2/不思議なお話

 津川先輩が音楽室に帰って行くとすぐにぼくは工具類の片付けを始めた。いつもなら下校時刻ぎりぎりまで作業をしているのだが、何となく志紀がぼくの帰りを待っているような気がしたからだ。


「そろそろ出るけど、志紀は?」


「一緒に出るー」


 そうなると家の方角が近いので、途中までは一緒に帰ることになる。


「彼氏と喧嘩でもしたのか?」


「んなこたーないですよ。順風満帆ってやつ」


「なら、良いんだけど」


 そもそもぼくは志紀がどんな男と付き合っているのかすら知らないのだから。


「そっちこそミヤちゃん先輩とはどーなのさ」


「どうって、コンクールに向けて一生懸命頑張っている人の邪魔をするつもりはないよ」


「えー、つまんないのー」


「はいはい。ぼくのことは良いから、前見て歩いて信号止まれ」


 信号が青に変わるのを待つ間、ぼくと志紀は何となく口をつぐんで、行き交う車の列を眺め続けた。いつものことだが、夕暮れ時の県道は年寄りの血管のように淀み、停滞している。


「でもさ」


 再び歩き始めたところで、志紀が言った。さっきまでとは、少しだけ口調が違った。


「和馬の気持ちは良いとして、いい加減デートに誘うぐらいしたってバチは当たらないと思うよ」


「もしかして、みゆきさんのことを言ってる?」


 ぼくの問いに、志紀は小さくうなずいた。


「うまく言えないんだけど、ここ最近のミヤちゃん先輩、あんまり余裕がなさそうに見えるんだよね。そりゃあ本気でピアノコンクールを目指すからには多少の無理はしなくちゃなんだろうけどさ。もし、今でも亡くなったお姉さんに対する使命感でそうしているなら、あまり健康的じゃないと思う」


 妙に心に突き刺さることを言う。


「ミヤちゃん先輩、どういうわけか和馬にはなついているみたいだし、和馬ならあの人がしょってる荷物をちょっとは軽くしてあげられるんじゃないかってね」


「――最初の気持ちが使命感だったとしても、それで全部というわけじゃないと思うよ」


「そりゃあそうかも知れないけど」


 なおも言葉を重ねようとした志紀だったが、ぼくの顔を見て引き際だと思ったらしく、はーあと大げさにため息をついて、口を閉ざした。


 国道と合流する五叉路まであと百メートル。帰りが一緒なのはあそこまでで、後はそれぞれ別々の道を行くことになる。


「なぁ、志紀」


「ほいさ」


「うちの近くで新しくできた喫茶店、ミルフィーユ・ロンが美味しいらしい。今度一緒に行かないか?」


 一瞬の沈黙の後で、志紀はぼくの肩をバシンと強く叩いた。


「台詞は平凡だけどタイミングは悪くなかったかな。あとは目をそらさないで言えば完璧」


 その返しが百点満点だよと心の中で呟きながら、ぼくは大げさに肩をさすってみせる。


「さて、それじゃ」


「うん、また明日」


 別れるときは手も振らない。お互いにそういうあっさりとした付き合いを好ましいと思っているからこそ、ぼくらは友達でいられるのだろう。


 だからぼくはいつも一人になってから志紀のことを心配する。


 ぼくは志紀がどんな男と付き合っているのかを知らない。


 知っているのはかなり年上の男だということくらいのものか。


 志紀はその男との関係に悩んでいる時に、ぼくに声をかけてくるのだろう。


 もちろん恋愛相談をされたことなんて一度も無い。


 ただ、志紀には気の置けない男友達とくだらない話をする時間だけが必要なのだろう。


 ぼくは志紀がどんな男と付き合っているのかを知らない。


 でも、未成年に発情して抑えることを知らない大人なんて――。


 どう考えてもろくでもないと思う。

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