与命六十年

syatyo

一話

 夏真っ盛りの放課後の教室。夕日の半分がビルに飲み込まれ、無機質な影が教室に忍び込んでくる。それに連なるようにして、開け放たれた窓から北海道の夏特有のカラッとした風が吹き込み、窓際に立つ少女の長髪をなびかせた。

「ねぇ、駿しゅんくんは幽霊って信じてる?」

 現実味のない質問を放ちながら頬にかかった髪を手で梳いて、少女は僕に振り向き、そのまま体重を窓の桟に預ける。

 その一挙手一投足が様になっていたのが僕には少し可笑しくて、浮かべた微笑を彼女——夢花ゆめかに悟られないように、できるだけ平静を装って質問に答える。

「僕が信じてるわけないだろ。そんなこと、夢が一番わかってるだろうに」

「そうだけどさぁ。でも、やっぱりいると思わない? 幽霊。火のないところに煙は立たないって言うでしょ?」

「火がなくても、必死に煙を立てて人の注意を引こうとするのが今のネット社会だろ。夢は噂に乗せられすぎだ」

「むぅぅ……。さすが携帯を持たない人の言葉は重みが違うね……」

 言い返す言葉がないとでもいうように、夢花は顔をしかめて、「よっ」と声を出して両手を広げ、窓の桟から腰を下ろす。

 再び——夢花の突拍子のない質問以来の沈黙が二人の間に落ちる。微かに聞こえるのは野球のミットに球が当たる音と、心地よいメロディーを校内に届ける吹奏楽部の演奏だけだ。

 その二つの青春の音に耳を傾けていると、ふいに時計の針が動く音を僕の耳がとらえた。時計に視線を向ければ、すでに五時三十分。教室で退屈を過ごすのも、あと十数分だ。というのも、僕たちは同じ町の出身で、都会にあるこの高校に通うために同じ電車で行き帰りを共にしている。もちろん、僕の住む町は高校なんてない田舎で、その田舎まで続く電車は一日に数本しかない。だから、それまでの時間を夢花と一緒に教室で過ごすことが僕の日常だ。

 しかし、今日の日常はいつもとどこか違っていた。

「ねぇ、今から幽霊がいるのかどうか試してみない?」

 夢花はぼーっとしていた僕の正面にいつの間にか立っていて、キラキラさせた目でそんなことを言った。

 僕はこういう発言を聞くたびに感心する。彼女は『あの日』から変わらず、まるで好奇心で生きているような人間だからだ。別に羨んでいるわけではない。ただ、僕は『あの日』までとは違って、今は自覚するほどの現実主義者であって、噂話や都市伝説を好む夢花とは正反対だ。だから、僕にはできない生き方をする夢花がとても輝いて見えた。

 ただし、僕が自分の考えを曲げることはできないけれど。

「試すって言っても、その方法がないだろ。まさか心霊スポットとかいう場所に行くのか? ああいう所はだいたい他の危険で満ち溢れてるぞ」

「違う違う。簡単な話だよ」

 ものすごく無邪気に笑いながら、夢花は「よっ」と声を出しながら机から飛び降りて、窓の近くに立った。その横顔はビルの隙間から射し込む夕日に照らされたせいか、どこか儚げに見えて、僕は思わず見惚れてしまった。ただ、その惚けが僕の反応を遅らせる。

「——私が今ここから飛び降りて、死んだ後に駿くんの前で化けて出てみればいいんだよ」

「……は?」

 僕の返答を待たずして、夢花は制服のスカートを翻して窓の桟を飛び越えた。一秒、二秒、三秒。彼女の姿が完全に見えなくなったところで、僕は机を蹴り飛ばし、その推進力そのままに窓の外に顔を出して——、

「わぁ! どう? びっくりした?」

 夢花が、心臓を跳ね回らせる僕の目の前で立ち上がった。彼女の両の足はしっかり地についていて、両の手は僕を嘲笑うように顔の横でひらひらと動いていた。

「残念、ここは一階だからね。駿くんにしては珍しく焦ってたね」

「……ほら、今日の音楽の授業、二階だったろ? それで勘違いして……」

「でも、もし私が飛び降りたらそんなに慌ててくれるんだ。嬉しい嬉しい」

「…………」

 あまりに呆れて、ものも言えなかった。好奇心旺盛と天真爛漫。この二つの言葉だけで夢花を想像するほどには、その二つの印象が強かった。だから、もしこのいたずらをしたらどんな反応をするんだろう、してみたい。そんな思考回路で、僕の気持ちも考えずに凶行に踏み切ったのだろう。だろうけれど。

「はぁ。本当に昔から変わらないな。夢は」

 僕はため息をつきながら、どこか皮肉げにいたずらに対する感想を漏らした。でも、その答えですら夢花は嬉しいのか、満面の笑みで「ほら」と両手を差し出してきた。そして、僕も仕方なく窓の外から夢花を引き上げる。

「……案外、駿くんの手って男っぽいんだね」

「当たり前だろ。男なんだから。そういう夢だって女っぽい手だろ」

「はぁ。本当に昔から変わらないね。駿くんは」

 引き上げられた夢花は、今度は僕の答えに不機嫌そうに反応した。それはさっきの僕からの皮肉に対する意趣返しとでも言わんばかりだ。ただ、僕の何が昔から変わらないのかがわからない——変わってしまったことばかりのはずなのに。

「って、そんなことはどうでもよくてさ。いや、実はね。今のいたずらは、駿くんの指摘が図星でちょっと悔しかったからっていうのが理由なんだけど。——今から心霊スポットに行こうよ」

「はぁ……。さっき言っただろ? 心霊スポットは幽霊が云々より、そういう場所でたむろする人間の方が危ないんだ。まして、もう夕方だぞ? どうせ『悪』を履き違えた奴らが蔓延ってるに違いない」

「そう?」

「そうだ」

 断固として、危ない場所に夢花を連れて行くわけにはいかない。それは僕が自分への戒めとして決めていたことだ。——『あの日』の過ちを繰り返さないために。

 でも、夢花はそんな僕の戒めなど知らないとでもいうようにいたずらな笑みを浮かべて、

「もし、人無崖だとしても行かない?」

 と、物騒な崖の名前を口にした。そこは僕たちの住む町にある、心霊スポットとしては全くの無名の崖で——というよりは、つい最近までは正真正銘、無名の崖だった。というのも、山の中を縫うようにして走っている獣道を辿って、やっと着くという秘境のような場所だったことが影響しているのだろう。

 ただ、今に限ってはそんなことはどうでもいい。どうにか理由をつけて夢花の提案を断らなければいけない。いけないのに。

「そこで一緒に花火を見ようよ。どうせ駿くんのことだから私以外に見る人なんていないんだから。女の子と花火を見るチャンスだよ」

「チャンスって言ったって夢と毎年一緒に見てるだろ……って、別に人無崖じゃなくてもいいだろ、別に。いつもと同じで、お互いの家のどっちかでも……」

「それなら今年は見に行かないかなぁ。あぁあ、あんなにちっちゃい頃から一緒に行ってたのになぁ」

 夢花はわざとらしくため息をついて、微笑のままチラチラと僕の表情を伺っている。確信している。夢花は僕が断るはずがないと確信している。

 それもそのはずで、僕が夢花と一年に一回の花火大会を見に行かないなんて考えるはずもなくて、それは彼女にとっても同じなのだ。そしてそれが彼女には手に取るようにわかっているのだ。好奇心旺盛で天真爛漫で——妙に鋭い。だから、僕の見え見えの好意なんて気づいてるはずで、それに対する返事をくれてもいいのに。

 いや、この僕の中で燻るモヤモヤさえも夢花にとっては計算内なのかもしれない。今日、僕を人無崖に誘うための計画のための。

「……行くよ。その代わり、危険だと思ったらすぐに帰るからな? すぐに、だ」

「わかってるって。いざとなったら駿くんに助けて貰えばいいし」

「…………」

 夢花は一仕事を終えた風に息を吐いて、「ほら帰るよ」と僕にカバンを手渡した。ふと時計に目を向けてみれば、長針は八を少し過ぎたところを指していて、危うく貴重な電車を逃すところだった。——まさかこの時間さえも夢花の計算内だとは思いたくはないけれど。

「明日楽しみだなぁ……って、結構時間ギリギリだね。危ない危ない」

 教室を出る間際、時計に目を向けた夢花は僕の心中と全く同じ反応を示した。——やっぱり、夢花の計算高さは邪推だったようだ。

 帰り道、そんな風に安心した僕を弄ぶかのように、夢花のいたずらが僕を逃すことはなかった。

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