二話
まだ、人無崖が無名だった頃。十歳になったばかりの少年少女が、山の中で遊んでいるうちに崖を見つけた。その日は土曜日で、見渡す世界が特別に見えた日。だから、少年少女は山の中でたまたま見つけた崖が神秘的に感じられた。空の天辺から彼らを見下ろす太陽は陽気に笑い、絶え間なく聞こえる鳥やら虫やらの鳴き声は談笑している。二人にはそんな風に見えていて、聞こえていた。
やがて、目の前に広がる神秘に声をなくしていた少女は好奇心を抑えきれないというように、隣に立つ少年の袖を引っ張る。
「ねぇねぇ、ここ、すごいね」
「ほんとにすごいな……。俺、こんなところ来るの初めてだ」
二人の会話は子供らしく語彙力に乏しくて——という表現は正しくない。この場合、大人でさえ似たような言葉で感想を埋め尽くしてしまうだろう。それほどまでに、崖は神秘で満ちていた。
雑多に生える草も、見たことのない花も、全てが崖の神秘を形作っていた。
「なぁ夢花。ここを俺たちの秘密基地にしよう。俺たちが見つけた、俺たちしか知らない秘密基地。いいだろ?」
「いいね! 秘密基地! 明日、何か持ってこようよ! ダンボールとか、おもちゃとか……」
「と、その前に、だな。俺になんか言うことがあるんじゃないか?」
少年の発言に同調して加速していく少女だったが、少年の遠回りな質問が少女の妄想を遮る。
「えぇと、言うこと? なんかあったかなぁ……」
もちろん、質問が遠回りであるがゆえに少女には伝わらない。神妙な面持ちで返答を待つ少年をよそに、少女は黙り込んでしまう。人差し指を唇に当て、「うぅん……」と、悩みに悩み、悩み抜いた結果出した答えは、
「あ、もしかして誕生日のこと?」
少年の誕生日のことだった。そして言い切ると、少女はばつが悪いのか少年から顔を背けて吹けもしない口笛を吹き始めた。その様子が少年には面白くなくて、あえて忘れられていたことへの悲しみを前面に出す。
「……そうだよ。もしかして……忘れてたわけじゃないよな?」
「ごめんごめん、今の今まで忘れてた」
少女はしょぼくれた少年に向かって両手を合わせて、真実を話した。どうせ嘘をついてもばれてしまうことは、少女が一番わかっていた。今までだってそうやって嘘を見破られてきたのだから。そしてこの先もずっとそうなんだろうな、なんて漠然に考えていた少女は、次の少年の言葉に全ての思考を吹き飛ばされた。
「それでさ、俺、もう十歳になっただろ? 夢花もとっくのとうに十歳だし。だから、ずっと幼馴染で言いづらかったんだけど……」
ここで一度、同じ目線に立つ少年の声が途切れる。しかし、少女にはその続きがわかってしまった。少年が少女の嘘を見破れるように、少女も少年の言いたいことがおおよそわかってしまうのだ。だから続く言葉が、おそらく自分が一番聞きたい言葉で、だけれどまだ聞くための心の準備ができていない言葉だということがわかってしまった。わかってしまったから。
「あ! そういえば私、お母さんにおつかい頼まれてたの忘れてた! じゃあね! また明日、いつも通り私の家の前に集合ね!」
少女は逃げてしまった。少年から遠ざかり、山を降りるための道の方へ。千載一遇のチャンスで、なかなか気持ちを伝えられなかったモヤモヤを取り除く絶好の機会だったのに。少女は自分の心の弱さのせいでその好機を踏みにじってしまったのだ。
少女は走りながら自分を責める。どうして続きを聞かなかったのだろう、と。むしろ自分の気持ちを伝えなかったのだろう、と。しかし、いくら悔やんでもそれは後悔だった。そして、後悔というものは厄介だった。少しのきっかけで、心を埋め尽くしてしまう。そして、思考すらも蝕んでしまうのだ。——だから、少女は前方からフラフラと近づいてくる危険に気がつけなかった。
「あ」
ふいに掠れた男の声が少女の鼓膜を震わせた。生きている人間の声のはずで、それでいて生気のない声。その声の方向に少女は顔を向けて、戦慄した。
少女の正面に立っていたのは、整った服装の男だった。今から仕事に出勤するかのように、ワイシャツの襟はきちっと立てられ、上下のスーツはシワひとつない。少し不自然なのは右手に握られた細長い紙だけで。街中で見かければ少しの違和感もない容貌だが、森の中において、少女の目にはひどく不気味に映った。そして、その印象は間違いではなかった。
「そっか。俺、どうせ死ぬんだから、いいよな。たぶんこの子は神様が俺にくれたプレゼントなんだよな。何してもいいんだよなぁ!」
自分の中で何かに納得したのか、男は突然奇声をあげて少女を目がけて猛然と走り始めた。——恐怖。言いようのない恐怖が少女の背中を駆け巡る。逃げなきゃ、逃げなきゃ。わかっているのに、足がすくんで動かない。動けと足を叩いてみても、どうにも震えが止まらない。そうこうしているうちに男はすぐ目の前に迫ってきていて——、
「夢花!」
聞き慣れた声が、少女の背後から飛んできた。その声はついさっき拒絶したばかりの声で——少女はやっと恐怖から解放された。動くようになった足に再び喝を入れて走り出す。
「死ぬ前にいいことさせろぉ!」
爪の欠けた手が少女のすぐ後ろの空を切る。間一髪。しかし、危険な状況には変わりない。必死に走る。少し遠くで少女のことを見つめている少年に向かって。一歩、一歩と近づいていく。長い、遠い。息が上がってきた。足が限界を訴え始めた。あらゆる障害が少女を阻む。やがて、まるで永遠とさえ錯覚するほどの長い時間を経て、少女は少年のもとにたどり着いた。それでも、男は奇声をあげながら少女を追ってきている。
逃げ道はない。退いても男、進んでも崖。二人は窮地に追いやられていた。
「やっと、追いついたぁ……。どこに行っても、女なんて糞みてぇな奴らばっかりだ……が、最後くらい、いい思いしたっていいよなぁ」
男は息を切らしながら、二人にジリジリと詰め寄る。その男は女性に苦労しそうな面貌をしていて、女性に対して偏見を持っていてもおかしくはなかった。ただ、子供に偏見をぶつけるのは筋違いな話だ。ただ、男はそのことに気づかずに二人を崖側へと追いやる。
もし足を滑らせて落ちてしまえば、命などひとたまりもない。崖下は見渡す限りの岩で、クッションになるようなものは一つもなかった。このままでは少女は男に捕まり——、
「どけろ、ブサイク。そんなに喧嘩がしたいなら俺がしてやるよ」
最悪の事態を避けるために、少年が一歩前に踏み出た。両手の拳を握りしめ顔の前で構える——いわゆるファイティングポーズである。その勇気ある行動に少女はひどく不安を感じた。——威勢良く啖呵を切った少年の声が震えていることに気がついてしまったから。それでも張りぼての勇気は男を挑発するには十分だった。
「あぁ? ガキが調子乗るんじゃねぇぞ! 俺はお前よりも年上で、大人なんだよ! 大人! 口答えすんじゃねぇ!」
男はまんまと少年の挑発に乗り、少女を置いてけぼりにして、少年とともに崖際に近づいていく。少女から意識を逸らした、絶好の逃げる機会。今度こそ逃してはいけない、千載一遇のチャンス。少年は自分の身を捨ててでも少女を助けようとしている。ならば、少女がすることは一つで——、
「あぁ?」
気がつけば、少女はその小さな両手で男の身体を崖に突き落としていた。ふわりと男の身体が浮いて、岩肌がむき出しになった地面に自由落下していく。一秒、二秒、三秒。やがて、ゴポォンという肉が破裂する音が響いて、崖に静寂が訪れた。
「…………」
両手を武器にしていた少年はその場に座り込み、少女も自分のした事の重大さに腰が抜けてしまった。一人の人間が少女の手によって死んだ。その事実が——そのありのままの事実だけが少女に重くのしかかり精神を蝕む。
「あぁ……」
悲しくもないのに、不思議と涙が溢れてくる。何も怖くないのに、身体が震える。どうして、どうして——。
「大丈夫」
少女はぼやけた視界の向こう側で、声を聞いた。震えていて怯えているのが伝わってくるのに、それ以上に優しい声。——少年だった。
「大丈夫、大丈夫。夢花のおかげで俺は助かった。ありがとう」
されてはいけないはずの感謝をされて、少女は嗚咽を漏らした。自分は人を殺した。許されないことをした。それなのに世界で一番、自分の悪行を責めて欲しい人に礼を言われてしまっている。その矛盾に少女は声を上げて泣いた。
いつまでも、いつまでも。少年の「大丈夫」という声を聞きながら。
そうして『この日』。少年は今までの『俺』を『この日』の罪とともに封じ込めた。
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