とある川のほとりで

綿貫むじな

とある川のほとりで


 とある川のほとりに僕は来ている。

 夜。

 街灯の明かりで照らされる河川沿いの道は妙に薄暗い。

 切れかかった灯りが時折明滅して、なぜだか不安を覚える。もとより人間は闇を恐れるからだろうか。

 うんざりするような夏の暑さは今年はなく、じとじととした長雨が延々と続いてこれまたうんざりとしている日々の中、今日だけは珍しく晴れていた。

 川を通りすがる風も肌に絡みつく湿気がなく涼やかで、もうすぐに夏が終わることを告げようとしている。

 そういえばこういうときに彼女と出会ったような気がする。


 前に彼女に出会った時、僕はまだ小学生だった。

 もう田舎も田舎、山の奥に住んでいた母方の祖父母の家に遊びに行っていた時。

 ふと気づけば彼女はいつの間にか僕の傍らにいた。

言葉は通じず、それでも子供特有の気軽さと気安さですぐに仲良くなり、山の中を二人で散策していた。

 まるで人形のように透き通った白い肌、陽光に輝く金色の髪、そして宝石みたいに美しい青い瞳。どれもこれも陳腐な表現なんだけど、僕にはそれ以外に形容しようのないくらいキレイだった。

 散策の後に祖父母の家に戻ろうとして迷って山の中で夜を迎えてしまったのは、今思い出しても肝が冷える。山の夜は灯りがなく、漆黒の闇の中に覆われた子供ふたりには成す術がない。あてもなく彷徨うしか術がなかった。そのうちに、彼女がいつの間にか姿を消してしまい、探し当てたと思ったらひとりでに勝手にどこかに行こうとして追いかけたら滝つぼに落ちてしまった。

 その後の事はよく覚えていない。気が付いたら僕は病院にいた。そして実は彼女は……という事を知って愕然とした覚えがある。


 川の上流、遠くを見ていた。

 暗くて何も見えない。見えるはずもない。

 足音が聞こえる。草を踏み分ける音。


 ああ、やっぱり。


 なぜだか僕は知っていた。来るだろうと思っていた。

 金色に靡く髪、透き通る白い肌に宝石のような青い瞳。何も変わらない。

 いや、子供のころよりも確実に美しくなっている。

 人の姿をしていながらも気配は全く違う。物の怪か幽霊か、

 微笑みをたたえながら歩く彼女に僕は見惚れていた。


「何年ぶりかしら」


 さあ、そんなことはもう覚えていないし、どうでもいいことだろう。

 彼女は靴を脱ぎ、川の浅瀬に足を浸ける。

 水の波紋が広がり消えていく。

 聞こえるのは流れていく水の音だけ。ほかに何もない。

 結構車が通るはずなのに、今は通行止めでもしているのか全くその気配もない。

 彼女が時折水を跳ねさせて戯れる音が聞こえてくる。


「君はなぜ、今更現れた?」


 問いかける。


「いつでも良かったよ。でもちょうど、今が一番いい時期だから。だって、日本では今の 時期がお盆っていうんでしょ? 死者が蘇るっていう」


 死者が蘇ったらそれはゾンビだ。


「違うよ。死者の魂が現世に帰ってくる日なんだ」


「あらそう。でもどうでもいいじゃない」


 彼女は水から上がり、僕に近づいた。

 呼吸が肌で感じられるほどに。その呼気も体温を含んでほのかに暖かい。

 そして僕の手を握る。より熱を感じる。

 生きているという事なのか。


「どっちでもいいんじゃない? そんなこと」


 それもそうかもしれない。

 重要なのは僕の目の前に確実にいるという事。

 彼女とまた居られる。それだけで十分だ。

 

 ……あの後に僕はまた祖父母の田舎を訪れることはなかった。

 中学生になったあたりで祖父が亡くなり、祖母もほどなくボケて今は老人ホームに居る。

 たまに顔を見せてももう僕を認識できない。

 高校生になったあたりに引っ越して、大学、就職と更に僕は田舎から離れていった。都会の喧騒の中に身を置いていくうちに、どんどんと過去の出来事を忘れていった。そんなものだろう。

 過去は時を過ぎ行くうちに忘れていくもので、僕らは今を生きていかねばならない。いつまでも過去にとらわれていてはいけない。

 そう思っていたはずだ。

 だのに、僕の心はいつまでたってもあの夏の出来事から離れがたかった。

 強烈に彼女の事を脳裏に刻み付けられた。

 たった一日だというのに。でももう彼女はいないのだ。

 滝の裏から見つかったものがすべてを語っていた。

 

「君はなぜ、今更現れた?」


 僕は問いかける。しかし傍らに彼女はもういない。

 気づけば彼女は対岸に居た。

 いつの間に、なぜと聞くのは無駄、野暮だろう。

 ゆっくりと僕は川の中に入り、流れに気を付けながら前に歩き始めた。

 彼女は微笑みを湛えたまま僕を見ている。


「これ以上はもうだめだよ」


 不意に背後から声が聞こえた。

 振り向くと、子供のときの姿の彼女がいる。

 僕のシャツの裾を引っ張っていた。


「だめだよ。だめ。君はまだそっちに行かないで」


「なんで? 君が待っているじゃないか。早く行かないと申し訳ないよ」


「とにかく、だめ!」


 ハッとした。

 そして気づけば僕は川の中に佇んでいた。

 もう対岸の彼女はいない。背後の子供もいない。

 いつの間にか腰まで水に浸かっている。

 何より、この先は急に深くなって流れも速くなっている。

 あのまま先に行けばきっと僕は……。


「こっちに来い」


 おぞましい声とともに足を引っ張られて、僕は水の中に沈んだ。

 


 

--------------




 二度目の病院での目覚めだった。

 僕の周りには老いた両親と妻の姿があった。

 また両親にはこっぴどく怒られて、妻には泣かれた。

 妻は妊娠しており、もうすぐにでも生まれてきそうなおなかをしている。

 体のあちこちが痛む。岩にでもひどくぶつかったか、また骨折したらしい。

 そもそも僕はなぜ川に行ったのだろう。

 あの時の夜の僕の記憶は、ひどく怪しい。酒を呑んで酔っ払ったわけでもないのに。

 

 ふと、妻が苦しんでいるのが見えた。

 産気づいたらしく、すぐに妻も病室に搬送された。

 同じ病院なのは不幸中の幸いなのかどうなのか……。


 翌日に、生まれたという報告を聞いた。

 僕は骨折はしているものの動けるので、すぐにでも子供の姿を見に行った。

 

 新生児室にはずらりと生まれたばかりの赤ん坊がベッドに並んで眠っている。

 足首には誰の子どもか判別できるようにタグがつけられている。

 僕の子どもはどこにいるだろうか。

 一歩一歩、顔とタグを見ていく。


「——!」


 僕の名字が付けられたタグの子どもの顔を見て、僕は息を呑んだ。

 

 生まれたばかりだというのに髪が生えている。

 金髪で、青い瞳の色をして、人形のような白い肌。

 確かに僕の妻は白人系だけど……でもそれにしたって似すぎている。

 僕が来て目を覚ましたのか、子は僕を見た。

 そして確かに見たのだ。

 僕を見て笑い、口をはっきりと動かして。

 

 また会えたね、と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

とある川のほとりで 綿貫むじな @DRtanuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

同じコレクションの次の小説