とある一ページ

【3月15日(水)】

 物心がついた瞬間を覚えている人は果たして存在するのだろうか。おぼろげになってしまった記憶の中で、それに近いものを選び出すことは可能だ。

私の場合は幼稚園時代に、誰かが言っていた言葉である。漠然と先生ではなく友人だったような気がしているのだが、原初の記憶はあまりにも曖昧で断言が出来ない。

さて、件の言葉であるが、意訳であることを予め明記しておく。概ね間違っていないことは確かなので大目に見ていただきたい。

「もし一生引きずるくらいに悔やむことがあれば恐ろしいから、後悔しない選択をしたい」

 どこかで影響を受けたのだろう、と今ならば温かい目で見ていたそれを、当時の私はひどく感心して、まるで神様を崇め称えるかのように尊敬の念を抱いた記憶がある。話の前後は勿論、誰かさえ覚えていないのだが。

 そして何故この言葉について書こうかと思ったかは、今までの人生を振り返ると、自分はこの言葉が基盤となって生きてきたような気がしてきたからだ。最近になるまで「誰かに言われた」という事実すら覚えていなかったものの、私が成長し何かを決断する時、必ず根底にはその考えがあった。根底というよりも、最早体の一部となって染み付いていたのではないか? と浮かんだ。その仮定が、私には恐ろしいものに感じたのだ。

考えて欲しい。言われたことすら忘れていた話が、己の価値判断になっていたということだ。長い間一緒に暮らしていた人物の存在を、最近になって知ったようなものではないだろうか。透明な声を聞き続けて、その通りに生きてきた私は、本当に「私」と言って差し支えないのだろうか。

 突然アイデンティティが揺らいだことに、私は動揺せずにはいられなかった。過去を回想しようと思い至ったのも、精神的に疲れて何もかも放り投げたあとの話だったから、この事実は例えるならば風の刃に似た衝撃で、体を切り刻むようにショックを与えていった。

 自分とは一体なんだったのだろうか、とひとしきり泣いて、疲れて眠り、目が覚めたいの一番に、それが考えても切りの無い事に分類されるものだということを思い出して冷静になった。

今この場で明かしてしまったことを恥ずかしいと感じる程度には阿呆らしい考えに支配されていたものだと思う。生とは死とは己とは、といった哲学的な話を考えることは嫌いではないが、時間潰しに留まらねば思考は段々と病んでいく。アリストテレスもプラトンもまともに知らないような人間にとって潜考など毒にしかならない。失敗を犯さない程度に熟考すれば良いのだ。重たい部分は切り捨てて浮き上がらなければ溺死してしまうのだから。


 私は前述の通り後悔しない選択をするという使命感に似た願望を持ち続けていたが、それが正しかったのかを考察しようと思う。今更になるが、終始面白味もない文章となるだろうから、もし私以外の誰かがこれを読んでいるのならば、即刻やめた方が時間を無駄にすることも無いだろう。

もっともその前に私が捨ててゴミ箱に投げている可能性が九割を超えているが。


記憶に残る選択は何だろうか。少し筆を置いて考えてみたが、思い浮かぶのは高校受験だろう。具体的に言うと、受験が終わり合格通知が届いた候補の中からどれに通うことにするか、という選択である。

 第一第二と銘打っていたものの、希望度はどこも然程変わらなかった。最寄駅から近いとか、オープンキャンパスで見た雰囲気が良かったとか、それぞれに異なった印象は抱いたもののそれが決定打には届かない。

 ここで一歩踏み込んでもう一度高校へ赴いたり情報を調べなおしたりすれば、きっとまったく別の人生を送っていたに違いない。私は深く考えずに後者を選択した。お洒落な校舎で送る高校生活は素敵なものになる筈だと甘い見通しを立てて。

 結果としてこんな状況に陥ってしまった訳だが、あの選択を後悔しているかと尋ねられれば答えは否となる。肯定して、悔やんでいることを認めたくない感情が強い所為かもしれないが、何となくそれとは違う感情を持って否と解答しているように思う。

 理由はきっと楽しい思い出もあったからだ。友人には恵まれなかったものの、面白いと感じた授業や、美術の時間に先生から褒めてもらえたことがあった。

 そういえばまだ捨てていなかったはずだ。探してみる。

 見つかった。棚の奥にしまっていたので少し皺が出来てしまっているが、ちゃんと無事だった。日付を見てみると20××年の6月だったので、およそ一年半前の出来事である。

 心の中を切り取った絵という題で描かれたそれは、先生の意図から離れたものだった。心象風景を画用紙に映し出すことを嫌がった私は、中央にハートマークを描いた。通常のものと違い、その表面は何かに貫かれたような穴が開いている。文字通り心を切り取った絵に仕上げたのだ。

 描き直しは要求されないだろうと踏んでいた(一応説明を入れておくと、作品を仕上げるまでに数時間を要したし、その人は何かと甘い人で有名だった)が、その予想を上回って先生はその絵を褒めてくれた。自分を良い意味で裏切ってくれた、と笑顔で口にして、筆遣いや配色のセンスも良いと伝えてくださった。

 私は嬉しさと共に気恥ずかしさを感じてしまい、お礼と謝罪の言葉しか出てこなかった。自分の席に戻った後も高揚感で胸がいっぱいだったと思う。その時間が過ぎれば帰宅するまでは忘れてしまっていたが。

 そして自室で鞄の整理を始めた時に存在を思い出し、捨てる気になれなかったので棚に仕舞っておいたのだった。

 今その絵を見ていると、「何を意に反したものを描いて得意げになっていたのか」と客観視してしまい、以前とは別の意味で恥ずかしくなってくる。捨てた方が良いだろうか。この、何かに対するままならない気持ちとやりきれない思いを紙に込めて、びりびりと引きさいてしまうのも良いかもしれない。


 この拙い論文(と私は意識していた)が日記染みてきたので、一度小休止する。このままだと愚痴を喚き散らしかねない。

 頭を休めるついでに文章を読み返してきたが、漠然と自分の選択に関する願望は間違っていなかったように感じた。今の今まで根幹が不明ではあったものの、その気持ちが強かったお陰で後悔しない、したくないと思うことが出来るからだ。

人間は思い込みで死ぬこと可能なのを知ってから、それを短絡思考の産物だと馬鹿に出来なくなってしまった。地獄でも見方を変えれば天国になる、というのは私にとって救いのように感じる。

 先ほどの、願望が間違っていないという感情も思い込みかもしれないが、自分の気持ちが楽になればそれで良いのだと思う。

 加えて、後悔しない選択をするという生き方を否定してしまったら、今までの十数年も泡と消える気がするのだ。

 結局のところ、私は後悔するのが好きではない。これに尽きる。そして悔恨を残さないようにする一番の方法は、そういった感情が浮かばないようにすることだ。


 人生は死ぬことで終わりを見せないのではないか。むしろ、自分の命が消えることで、何かが始まるように思う。自分が遺した箱が開いて、誰かに、何かを与えるのだ。誰とも関わらずにいることなんて出来ない。良い影響か悪い影響かは受け手次第であるが、消えることは無いのだ。どこかに続いていく。自分が敷いた道のスタートラインに、誰かが立つ。

 死ぬことは、始まることだ。死期ならぬ、始期である。

そう考えると沈んだ心が少し浮き上がるようだ。


















【3月29日(木) 追伸】

 論文だ日記だと書いたけれど、今見ると遺書みたいだね(笑)

 


(了)

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