呼び声
甘牛屋充棟(元・汗牛屋高好)
呼び声
これは私が高校生の頃に体験した出来事である。
ある夜のこと、私は夜中に妙な息苦しさを覚えて目を覚ました。体勢が悪いのだろうか。そう考えて寝返りを打とうとしたが、体が動かない。金縛りである。
私は当時頻繁に金縛りにあっていたが、不思議と金縛りの途中で怪奇現象に遭遇したことは一度もなかった。ゆえにその時も「どうせ今回も大したことは起こらない。放っておけば解けるだろう」と思ってそのまま二度寝を決め込もうとした。
結果から言えばその夜、私は生まれて初めて金縛り中に怪奇現象に出遭う事となった。
ドンドンドンドンドン! と激しい音を立てて突然私の部屋のドアが叩かれた。何事かと驚きつつも私が金縛りで動けないでいると、続いてドアの向こうから聞き慣れた声が聞こえてきた。
「○○(私の名前)! ○○!」
それは私の母の声だった。ドアの向こうの母は当時の私がそれまで聞いたこともないほどの切羽詰まった声で私の名前を呼んでいた。
何かあったのだろうか? 私は気になって身を起こそうとしたが、金縛りのため動けない。
その間にもドアを叩く音と母の声は激しさを増していく。
ドンドンドンドンドン!
「○○! ○○!」
明らかに尋常でない母の様子に、私は自分の胸の中に黒雲のような不安が広がっていくのを感じていた。当時、私には病気で大きな手術を終えたばかりの祖母がいた。もしかしたらその祖母の容体が急に悪化して、入院先の病院から母に連絡が来たのかもしれない。そう考えた私はどうにかして金縛りから抜け出そうとしたが、体を動かすどころか目を開けることすらできなかった。
私が声も出せないままに焦っている間に、ドアの向こうからは父の声も聞こえ始めていた。
ドンドンドンドンドン! ドンドンドンドンドン!
「○○! ○○!」
「○○! ○○!」
母と父の大声がドアを叩く音と重なり耳を塞ぎたくなるような大音響になる。そこで初めて私は疑問を持った。
体が動かせないため時計を見る事は出来なかったが、私が目を覚ました時にはすでに深夜と言っていいほどの時間だったはずだ。そんな時間に大声を出すという近所迷惑を両親がするだろうか? そもそも私の部屋には鍵などついていないのだから急用ならドアを開けて入ってくればよいのではないか?
そんな疑問を浮かべた次の瞬間、ドアの向こうの声に変化が現れた。
最初、それはほんの微かな音だった。窓から吹き込む隙間風のようなその音は、しかし次第にその大きさを増していき、まるで獣の唸り声のような獰猛な響きを伴う声となって母と父の声に重なっていく。
ドンドンドンドンドン! ドンドンドンドンドン! ドンドンドンドンドン!
「○○! ○○!」
「○○! ○○!」
ドアを叩く音が激しさを増し、唸り声の他にも人間が絶叫するような声や何かが吠えているような声が混じりだす。
ドンドンドンドンドン! ドンドンドンドンドン! ドンドンドンドンドン! ドンドンドンドンドン!
ドアの向こうから打ち壊さんばかりの勢いでドアを叩く音が響く。もはや母と父の声は消え去り、何ともつかぬものの叫び声や吠え声を無理やり重ね合わせたような気味の悪い声が響くのみだったが、それでもドアの向こうの声が私の名前を呼んでいる事だけはわかるのが、なんとも言えず不気味だった。
こんな正体不明の声に返事をしたら、どうなるか分からない。しかしこのまま返事をしなければ、それはそれでどうなるのだろうか?
相変わらず金縛りにあったまま考えている内に私の意識はいつの間にか眠りに落ち、気付いた時には翌日の朝だった。その日の夕食の席で両親に昨晩の一件について聴いてみたが、どちらも夜中に起きた覚えも、私を呼んだ覚えもないとのことだった。
これは後に知ったことだが、猟師の間では昔、山中で声をかけられても返事をしてはならないという習わしがあった。これは妖怪や魔物の声に返事をすると凶事が起こると考えられていたからで、うっかり返事をしてしまうことを防ぐために仲間に声をかけるときはあらかじめ決めておいた合言葉を使うという風習もあったという。
私の家は山の中にあるわけではなかった。しかし、もしあの時ドアの外からの呼び声に答えていたら。もしあの時金縛りになっていなかったら。自分は一体どうなっていたのかと考えると、私は今でも背筋を冷たい手で撫で上げられるような思いがするのである。
呼び声 甘牛屋充棟(元・汗牛屋高好) @youikaiki
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