6/重大な出来事

 五十海東高には第一校舎と第二校舎、それに少し離れた場所にある小校舎と、合計三つもの校舎がある。


 最も古くに建てられた第一校舎は四階建てで、一階が校長室や職員室といった大人たちのエリア、二階が三年生教室、三階が二年生教室、そして四階が美術室や音楽室といった特殊教室の並びとなっている。


 その次に古い第二校舎は三階建てで、一階が理科実験室や被服室といった特殊教室の並び、二階が一年生教室、そして三階が科目ごとの教官室となっている。第二校舎もかなり古い建物なのだが、築五十年の第一校舎に比べればずっと綺麗だ。


 そのせいか、五十海東校の教師は授業がないとき、第一校舎の職員室ではなく、担当教科の教官室に詰めていることが多い。


 第一校舎と第二校舎には、東西の端に階段があり、中央に各々を繋ぐ二階建ての渡り廊下がある。この渡り廊下は、天気が良い日なら屋上も使えることになっている。


 そういうわけで、ぼくは第一校舎を三階まで下り、渡り廊下の屋上を抜けて第二校舎へと入った。


「失礼します」


 三階の英語教官室のドアを開けると、黴臭い臭いが漂ってきた。


「早かったな。まぁ、入れよ」


 拒否されることなど微塵も想像していないであろう朗らかな声はもちろん理浦のものだ。ぼくはこくりとうなずいて、室内に足を踏み入れた。


「先生ひとりですか」


「火曜日はたいてい俺一人なんだよ」


 そう言われて、英語教官のほとんどが運動部の顧問だということを思いだす。例外は英語部の顧問だけだが、確か英語部は毎週火曜日に近所の公民館で開催される英会話交流会に参加していたはずだ。学外の活動だから、桑田くわたも引率者として公民館に行ったのだろう。


「ま、そう警戒するなよ。別に叱ったりするつもりはないから」


 ぼくが思案顔をしたのをどう勘違いしたのか、理浦はそう断って、一枚のA4用紙を突きだした。


「これは?」


「二重丸がお前の学力なら問題なくいけそうな医大で、丸が要努力。三角はまぁ、それなりに覚悟しとけよ? っていうリストだな」


「この間の模試の結果と比べて随分と甘い見通しに思えるんですが」


「お前が本気を出せば何とかなると、俺は思っているよ」


 普段は暑苦しいしゃべり方をするのに、こういう時は妙に突き放したような口調になる。


 理浦は今年で三年目になる若手教師だ。運動部の顧問ではないが、山登りが趣味とかで、中肉中背ながら引き締まった体つきをしている。五十海東高出身ということもあり、生徒たちからはよき理解者として慕われているようだ。


「ああ、それから模試のことなんだが、東都医大に行こうっていう意気込みはわかるけれどもだ。第二志望を適当に書くってのは感心しないぞ」


「すいません」


「以後気をつけるように」


 屈託なく言ってから、理浦は大学選びのコツやら今後の課題やらについて懇切丁寧に話してくれた。ぼくはだから、医大の名前が連なったA4用紙を見つめることで、自分の表情を隠すことくらいしかできなかった。


 ようやく英語教官室を出たのは三十分後のことだった。


 理浦は廊下までぼくを送り出すと、親しげに微笑んでみせた。


「ま、俺もお前ぐらいの年齢の頃には自分の進路でかなり悩んだものだよ」


「そうなんですか?」


「そりゃそうさ。だから、お前が悩んでいることもわかるし、一介の教師なんかにはお前の悩みを解決できないこともわかっている。ただ、それでも一つだけ言えることがある。大学ってのは楽しいとこなんだよ、佐村」


「楽しいとこ、ですか」


「俺なんかアレだぞ?十八で東都に出てからろくろく勉強もしないで遊び回っていたものさ。麻雀、スノボ、それに合コン――」


 理浦は急にはっと口をつぐんだ。泳ぐ視線。その先を追って、後ろを振り返ると、津川先輩が腕時計をちらちらと見やりながらこちらに向かってくるところだった。


「はは、医者の卵をあまり悪の道に引きずり込まない方が良いな。それじゃ佐村、今週中には進路希望調査票を持って来いよ」


 とってつけたようにそう言って、担任教師は英語教官室に戻っていった。


「佐村君、どうしたの?」


「あ、いえ。ちょっと進路相談を」


先輩は一度大きく目を見開いてから「ごめんなさい、立ち入ったことを聞いてしまって」と頭を下げた。


「気にしないでください。それより先輩こそどうしたんですか?」


「えっと……その、部室に鍵が掛かっていたから」


 腕時計をしていない方の手にケーキ屋の紙袋を抱えている。

 ぼくを探していたのか。ありがたいやら申し訳ないやらで、思わず笑みがこぼれてしまう。


「コーヒーブレイクといきますか」


「うんっ」

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