彼にとっては後輩一人)の受け取り方は真逆である。彼女からの一生懸命な告白を、重いものとして処理した形に見えてしまう。幸運だったのは、環がそれにすぐ気が付いたことだった。――あああ、コレ俺ただの最低な奴だ! この場で一番焦っているのは、言うまでもなく環である。

「違うちがう……ごめん、気持ちは嬉しいんだ。ただ混乱して返事もロクに考えられなくて、その、待ってくれると嬉しい。ごめんね……気持ちは本当、嬉しいよ。有難う、滑川なめかわさん」

 先程の彼女以上にしどろもどろになりながら、今出来る最善の言葉を絞り出す。環は本心を伝えた。誠意を見せたつもりだった。だがしかし、この場で取る対応として、不適切だと言わざるを得ない。後輩は、環の意思を汲み取れなかったからだ。

「わ、私の方こそ、先輩を困らせちゃって……ごめんなさい!」

 必死に謝罪の言葉を吐いて、彼女はその場から逃げ出した。告白を最悪の形で拒絶されたようにしか思えず、惨めで辛く、消えてしまいたい一心だった。

 彼女が走り出すと同時、静かに素早く立ち上がって階段を上り始めたのは雅一と更太である。後輩の言葉を聞き、早急にこの場を離脱しなければならないと反射的に立っていた。何より環に見付かってはならない。何故なら、彼のことを此方が一方的に知っている関係だからだ。

「……あああー、またやっちゃったなあ……」

 小柳環は、二年生の中では少し名の知れた存在だった。人当たりが良く、ムードメーカーで、文武両道。所謂、「学年のモテ男」として挙げられる存在である。

 そんな彼も色恋沙汰には不器用なのだなという雑感を、更太は雅一に声を掛けながら、脳内に浮かべていた。その時雅一は更太より一分早く、残りの昼休みがかなり限られている事実に気が付いて、手のレタスサンドを潰しそうになっていた。


 眠気と戦う五・六限が終わると、学生に嬉しい放課後の時間がやってくる。――小テストの結果は目も当てられないが(結局雅一も更太も、成績への危機感より食欲が勝った)、七月の期末考査を乗り切れば良いのだ。後のことは、未来の自分が何とかしてくれる。そんな他人任せに期待しながら、雅一は学校鞄を手にことみの席へと向かった。揃って帰宅部のオハシとタコは、相手に用事が無い限り共に下校している。

 のんびり屋のことみは、支度もゆったりしたペースで行う。未だ配布物をクリアファイルに仕舞っているところだった。雅一が後ろから覗き込むと、鼻を鳴らすとも声を出すとも区別が付かない音を上げながら、彼を見上げる。動く拍子に切り揃えられた前髪が流れ揺れた。

「オハシくん、準備早いねえ」

「タコが遅いんだよ」

「そお? あっそうだ! 六限の古典の教科書、鞄の中に入れておいたのにこっそり出したの、オハシくんでしょう!」

「うん」

 雅一が隠す理由も無いため肯定すると、ことみは朝と似た表情で酷いよおと返した。しかしすぐに柔らかな笑みを浮かべて、片付けを再開する。

「すごく焦ったよ~」

「腹抱えて笑いそうになるくらい焦ってるの、ちゃんと見てた」

「うう~……」

 恥ずかしや。ぽつりと呟きながらもことみは穏やかな楽しさに包まれていた。お決まりのやり取りだとしても。好きな相手と過ごす時間は温かく居心地が良い。

 ことみにとって雅一の悪戯は、彼なりの親愛表現だと認識している。長年付き合ってきた幼馴染だからこその交流だと。実際その通りで、彼は深刻な事態に陥るような嫌がらせは行わない。ことみの反応を見て、楽しむだけだ。もっとも、彼女が些細なことに頓着しない性格だからこそ成立している付き合い方ではあるのだが。

「ほら、早く」

 無防備に晒されていることみの頭に、雅一は手のひらを乗せる。詳細に述べるならば、手を乗せるように軽く叩くといった方が適切で、べしんと緩い音がする。

 驚きと咄嗟の反応が混じった「わい!」という返事と共に、ことみは片付けを再開した。右へ左へ、机に座って支度を整えるだけでやたら慌ただしい。跳ねた毛先がひょこひょこと揺れているのを眺めながら、雅一はことみを待つことにした。時間に追われる事情もない。急かしたのは、慌てる彼女が見たかっただけだ。

「オハシ、太田、また明日な~ごゆっくり!」

 声の主、更太はそう言い残すとさっさと教室を後にしてしまった。明らかに二人の仲を揶揄う言い回しだが、雅一が反論する隙を与えずに。鮮やかな逃亡だった。ことみの反応が気になった雅一は溜息を溢した後、彼女を一瞥する。

 ことみは普段通り、楽しそうに笑っていた。更太が声を掛ける前と変わらずに。雅一は安心すると同時に、当然だとも思う。更太が、幼馴染と言えど距離が近い雅一とことみを冷やかすのは、時折行われる、「日常」に変わりない。

 やがて彼女も支度を終わらせ、おもむろに立ち上がった。

「お待たせ~」「ん」

 この場面だけ切り取れば、成程確かに恋人のそれのようだと、雅一も思わなくもない。ただ、ゆるりと笑うことみの顔を見ると、そんな気持ちも失せてしまうのだ。


 肩を並べて下駄箱へ歩く。話す内容は普段通りの雑談だ。体育は何をするにしても面倒臭い、五限の小テストは大変だった、エトセトラエトセトラ。話を選ぶ必要のない相手であれば、実の無い話はいくらでも出てくるのであった。

「そう言えば今日、お昼休みにさ」

「あ、ハルサメくんと二人して帰ってくるの遅かったよね~。どうしたの?」

「告白現場を目撃した」

 雅一が確認出来たのは、ことみが目を丸くした様子だけだった。二人の会話を強制的に中断させる、大音声が響いたのだ。

「楽吾ォー!! どこ行ったこらー! らーくごーォ!!」

 突然の叫声に、雅一も返事を掻き消されたことみも固まってしまった。そういえばお昼の時もハルサメと似たような状況になった、と雅一は脳の片隅で思う。しかし前回と異なるのは、大声を上げた人物が、二人の横を走っていったことだ。現場はあっという間に過ぎ去ってしまった。雅一もことみも、おさげで背が低い女学生という事しか分からなかった。

 何だったのだろうか。彼らの中に、何かが入り乱れた、収拾のつかない雰囲気が生まれてしまう。どうしたものか。ピイッと校庭から届くホイッスル。

 先にペースを取り戻したのはことみだった。雅一の発言を思い出し、再度驚いたのだ。

「ああ! 告白!」

 雅一がその短い単語だけで意図を察したのは、幼馴染故の理解度の高さだろう。

「そうそう。あの、顔と性格が良いヤツ。三組の、小柳だった」

「わあー!?」

 配慮の欠片も感じられない雅一の言葉に、ことみが慌ててしまう。誰かに聞かれてはいないか、周囲を見回したが人は遠い。彼女はほっと胸を撫で下ろす。遅かれ早かれその話は学校に流れるだろうが、話題性の大小は時期や内容によって変動する。自分たちから噂が大きくなるのは抵抗があった。

 歩みを再開し、遠い場所になっていた校門を通り過ぎる。終礼から微妙に時間が経過したため、下校する生徒は少なかった。届かないと分かりつつ、つい、ことみの声は小さくなる。

「それで、その、小柳くんはどうしたの?」

「返事は待ってて欲しいって言ってたけど、どうだろうなあアレ。体良く断るための台詞にも見えた」

「そ、そうなんだ……!」

 ほうと息を吐き出すことみの様子に、雅一は一瞬足を止めた。彼女がそれに気付く前に、普段通りを意識し、話の流れとして違和感のない疑問を投げかける。

「やっぱり小柳は気になるか?」

「うん。恋ばなバナになるとよく話に出るし、これでイエスだったら結構騒がれてたんじゃないかなあって……」

 ことみは他人の恋愛事情に踏み込む気まずさと、ゴシップ独特の高揚感で、眉を曇らせつつ微笑んだ。これは、近場で発生した美味しい話題につい釣られただけの傍観者。そう判断を下して、雅一は微かに息を吐きながら返事をした。

「まあ、小柳だしな」

 面白味もない言葉だが、ことみが特に気にすることはない。彼女はそれよりも知らない告白の相手が誰なのかに意識を割いていた。しかし、そこまで聞いてしまうのは良心が咎める。もう物凄く咎めてくる。

 結局二人ともこの話題からは離れようという結論に至ったのであった。


 学校から二人の暮らす住宅街までは歩いて二十分程の距離にある。バスは出ているものの本数は少ないので、殆ど使うことはない。

 見慣れた道を、革靴で踏み進む。時折車が走るので、その度に雅一はことみの手を引いて路側帯の内側へ誘導してやった。彼女は有難うとお礼を言い、雑談を再開し、またふらりと車道を歩く。足取りはゆったりと。雅一にはその姿が、スローテンポの曲に合わせてステップを踏んでいるように見えた。

 小さい頃から共に過ごして来た幼馴染の筈なのに、時折遠い存在だと感じてしまう。彼の予想斜め上をいく発言が飛び出す場合がある……のも一因だ。理解していると思えば捉えどころのない言動を見せる。当然、ことみにその自覚は無い。――次第に小橋雅一じぶんの知る太田ことみかのじょは失われ、変わっていくのでは。雅一が寒気のする危機感に襲われたその時、彼女は立ち止まり、くるりと振り返った。心地よい沈黙に綻びが生まれる。

「オハシくん、あの、家に着く前にちょっと、いいかなあ?」

 ことみの、躊躇いと羞恥で赤く染まった表情に、彼はすべての機能が止まった心地がした。

 今まで考えていたことが一瞬で吹き飛ぶ程の破壊力。この十六年間ついぞ見た覚えのないその顔。遠くで落ちる夕焼けの所為だと思いたい、冷静になろうとする雅一の思考が正常な活動を放棄してしまう。

「なに?」

 辛うじて、単純で端的な二文字を返す。動悸で浅い呼吸を繰り返してしまいそうになるのを必死に耐え忍ぶ。今彼の脳内には「落ち着け」「どうせ」の二言が明滅していた。単語を繋げて言葉にすることすら出来ない。

「ずっと言いたかったけど言えなかったことがあって、ね」

 勇気を振り絞ることみに、雅一はこくりと、ひとつ頷いて返した。昼間見た環の挙動を笑えない有様だった。

 彼女は意を決そうと、両手で握りこぶしを作る。それでも落ち着かず、親指が何度も人差し指の横を撫でた。目の前で狼狽える雅一の様子に、意識を割く余裕はない。

 お互いいっぱいいっぱいの状態で、彼女は、その言葉を振り絞った。

「あのね……今度のOTO君のライブ、一緒に見に行って欲しいの!!」

「うん……だろうな」

 つい、虚脱しきった声で、雅一は返事をしてしまう。――だろうな。何度でも言いたい。いや言いたくない。

 分かっていたのだ。期待をした自分が悪いと。どうせタコが夢中になっているアーティスト関連だろうと思っていたし、実際その予想は的中した。外れることを恐れて余分に申し込みをした結果、どちらも当選してしまい、無駄にしたくなかったとかそういうオチなのだ。

 雅一の予想は大体正解していた。ライブが週末に近付いていると、盛大にはしゃぐことみの言葉が彼の耳を通り過ぎていく。それでも彼女は雅一の「うん」という反応を肯定と受け取り、先程までの恥じらいが夢だったかのように嬉々として話を進めていった。

「OTO君に会えるの、半年振りだあ……! えへへ、着ていく服、もう決めてあるんだよ!」

 週末が待ち遠しくて堪らない。早く会いたい。それは紛れもなく、届かない相手へ恋焦がれる乙女だった。

 太田ことみは、一人の歌手に本気で恋慕っており。

 小橋雅一は、そんな幼馴染を長い間恋偲んでいる。

「帰ったら、そっち行くから。情報纏めておけよ。物販も行くんだろ」

「手伝ってくれるの!? 有難うオハシくん、だいすき!」

「耳元で騒ぐな、ウルサイ」

 やはり二人の様子は今日も変わりなく、綻びなく、揺れ動かず。

 傍に居ることが当たり前の時間が、過ぎていく。

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