江南の橘

第1話 お茶の時間

 早朝。

 ギンはテーブルに茶器のセットを置き、棚の前に立って少し悩んでから『高山茶』と書かれた茶筒を手に取った。


 高山茶は烏龍茶の一種だ。

 烏龍茶は日本の緑茶と違い、沸騰するほど熱いお湯で入れると旨味が出る。

 故に茶器を全てお湯で温める必要があるため、まず茶壺急須にお湯を注ぎ、茶壺のお湯を茶海ピッチャーに移し、続いてそのお湯をカップ類に注いで順に温めていく。


 温め終えたら茶壺に茶葉を入れ、沸騰したお湯を溢れるギリギリまで注ぎ、蓋をして溢れさせ、そのままお茶を蒸らす。

 茶海やカップに残ったお湯を茶壺にかけ、お茶が蒸れたら茶壺から茶海にお茶を一気に注ぐ。


 日本とは違って台湾の茶器にはお茶を飲む為のカップとお茶の香りを楽しむカップがある。

 お茶を飲むカップは日本の煎茶などを飲むそれとほぼ同じ形状だが、香りを楽しむ方は聞香杯と呼び、細長い形をしている。

 先にこの聞香杯にお茶を注ぎ、それを飲む用のカップで蓋をするようにして被せ、ゆっくりと上下を入れ替えて空になった聞香杯でまず香りを楽しみ、それから飲む用のカップでお茶の味を楽しむ。


 烏龍茶といっても、日本でよく見る烏龍茶と違い、色は緑茶によく似ている。

 香りもどこか花のような果実のような芳醇なもので、口当たりも絹のように滑らかだ。


 お茶請けは烏龍茶梅という梅の実を凍頂烏龍茶と蜜で煮たもので、甘酸っぱくてほのかなお茶の香りが口の中に広がる。


 このお茶の時間がギンにとって唯一の至福な時なのだが。


 廊下を走って来るガサツな足音に続いて、ドアをノックもせずに勢いよく開ける音にギンは心底嫌そうな顔で振り返った。


「こんな朝っぱらから何事です?」


 不機嫌極まりない表情に動じることなく、ドアを開けた主、ロウは手にしていた書類を無言でギンに突き付けた。


「……先日に続いてですか」


 書類にざっと目を通したギンはそう言って片眉を吊り上げた。


「あの時、門を潜っておけば良かったですね」

 狼に言われてギンは鼻で笑った。

「生まれ変われる体になる代わりに記憶を失うんですよ? こんな状態になるなんてゾッとしますね」

「どっちが良いんだかねぇ? 死なない人間の側にいたら永遠を望むか死にたくなるかの両極端だそうですからね」

「他人事のように言うんですね。半身でなくとも人間相手の仕事でしょう? あなたはどっちなんですか?」

「そりゃ、行雲流水。流されて生きるのがここのことわりであり、私の信条ですよ」

 狼の答えにギンは再び鼻で笑った。

 それが本心ではないからだ。上手く交わしたな、と視線で訴えると、狼もニヤリと笑ってそのまま部屋を出て行った。


 それと入れ替わるように奥の部屋から琳が大欠伸をしながら姿を現す。


「何かあったのか?」


 暢気な声音にギンは軽く溜息を吐いて狼から受け取った書類を琳に見せた。

 まだ眠そうな目をしていたが、その眉間に皺が寄る。


「……人外が門を潜ったって? で、それをけんの半身にするって?」

「元老院からの通達のようですよ? 先日のバンの一件と関係ありそうですね」

「ありそう、じゃなくてそれしか考えられないだろ。あれで終わりじゃなかったってことだ。これを持って来たのは狼か?」

「はい。珍しく走って来ましたよ」

「わざわざ自らここに持って来るのも珍しいな。ギン、酒を買って来い。狼に元老院に入る方法を聞くぞ」

 琳の指示にギンは掌を上に向けて片手を出し、人差し指と親指で円を作ってみせた。


「……ツケで」

 言葉の先を遮るようにギンが即座に首を横に振ると、軽く舌打ちをしてズボンのポケットからくしゃくしゃの札を一枚取り出して差し出す。

 が、それにもギンは首を横に振ると今度は大きく舌打ちをした。


「お前も半分出せよ」

「私はただの半身ですからね。お金など一切持ち合わせておりません」

「嘘つけ。小金を貯めこんでるのにこの俺が気づいてないと……」

「小金ですから。札など持ち合わせておりません」

「塵も積もれば……」

「山となる前に使ってますからなりません」


「お前が言う山は富士山だろ。日和山ひよりやまくらいあるなら出せ」

「たかだか数メートルしかない一番低い山を持ち出されましても……そもそもそれを山と言っていいものか、個人的には納得しかねますが」

「お前がどう思おうが山は山だ。小銭だろうと何だろうと金は金だ」

 そう言い切って琳は片手を差し出し、くれ、と催促するように指を動かした。


「……私からお茶の楽しみを奪った代償は大きいですからねっ。これで何の成果も得られなかったら恨みますよ?」

 渋々といった様子でギンはお茶の棚の奥から茶筒を取り出し、それを琳の手の上に載せた。

 ずしっとした小銭の重みに琳はニヤリと笑みを浮かべる。

 その笑みとは対照的にギンは恨めしそうに、未練がましく茶筒を見下ろした。


「金と頭は使いようって言うだろ? まぁ、任せておけって」

 それを言うならバカとハサミでしょうに、とギンは心の中で突っ込み、代わりに大きな溜息を思い切り吐き出した。

 不安そうなギンとは対照的に自信満々に不敵な笑みを浮かべる琳は、茶筒を片手に足取り軽く部屋を出て行った。


「今日は久し振りに平穏な一日になるかと思ったんですがねぇ。せっかくのお茶が台無しですよ」


 すっかり冷めたお茶を啜り、ギンはデスクの上に投げ出された先程の書類に目を落とした。


 書類に書かれた『流』の文字を見つめ、再び大きな溜息を吐き、複雑な表情で天井を仰いだ。

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幽世綺譚2:鬼籍と資材管理課 - The Necrology And Materials Management Section 紬 蒼 @notitle_sou

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