三話
空に広がる暗幕に星が散りばめられ、その星々に囲まれるように三日月が存在を主張していた。ビルの一つもない街明かりはたかが知れていて、仄かに光る民家の明かりが月明かりを邪魔することはない。
空から落ちる青白い光が、崖際に座る僕を照らしていた。ここに来るのはいつぶりだろうか。この場所が人無崖と呼ばれるようになった『あの日』以来だろうか。そんなことを考えて、一人ぼーっとしていると、
「よっ」
と、頬に感じる生暖かい風と共に、やけに力のない声が僕の鼓膜を震わせた。
「どう? びっくりした?」
「いいや、足音が丸聞こえだった」
「むぅぅ……面白くないなぁ」
不満を漏らしながら、夢花は僕の隣に腰を下ろした。ガサガサと草を踏みつける音を境に、人無崖に静寂が訪れる。しかし、お互いが期待に胸を膨らませているのは言葉がなくてもわかった。来る花火の打ち上げまで、あと十五分。今年も雲ひとつない晴れで、誰もいない崖から眺められるのだから、そわそわしてしまうのも無理はない。
ただ僕には、夢花の落ち着きのなさには他の理由があるように思えた。そう感じた理由は特にない。ただ、強いて言うなら幼馴染だから、だろうか。そんな風に根拠のない心配をする僕の横で、夢花が吐息交じりに「ねぇ」と呟いた。
「今日ここに来た理由話してもいい? すごい強引だったからさ」
「ん、ぜひとも」
唐突に話を切り出した夢花の声にいつもの天真爛漫な印象はなくて、それが僕の不安を掻き立てる。
「つい最近さ、私のおじいちゃんが——ほら、うちに来たときにいっつも盆栽いじってたおじいちゃんの方ね? そのおじいちゃんがさ、余命宣告受けたんだって。あと一年しか生きられないって」
「あ、そうだったのか……。結構お世話になったし、顔を出しに行かないとな」
「うん、そうだね」
夢花はぎこちない笑みを浮かべて、心ここに在らずというような反応を見せた。何かあったのか。それを聞く前に、夢花は言葉を続ける。
「それでさ、死ぬっていうことを考えたら怖くなっちゃって。死んだらどうなるんだろう。来世はあるのか、何もなくなるのか。もし、何もなくなるとしたらそう考えてる私はどこに行っちゃうのか。それで怖くて怖くて、幽霊がいるんだったら死んだ後も怖くないのになって思って……」
そこで言葉を切って、夢花は「ふぅ」と息を吐いた。それはたぶん、息継ぎではない。覚悟を決めるための深呼吸だ。
そうして、夢花は言葉を紡ぐ。
「それを確かめるために、ここに来たんだ。『あの日』、私が殺したあの人なら、私を恨んで幽霊になって出て来るんじゃないかって思って。でも、出なかったけどね」
夢花は言い切って、両手を広げて地面に寝転がった。『あの日』から、一度も僕と夢花の会話に出てくることがなかった『あの日』の話題。それは僕が絶対に話さないと決めたからであって、夢花もその話をしないからだった。でも今日、夢花は自分からその話を口にした。だから、僕も六年ぶりに『あの日』のことを話す。
「もし、あいつが夢を恨んで幽霊になって出て来て夢を襲おうとしたら、今度は僕が助けてやるよ」
「駿くんは優しいね……。でも、私が殺したんだから、罰を受けるのは当たり前だよ」
夢花の声が震える。それは罪の意識からか、それとも『あの日』を思い出して怯えているのか。僕にはわからなかった。わからなかったけれど、夢花がまだ『あの日』のことを引きずっているのだとわかっているから。
「そんなことない。確かに夢はあいつを押して崖から落とした。でも、次の日のニュースでも言ってただろ? 手に遺書が握られてたって。仕事もしないで、盗みばっかり働いてたって。それで夢の罪がなくなるってわけじゃないけど、夢は悪くない。『あの日』、夢があいつを崖から落としてなかったら、死んでたのは僕だった」
僕は少しの淀みもなく言葉を紡ぐ。言ったことの全てが僕の本音で、事実だからだ。『あの日』、夢花は法を犯したけれど、悪いことはしていない。それが、あの場にいた僕にはわかっている。
「それに幽霊なんていない。もしいるんだったら世界が幽霊で溢れかえってる。だから、あいつのことはもう忘れていい。死んだら終わりなんだから」
「……死んだら終わり、か。そう、だよね」
夢花が自分の中で納得しようとしているのが、ひしひしと僕に伝わってきた。『あの日』のことを忘れる、なんてできるはずがない。それは僕も同じだ。それでも、『あの日』のことを引きずって生きていくべきではない。たぶん、その二つが夢花の中でせめぎ合っているのだろう。
せめぎ合い、争い合って。彼女の中で出た答えは、
「——そんな風に考えてるのに、駿くんはよく死ぬのが怖くないね。私は、怖いよ」
今はまだ答えを出さないということだった。夢花は自然に——でも、僕に言わせれば、不自然に話題をすり替えた。それは、『あの日』のことは後回しにしようという——だけれど、いずれは清算しようという決意。そういう意味なのだろう。
「…………」
だから、僕は思わず隣で寝転がる夢花の手を掴んだ。清算の方向が間違ってしまわないように僕が導いてあげよう、そういう意味を込めて。
夢花はそのことに気がついたのか——おそらく気づいているだろうけれど——僕の手を握り返してきた。そのことを機に、僕も『あの日』のことを思考の外へ放り出す。
「僕だって死ぬのは怖い。でも、そんなこと考えたって仕方ないだろ? あと何十年も生きられるんだ。今を楽しめばいい」
「……確かにそう、だけど。たぶん、駿くんの考え方の方が有意義なんだと思うけど。でも、私はどうしても、あと何十年かしか生きられないって思っちゃうんだ。それで自分はいなくなっちゃうんだなぁって」
「あと六十年」
僕は唐突にその数字を口にした。六十年、夢花にはなんのことか見当もつかないだろう。たぶん、これから言うことは後で思い返せば恥辱の限りを尽くすような言葉ばかりだ。でも、時にはそういう日もあっていいのだと思う。神秘を目の前にノスタルジックになって、死について語り合う日があっても。
「日本人の平均寿命は七十歳後半らしい。ってことは、僕たちはあと六十年くらいで死ぬんだ。毎日をだらだら生きても、好きなことをし続けて生きても、何をしていても、あと六十年で」
「…………」
「だから、『与』命六十年だって考えればいいんだ。余った命じゃなくて、与えられた命。そう考えればほら、せっかく与えられたんだから大切にしないとって思えるだろ?」
満天の星空で視界を満たして、自らの価値観を語る。——すでに恥ずかしい。思い返すこともなく、言い切った時点で恥ずかしい。おそらく、暗闇でなければ僕の顔が朱色に染まっているのを夢花に悟られてしまっていたはずだ。いや、暗闇を抜きにしても僕を包む恥辱には夢花は気づいているはずで、いつもと同じように僕をからかうはずで——、
「……やっぱり駿くんは昔と変わらないね」
夢花はくすくすと笑いながら、僕の手を支えにして身体を起こした。それとほぼ同時に、夢花に顔が見られるのが嫌で、僕は俯いた。
「……変わってるだろ、いろいろ」
「全然変わってないよ。だって、私が落ち込んでる時、すぐ慰めてくれるもん」
「…………」
僕は夢花の指摘で、自分が今、彼女を慰めているのだと気づかされた。思い返せば確かに、どう聞いても慰めている。恥ずかしい。まさか語る言葉ではなく、夢花に語りかけたという行為に恥辱を感じるなんて。
ただ、その恥ずかしさも次の夢花の言葉で吹き飛んだのだけれど。
「ねぇ駿くん。『あの日』、駿くんが言おうとしてたことって何だったの?」
夢花は僕の顔を覗き込むようにして、身体を近づけてきた。容易に想像できる、夢花は今、ニヤニヤと笑っている。だけれど、僕にそのことを指摘している暇はなかった。僕は今、『あの日』の告白の続きをせがまれているのだ。
「な、なんか言ってたか? 僕」
「言ってたよ。今日は何の日かわかるかーって。——ちなみに、今日は何の日だと思う?」
ねちねちと追い詰められることを覚悟していた僕は、夢花の突然の話題転換に驚きを隠せなかった。「えっ?」と呟いた僕を嘲笑うように、夢花は僕の手を乱暴に離して勢いよく立ち上がり、当然の事実を口にした。
「私の誕生日だよ、誕生日。こんなに一緒にいるのに忘れちゃったの?」
「いや、忘れるわけないだろ。花火を見終わったら、俺の家に寄ってプレゼントを渡そうと思って……」
「そっかぁ」
夢花はそれだけを呟いて、ふいに僕に振り返った。
「ねぇ、私、もう十六歳になるんだ。駿くんはまだ十五歳だけど。それでさ、私ね、もう結婚できる歳なんだけど、どう思う? 他の人と結婚とかしたら」
突拍子のない質問だった。夢花が十六歳になることを考えたことはあっても、結婚できる年齢だと考えたことはなかった。まして、誰かと結婚するなど。僕には『考えられなかった』。だから、僕の答えは本音そのままで、
「そんなの考えられない」
おそらく、これは夢花にとっての模範回答だった。夢花は僕の答えに口角を上げて、両手を後ろで組む。その姿がいつもと違って、どこか艶かしくて——僕はようやく気づいた。夢花が浴衣を着ていたことに。それはまさしく、大人になった姿だった。
「駿くん。今まで幼馴染だから言いづらかったけど……」
と、そこまで言いかけて、夜空を切り裂く破裂音が僕の耳を突き抜けた。
「あっ……」
二人の声が重なる。それに連なって、再び破裂音がこだまする。しかし、今度は光を伴って。
「花火……綺麗だね」
僕に背を向けた夢花の言葉に、僕は無言で頷く。
あんなにも暗かった世界は赤や緑や青の光で明るさを取り戻し、満ち満ちていた静寂は心地のいい破裂音にかき消された。
音が、光が連続する。夜空に散りばめられた星々に混ざって、閃光が花を咲かせる。一年ぶりの光景、だけれど一年前とは違うように見えた景色。
「夢花」
僕は花火に見とれている夢花の横に立った。『あの日』とは違って、僕の肩くらいの位置から僕を見上げる夢花が愛らしくて。僕——俺は『あの日』の言葉の続きを口にする。
「夢花からじゃなくて、俺から言う。——好きだ。『あの日』からずっと。いや、もっと前からずっと。今まで言えなかったけど、好きだ」
「————」
僕が言い切ると同時に、ひときわ大きな破裂音が鳴って、赤色の光が夢花の横顔を照らす。確かに見えた夢花の表情は朱色に染まっていた。
「私も、好きだよ。駿くんのこと」
夢花は顔を俯けながら、そう言った。いつもみたいにからかうことはなく、ただそれだけだった。
それから僕たちは一言も話さずに、花火を見続けた。何十発も花火が打ち上がり、ついに終わりの合図の花火が上がる。ずっと続いていた破裂音の重なりが突然いなくなり、僕は寂寥感に襲われた。風に流されていく煙と共に、花火への感動も心の隅っこに流れていく。そんな切なさも一緒に。
だけれど、僕はその切なさと寂しさをすぐに忘れることになった。
「それじゃ帰ろっか。——あと六十年、よろしくね」
夢花は無邪気な笑顔でそう言い放って、僕の手のひらに手のひらを重ねてきた。温もりが手に伝わって、僕は思わず微笑を浮かべる。
この先続いていく、僕と夢花の六十年間を想像しながら。
与命六十年 syatyo @syatyo
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