鳥居に拐かされた話

猫柳ハヤ

鳥居に拐かされた話

 群青天鵞絨の天蓋から宵闇が降ってくる。

 目の高さの天はまだ朱く、青と混ざって昼と夜の境界を曖昧にしていた。

「……、」

 長く伸びる自分の影を踏みながら知った道を歩く僕を、呼び止める声が何処からともなく聞こえる。声は鼓膜を響かせる事なく、直接僕の聴覚へと届いた。

 足を止めて周囲を見渡す。すると道の脇にある生垣の隙間から黒猫が出てきて、僕の前を横切って藪の中へと消えていった。

 見送った黒猫の尻尾が消えた辺りで、不意に視界の端に朱色が灯る。僕は視線を下から上へと持ち上げ、黒猫が姿を消した向こうに見える小さな鳥居を目に留めた。

 果たしてこんな処に神社等有っただろうか。抱いた疑問に僕は首を傾げたまま、見慣れぬ鳥居の中を覗き込む。鳥居の足元に生える隈笹が鳴る音に混じって、先と同じ呼び声がした。

「……、」

 か細いその声音はどことなく遠く、聞こえた音量と一致せずに距離感を見失う。

「誰、」

 問うて目を凝らすと、朱色の柱の後ろから艶めかしい白い腕が此方に伸ばされるのが見えた。尖った肱と細い手首が夕焼けの橙に染まり、欲を刷いたように色付いている。

 知らずにこくりと咽が鳴った。

 惹かれるように踏み出した足の間を、黒猫がするりと通り抜ける。漆黒の毛並みが僕の足首を撫でて、最後に尾が絡み付く。見下ろした僕を見上げる翡翠の目が、すう、と細まった。

「君が呼んだのかい、」

 影の中の翡翠に話し掛ける。翡翠はくるりと夜を反射して、闇に融けていった。

 風も無いのにざわざわと生垣が啼く。耳障りなその音を塞ぎ、ぎゅっと目を瞑った。

 次に目を開けると、いつの間にか陽は落ちて辺りはすっかり暗くなっている。僕は朱く昇った月を仰ぎ見て、足早にその場を去った。




 鳥居は境界

 よおく、ご覧なさい

 鳥居の向こうに何が視えるのか

 何が、視えなければいけないのか

 何が、視えたらいけないのか




 逢魔が時にかくれんぼをしてはいけないよ

 闇に拐かされて、二度と此方へ戻って来られなくなるから


 独り歩く夕暮れに、塀の上から見下ろす黒猫がそう云って、にゃあ、と鳴いた。

「独りでかくれんぼなんて出来ないよ。」

 笑って返事をすれば、黒猫も目を細めて両の口の端を引き上げる。それは酷く僕の裡をざわつかせた。


 独りでは、ないでしょう


 黒猫は歌うように咽を鳴らし、翡翠を見開きその輝きで僕を射る。

「もう、いいかい、」

「え、」

 甘美な声音が僕を誘う。白く細い腕が朱に映えて、息を呑んだ。

 伸ばされた指先が僕の頤を捉え、ゆるりと撫でて離れていく。その間際、外耳に触れた指は酷く冷たくて、ちり、とした痛みを僕に寄越した。

「もう、いいかい、」

 声は柔いのに音は僕を強く縛り、身動きが出来ない。思考は既に意味を成さない。

「もう、いいかい、」

「……もう、」


 もう、いいよ


 ぐい、と白い腕が僕の肱を思い切り引く。その勢いで口から出た言葉が、鳥居の外側へと転がり落ちた。僕の視界は暗転し、内側と外側が反転した。

 僕の居る場処は黄昏に染まったままで、朱色の枠に切り取られた四角い風景だけが、夜の帳に包まれていく。翡翠色の蛍光が二つ、此処ではない闇夜で嗤っていた。






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