壱ノ十 予兆
キーン…
それは耳鳴りから始まったと航太郎は言う。
日に何度か耳が塞がるような感で、奥の方でキーンとなるようになった。やがて片頭痛を伴い始めたが、それも市販薬で紛れる程度。航太郎はあまり気にもせず過ごしていた。
そんなある夜、奇妙な夢を見た。
航太郎は紫色の
襖の壁は唐突に終わり、床の間のある座敷が目の前に現れた。その中央には毛足の長い金色の座布団が置かれている。見た瞬間、航太郎はそこに座りたくてたまらなくなったと言う。
吸い寄せられるように座布団に座る。すべすべとした手触りと柔らかな質感。高級な金色の毛皮という風合い。フワッとした座り心地は今まで経験したことがないほどで、尻の下にあるはずなのに、全身が大きなものに優しく包まれているように思えた。
すごく幸せだ…。
満ち足りた幸福感を航太郎は噛み締めている。最近ツイていなかったせいか、余計に心に染み入る気がしていた。
そう俺はツイていなかった。
プロになると信じてやって来たバンド〝サイエンス″の解散。その理由がボーカル兼ギターが、ちゃっかりオーディションを受けていて、一人だけプロデビューするという最悪なシナリオ。
更にちょっとした手違いで、違う子にLineして三股がバレた。それなりの修羅場と、三人に同時にフラれるという経験もした。
でもなぜだろう?何もかもが良い方向へ進むと思えて来た。
金色の座布団を猫や犬のように優しく撫でると、不思議と楽しい思考が生まれ出す。
ツイてなかったのは、ツキを全部持って逃げたボーカルのせいだ。だったら新しいツキを見つけなきゃな。だって俺には才能があるんだから…そうだ、バンドをまた始めよう!幸い自宅暮らしだし、居酒屋のバイトで小銭を稼げば音楽は続けられそうだ。すぐにメンバー募集しなきゃな。次こそは必ずプロになってみせる!
『お主の夢、叶えようぞ!』
突然部屋中を震わせて声が響く。それは野太く、腹の底にズシンと重い。航太郎は驚いて思わず辺りを見回したが何の姿も見当たらない。
だが声だけは続く。
『明晩より、
言い終わると航太郎の尻の下がキュッと引っ張られ、座布団が金色の煙となって何処かへ消えた。
航太郎は頭を殴られたような衝撃を感じて目が覚めたが、それでも夢で得た心地よさと至福感だけは、はっきりと心身に焼き付いていた。普通の夢とは違う現実味、これはきっと吉夢に違いないと確信した。
そして次の夜から航太郎は気づくと、夢の中で金色の座布団に座っていた。
…壱ノ十一に続く
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