壱ノ壱四 夢魔

「で、どう思う?」

白いマスクをした健悟が、右腕に残る噛み痕に消毒液を吹き付けながら問う。


「まぁ、勿体ねぇことしたなって」

ソファーで占い本の原稿を打ち込みながら申彦が答える。


「えっ⁉何が」


「あの男に持たせてやったダウン。おめぇ相当気に入ってたんじゃねぇの?どうせ返しになんて来やしねぇよ」


「あっ、そっち?まっ、でも良いんだよ。せっかく素のかみしも航太郎に戻ったんだから」

フーフーと傷口を吹くと、くっきりと赤く歯形が滲んだ。


「痛むんかよ?」

チラッと申彦が見る。


「いや、見た目ほどは」

とは言うものの、航太郎が言っていた感染うつるという言葉が気味悪く尾を引いていた。


感染うつるんならここか?」

ボソッと健悟が言うと、申彦が立ち上がり唐突にその手を掴む。


「申彦、触わんない方がいいって!」


「ふんっ!オカルトのセオリーかよ?くだんねぇな」

まじまじと傷口を眺めた後でパッと手を離した。


健悟が不安そうに言う。

「俺、やっぱり今夜は自宅に戻るわ」


「おめぇ、まだ枕が変わると寝れねぇんか?」


「いや、そうじゃなくて!お前に感染うつしでもしたら、それこそ神眼守護者として大問題になる」


「じゃぁ何か?明日午前中からの工事に、俺様が立ち会えってか?」

申彦の切れ長の目が不機嫌に吊り上がる。


「あぁ…そうだった、よな」


明日は館内の電気配線やモニターを設置する大掛かりな工事が入る。別に何をする訳でもないが、多くの人が出入りするのは間違いない。自分以外に立ち会える人物を思いめぐらす。


父 清人と志津は明日の朝にはイタリアから成田へ到着予定だが、その後に講演会を控えていると言っていた。

19歳になる弟の大悟だいごは申彦と会ったことはあるが、あのモヒカンにピアスがずらりと耳を飾る外見と相性が良いとも思えない。

母と中学生の妹 美菜は女性というだけで問題外。ましてや美菜は、申彦とのお目通りさえ済んでいない。


「グダグダ考えてんじゃねよ!そんなんだから、いつまで経っても神眼守護者から

カッコかり)が取れねぇんだよ!」

ふんっ!と申彦がそっぽを向くと、形の良い鼻先が膨れる。


「うっ!痛たいとこ突くなって」

健悟が胸を押さえた。


「それに大したものでもねぇよ。かみしも航太郎、あいつの憑き物は夢魔の一種かも知れねぇ」

苛立った横顔のまま申彦が言う。


「夢魔?」


「あぁ、別名を淫魔。夢の中に現れて人の精気を吸う下級クラスの悪魔だ」


「どうやって精気を奪うんだ?」


申彦がうんざりした顔で健悟を見る。


「淫魔のインは淫行のイン。想像しろよ!」

きれいな口元があっさり言う。


「淫行って…夢の中で?えっ…つまり、そういうコト?」

健悟の頬が赤らむ。


「キモチいい夢見せといて吸い取る。中味は違っても似たようなもんだろ?」


「申彦、お前、意味分かってて言ってんの?」

健悟の問いに、今度は申彦の頬が染まる。


「うっせぇなぁ!どうでもいいだろうよ!つぅーか、そこまでお前がビビるんなら、こいつしとけよ!」

申彦は少し乱暴に腕に幾つか巻いた数珠の一つを外した。


「こいつは黒水晶だ。魔除けの効果がある」

そう言って真っ黒な石の連なりを健悟に突き出した。


「やっぱり俺、感染うつってるのか?」

健悟の中にピリッとしたものが走り抜ける。


「ばぁか!念のためって言葉知らねぇのか?おめぇが軟弱だからだよ」


申彦に言われて健悟は言葉を失った。

健悟の使命は申彦の神眼霊力を守護し、世のため、人のためへと充分に発揮させること。まだ一人前にもなっていない上に守護するべき相手、申彦に弱気を感じさせている。そんな己を健悟は心から恥じた。

今夜は冷水を浴び、心身を引き締めておこうと誓い、噛み痕の残る右腕に数珠を通した。


その様子をチロっと見てから申彦が言う。

「なぁ健悟、今夜は今年一番冷え込むらしいぜ」


「えっ?」


「おめぇのマゾ趣味に文句言うつもりはねぇが、水は止めとけ」


「見えたか?」


「このクソ忙しい時期に物の怪だの風邪だの持ち込まれちゃ迷惑だってぇの!」

ふんっ!と鼻を鳴らした申彦に、健悟は返す言葉を失った。


…弐ノ壱に続く

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