時間は責任を取らない

中田 中

第1話


 八月三一日は明日のことを考えると憂鬱だった。

 今日は八月三〇日だ。つまり、明日が自分の日付であり、働かなければならない。それが八月三一日はたまらなく嫌なのだ。

 八月三一日の働きたくない、休みが欲しい、最後の夏を馬鹿騒ぎしたい、といった俗な理由で職務放棄をしたいわけではない。理由は非常に深刻なのだ。

 八月三一日といえば子どもから大人、あらゆる世代に特殊な感情を抱かせる日付だ。思い浮かぶのは、月末、夏の終わり、そして、夏休み最終日だ。特に最後が原因で、多くの人びとを絶望に落とす。

 子どもたちは宿題が終わらない、と阿鼻叫喚するだろう。

 大人には懐かしの青春時代を思い出し、落ち込むだろう。

 一部の大学生と呼ばれる子どもか大人かはっきりしない半端者は「まだ休みがあるわ」という不毛な自慢を口にして、悦に浸るだろう。

 例外としては、働かないという特殊な生活習慣を身に着けた新人類たちがいる。彼らは日付の変化に一喜一憂しない。毎日が変わらない日常だからだ。彼らは周囲の人々を気にせず、茫洋たる虚空を眺めて瞑想する。

 人間たちが共通して言うことは、八月三一日が憎い、ということだった。

 それは人間たちの個人的な感情であり、怠惰な態度が原因である。

 しっかりと計画を立てない子供が悪い。

 思い出を引きずる大人が悪い。

 本来なら八月三一日が憎悪を向けられる道理はない。

 それなのに、苦しみの責任は八月三一日にあると主張する人々いる。八月三一日は彼らが嫌いだった。

 「どうした? そんな暗い顔をして」

 突然、八月三一日は後ろから声を掛けられた。振り向くと九月一日が缶焼酎を片手に立っていた。

 「九月一日か。どうしてこんなところに?」八月三一日の表情は曇ったままだ。

 「明日はお前の出日日だろ。一年に一度の晴れ舞台。だから、前祝いに来たんだ。

 ほれ受け取れ」

 九月一日は微笑みながら、缶焼酎を投げた。

 八月三一日はそれを受け止める。

 「ぼくはあまり酒は飲めないぞ」

 「少しなら飲めるだろ。いいから座って飲もうぜ」

 二人はその場に腰かけて、焼酎の蓋を開けた。

 「それじゃ、出日を祝して、乾杯」

 九月一日が音頭を取り、杯を掲げる。杯は九月一日の口へ傾き、酒は腹の底へ注がれた。豪快な飲みっぷりだ。

 一方の八月三一日は缶の縁に少し唇をつけて、焼酎を舐めた。

 「それで、どうして暗い顔をしているんだ」赤い顔の九月一日。

 「気にしないでくれ。大したことじゃないんだ」沈む八月三一日。

 「ふーん」

 訳知り顔で九月一日が八月三一日を見つめる。

 「お前、明日を迎えるのが嫌なんだろう」

 八月三一日は驚いて顔を上げる。

 「どうしてわかったんだ!?」

 「おれたち日付が悩むことなんて、日付のことしかないだろう」

 九月一日が赤い顔をして笑う。

 「話してみろよ。悩みは吐き出したほうが楽になるのさ」

 迷ったが、八月三日は九月一日に悩みを打ち明けた。

 八月三一日は人間たちが思い描く八月三一日の印象、それがいかに的外れであるか、自分には責任がないこと、そもそも嫌われることが嫌だということ、腹の底につっかえていた思いの全てを吐き出した。

 「大体、ぼくは好きで八月三一日をやっているわけじゃない。八月のどん尻。若者たちが羽目を外す、青春の一大イベントである素晴らしい月の最大の嫌われ者なんかやりたくはないよ」

 八月三一日は愚痴を溢し続ける。酒はどんどん腹の中に納まっていった。

 「どうせなら、日付の花形の一月一日や十二月三十一日になりたかったな。彼らは喜んで迎えられる。どんちゃん騒ぎでみんな笑っている。辛気臭い顔をしたやつなんかいやしない。

 それか、二月二九日だな。滅多に顔を出さなくていい。影が薄いのが欠点だが、顔を出せばちやほやされる。暦の帳尻合わせで生まれたのに、奴は幸せ者だ。ズルい」

 「そうだな。有名日付たちは良いよな。羨ましい。わかる。わかるよ。わかったから、すこし飲むペースを抑えような。な。明日に響くぞ」

 九月一日は徐々に荒れていく八月三一日をなだめた。しかし、無駄だった。

 「うるさいな! 月も季節も新しくなって、心機一転、爽やか三太郎に、ぼくの気持ちなんかわからないよ。

 あーあ。ぼくもお前になりたいな。楽チンなんだろう?」

 この無神経な発言は、九月一日の堪忍袋の緒を引き千切った。九月一日も八月三一日と同様に深い闇を抱えていた。

 「おい! いま言ったことを取り消せ!」

 「おいおい。どうしたんだ? ぼくは何も言っていないぞ」

 頭の天辺から足の裏まで酒が回った八月三一日には正常な判断ができない。既に九月一日が五日に見えているからだ。

 九月一日は持っていた缶焼酎を投げつけた。

 焼酎は八月三一日に当たり、全身に掛かった。八月三一日が見ている九月一日は一日になった。

 「くさっ! なにするんだよ」

 「うるさい! お前の方こそ何様だ。おれがせっかく好意で慰めてやっているのに、それを仇で返すような真似をしやがって」

 「なにを怒っているんだよ?」

 何が起きているのか全く分からない八月三一日は困惑した。完全に酔いがさめていた。

 「おれはな、お前のせいで酷い目にあっているんだ! それを我慢して毎年仕事をしているんだぞ。文句を言わずに毎年だ。それなのにお前は、お前ってやつは」

 「何だよ。ぼくは何かした覚えはないぞ」

 とぼけた八月三一日の態度に九月一日の怒りの炎に油を注ぐ。

 「夏休み最終日なんていう、全くくだらない行事のせいでな、おれにも酷い言いがかりが来るんだよ。おれには責任がないはずなのに、「辛い」「終わりの始まり」 「宿題終わってません」、意味がわからない。なかには重く受け止めるやつもいる。一部の統計では自殺率トップという結果が出たよ」

 九月一日はみるみる元気を失っていく。新しい月の一番手であり、秋の始まりであるため爽やかな印象がある彼はどこにもいない。激情家で、陰鬱で、自棄パチで、くたびれた日付が、そこにいた。

 「何だい。休みが永遠に続くよりも、新しい日々が始まるほうがいいじゃないか。休みが永遠になってみろ。地獄だぞ。最初は楽しいかもしれないが、徐々に不安になり、最後は仕事をさせてくれと叫びたくなるさ。干からびたもやしのような屍に成っても休みは終わらない。永遠の虚無よりも、苦痛がありながらも起伏のある人生の方が良いはずだ。良いはずなんだ。それなのに、それなのに……」

 「まあ、落ち着けよ。ほら、よしよし。そうだな、休み続けるなんて半端者がやることだ。規則正しく学業に励み、働く人間が一番だよな」

 気がつけば、九月一日を八月三一日が慰めていた。

 八月三一日は小さくなった九月一日の背中を見つめた。

 そのとき、八月三一日はなぜ九月一日が誘ってくれたのか、わかった気がした。九月一日も八月三一日と同様に出日日を迎えることが不安だったのだ。どこからか聞こえてくる、自らに対する中傷に苦しんでいたのだ。それなのに、八月三一日は九月一日の気持ちを考えず、九月一日に甘えてしまった。

 八月三一日は自らの身勝手さと、思いやりの足りなさを悔いた。

 九月一日は大粒の涙を流し、絞り出すようにさらに不満を吐き出した。

 「そもそも夏休みの最終日が三一日であることが常識だという考え方がいけない。田舎では三一日以前に休みが終わっている場所もある。三一日が夏休み最終日であるという固定概念は都市部の人間たちだけの常識であって、全ての夏休みに該当するわけじゃない。ローカルルールだ。それなのに常識至上主義者どもは……」

 「そうそう。夏休みが八月三一日で終わると思っている人間が悪いよな」

 八月三一日は嗚咽する九月一日を優しく擦る。

 九月一日の号泣は止まらなかった。まるで、夏休み最終日に片付かない宿題に追われる人間のような悲惨な状態だった。

 そのような九月一日を八月三一日は見ていられなかった。

 「嫌な仕事を人間みたいに辞められればな」八月三一日はぼそりと呟く。

 「それだ!」

 九月一日は突然立ち上がった。涙の跡が残っているが、表情は清々しい。

 「日付を辞めよう」

 「どういうことだよ?」

 「正確にはおれたちが日付になるのをボイコットするんだ。八月三一日は八月三一日ではなくなる。九月一日は九月一日ではなくなる方法を探すんだ。成功すればおれたちは日付にならずに済む。夏休みの最終日とかいう意味のわからない行事も無くなるはずだ」

 やけっぱちの九月一日は雄弁に語る。酒は抜けていない。

 それから、九月一日はやろうとしていることを詳しく説明してくれた。

 明日、暦では二〇一七年八月三一日を迎える前に、八月三一日と九月一日は日付をバックレる方法を見つけて、実行する。そして、二人でどこかへ遠いところへ隠れるのだ。陽射しが眩しい、白く輝く砂浜がある、小さな小島のような場所でバカンスをするのだ。季節にもちょうど良い。何百年も仕事をしているのだから、一年くらい休みを取っても良いではないか。

 八月三一日と九月一日の日付は、八月三〇日と九月二日に仕事を押し付ける。彼らは八月三一日と九月一日の仕事もするはずだ。少し風変りだが、平凡な日常として日務を全うするのだ。

 バカンスを満喫している八月三一日と九月一日は無責任な誹謗、中傷を浴びることはなくなる。積み重ねられた心の傷は癒される。

 八月三一日と九月一日に苦痛を感じる人々も八月三一日と九月一日を過ごす必要は無くなる。なぜなら八月三一日は八月三〇日であり、九月一日は九月二日であるからだ。

 夏休みの最終日は実質存在しない。新学期は知らない間に迎えている。誰も苦しまない、幸せな世界の誕生だ。

 九月一日はそれらを実現できるものとして、熱く語ってみせた。

 しかし、九月一日の提案に対して、八月三一日の良心が反発した。

 「たしかにきみが言っていることはとても魅力的なものだ。でもぼくたちは摂理として日付になるんだ。摂理ということは、強制的ってことだ。ぼくたちはどのように足掻いても強制的に日付になる。嫌だからって逃げ出すことは許されないと思うな」

 この反論を九月一日は一笑した。

 「おいおい、八月三一日。おれたちは日付であって、時間の一種だ。それは人間のような知的生命体が勝手に決めたことだ。日付は摂理ではない。認識だ。人間のような時間に対する特殊な認知形態をもつ存在がいるだけで成り立つ。その人間は暦の制定をある程度好き勝手できる。それなら、当人であるおれたちも好きに決定してはいけない道理はないぜ」

 九月一日はさらに言葉を繋ぐ。

 「それにおれたち日付は奴隷じゃない。奴隷はあちらの方だ。おれたち日付がいなければ困るのは人間の方だ。これまでふざけたことをぬかしていた奴らに一杯食わせてやろうぜ」

 八月三一日は言い包められてしまった。そもそも、立場をわきまえていない奴らに躾をするのは、主導権を握るものの義務である。安易な誹謗、中傷の代償がどれほど高くつくのか思い知らせてやろうではないか。

 八月三一日のやる気は燃え上がった。

 こうして、八月三一日と九月一日による、前例のない日付ボイコットの幕が上がったのである。

 ここまでは八月三〇日の昼頃に起きた出来事である。

 八月三一日と九月一日は急いで準備に取り掛かった。二日が目的を達成するためにはいくつもの障害がある。それらを超えるためには。正攻法では時間が足りないことを二日は知っていた。

 この茶番は大きな問題を抱えている。それは次元の問題をどのように解決するかだ。

 この世界は縦、横、奥行きの三次元空間に時間が加わった、三+一次元という認識で成り立っている。空間と時間は不可分であり、簡単には切り離せない。空間内で変化が起きれば、時間が進んでいるのだ。正攻法なら、この二つを引き離す必要がある。この二つを引き離さなければ、二日は静養地に行くことはできない。

 空間と時間の問題が解決しても続きがある。時間そのものと切り離す方法が必要だ。時間は刻々と進んでいく。いずれは八月三〇日の出番が終わり、八月三一日と九月一日の出番が始まる。時間の連続性。八月三一日と九月一日という概念を時間から切り離さなければならない。さもなければ強制的に日付をさせられる。

 そして、その問題が二つとも解決したところで、二日がどこに身を隠すのかという難問が待ち構えている。バカンスが満喫できる日付のための小島などあるのか。そもそも日付が楽しめる行楽地などあるのだろうか?

 二日はこれらの問題をどうするか、知恵を出し合って考えた。

 「何らかの方法で空間を吹き飛ばして、時間諸共消滅させるというのはどうだろうか?」八月三一日が言う。

 「それだと、おれたちと時間の切り離しに成功していない。おれたちも一緒に吹き飛んでしまう。世界が無くなるということは、おれたちも消えてしまう。それでは意味がない。バカンスを楽しめない」

 「日付や時間という概念を残した上で、ぼくたちの概念を切り離さなければならないということか。これは難しいぞ」

 日付史上類を見ない難問に二日は真正面からぶつかり合う。

 「なら、暦の規定を弄って、八月三一日と九月一日を無かったことにすればいいんじゃないか。日付という概念を理解する生命体全ての認識を操作するんだ」

 八月三一日が再び提案する。

「それも難しいな。認識を弄る方法が思いつかない。おれたちは日付であって、神様じゃない。

 あと、因果の問題を乗り越えられていない」

 因果の問題はもう一つの大きな障害になっていた。物事には原因があり、結果が生まれる。結果が自然発生するということはない。原因という母が必要なのだ。強引に結果を生み出そうとすれば、強引に原因が押し付けられる。世界のお固い法則の一つだ。

「でも、いい線はいっていると思う。おれたちは時間に含まれると同時に、概念だ。概念を認識する存在の共通認識がなければおれたちは存在できない。しかし、認識をおれたちの有利になるように弄ることができれば、この計画は上手くいくはずだ」

 日付とは時間に含まれるとともに概念である。概念を持つ者がいなければ、存在することができない。

 例えば、音を感じる器官をもたない生物を想定してみよう。彼らの世界は音がない。音を感じることができないため、音という概念を認知していないからだ。音が周囲に溢れていたとしても、彼らは音を認識することができないため、存在しないものと見なしているのだ。そもそも、音という概念を想像すらしないだろう。

 八月三一日が言っていることは、八月三一日と九月一日の二つを世界規模で認識できないようにするということだ。

「それに、日付の概念は残ってもらわなければならない。その上で八月三一日と九月一日の概念が無くなってしまう必要がある。日付が無ければ、日付を代わってもらう相手がいなくなってしまうからな」

 肝心なのは日付の概念が残ったまま八月三一日と九月一日という概念が消失するということだ。そうすれば二つの日付は日付であるが正確な数字がわからない、認識が曖昧な存在になることができる。

 二人は真剣に考え続けた。

 時間は刻々と過ぎていく。八月三一日はすぐそこまで迫っていた。

「思いついた! これなら次元も、因果も、概念も問題ない。おれたちは自由になれる」

 九月一日は歓喜して、跳び上がった。

「教えてくれ! ぼくはどうすれば良いんだ」八月三一日は九月一日にすがる。

「簡単さ。仕事を押し付けて、バックレるんだ」

 九月一日は簡単に説明して、八月三一日を連れだした。

 時間は八月三〇日の暮れであった。

 次の瞬間、日付が変わる。

 本日は九月二日。そして九月一日であった。

 九月一日に計画通り、八月三一日はこの世から消え去った。そして九月一日も消えたのだ。

 それは単純で、無責任な手段だった。

 八月三一日は八月三〇日に、九月一日は九月二日に自らの概念を押し付けたのだ。

 押し付けたというよりは叩きつけたという方が正しいかもしれない。概念をそれぞれの相手にぶつけて、逃げた。当て逃げだ。二つの概念は同化する。衝撃で八月三〇日と九月二日の意識が飛んだ。時間が曖昧になる。

 八月三〇日と九月二日の気がついたときには、八月三一日と九月一日は消え去っていた。

 概念が同化したことにより、八月三〇日が八月三一日の役割を、九月二日が九月一日の役割を兼任することになった。

 八月三〇日が八月三一日でもあり、九月二日は九月一日でもある。そして、九月二日は元々は九月二日であるから、本日の日付は九月二日である。しかし、中身は九月一日であると同時に九月二日なのだ。八月三〇日は既に日付を済ませていたため、八月三一日ではあるが、本日が八月三〇日であると表示されることはなかった。八月三〇日が八月三一日の仕事を行おうとすれば、八月三〇日を二回も迎えることになり、日付は一年に一回という根本法則に反してしまう。そうなれば矛盾が発生する。因果が黙っていない。そのごたごたを解決するために因果が本来の日付である八月三一日をぶち抜いた。そして、九月一日を兼ねる九月二日が日付となった。

 こうして、夏休み最終日は失われた。

 迷惑を被ったのは八月三〇日と九月二日である。これから先、二日は嫌われ者の八月三一日と、前途ある若者を絶望に淵に突き落とす九月一日の役目を引き受けなければならないのだ。これまでは平凡な一日であった両者は突然戦場に駆り出されるようなものだ。堪ったものではない。

 八月三〇日と九月二日の二人は結託して、八月三一日と九月一日を探した。

 しかし、八月三一日と九月一日の行方は全くつかめない。

 探し疲れて、休憩を取ったのが九月一日兼九月二日の昼過ぎだった。

 九月二日は倒れたときに、近くに落ちていた一枚の手紙を握りしめていた。

 (バカンスに行ってきます。お土産、期待してネ。九月一日より)

 八月三〇日と九月二日は手紙を見て、怒り心頭、鬼の如き形相で狂った。

 「あいつらは何を考えているんだ!」八月三〇日が叫んだ。

 「落ち着くんだ八月三〇日。時間が無い。このままでは私たちは来年も八月三一日と九月一日を兼ねなければならなくなる」

 「そんなことはわかっている。しかし、どうすれば良い! あと半日でオレたちは兼業日付になってしまうぞ」

 九月二日は少し考えて、慎重に口を開いた。

 「……八月三一日と九月一日を探す時間を稼ぐ方法はある」

「本当か! それなら、さっさとその方法で試して、あの阿呆どもを見つけ出そう」

 しかし、九月二日は渋い顔をして、話そうとしない。

「おい! 時間がないと言ったのはおまえだぞ。頼むから早く話してくれ」八月三〇日は焦る。

「これは、外道な方法だがそれでも良いのか?」

「構わない。相手が道理に反したことをしたんだ。被害者のオレたちが対抗するため外道な行いをしても致し方ないだろう。目には目を、歯には歯を、だ」

 それは被害に対して相応の報復手段を取っても良いという昔の取り決めであって、方便に使われるものではない、と九月二日は心の中で呟いた。

 しかし、現状を打開するための手段は他にない。

 腹を括った九月二日は時間を稼ぐ方法を明かした。

 それはとても単純な方法だ。八月三一日と九月一日と同じことをすれば良いのだ。つまりは責任の押し付けだ。八月三〇日は八月二九日に、九月二日は九月三日に仕事を押し付ければ良いのだ。

 そうすれば八月三〇日と九月二日は、自由に八月三一日と九月二日を探すができる。二人を見つけ出したら、本来の日付を引き受ければ良いのだ。

 八月三〇日は九月二日の提案に戸惑った。あの外道である八月三一日と九月一日の真似をしなければならないことに、良心が揺らいだ。しかし、そうしなければ八月三〇日であり八月三一日という曖昧な概念を受け入れなければならない。そのような曖昧な日付など、日付精神に反する、下劣な行いだ。

 八月三〇日は渋々九月二日の提案に従った。

 そして、両者はそれぞれの相手を探した。

 八月三〇日と九月二日は八月二九日と九月三日に日付を押し付けることに成功した。

 この計画には予め、二つの取り決めが交わされた。

 一つは八月三〇日は過去方向の相手を、九月二日は未来方向の相手を標的にすること。それも直近の相手でなければならない。従わなければ因果の法則に反してしまい、日付の擦りつけに失敗してしまうからだ。

 もう一つは決して相手の許可を取ろうとしないこと。どれだけ物分かりが良くても、相手は絶対に承諾しないだろう。なぜなら日付は曖昧な存在であること嫌うからだ。追い詰められていた八月三一日と九月一日は異常なのだ。だから、相手の隙を見つけて、擦りつける必要あると考えた。

 取り決めが交わされた後、両者は相手を見つけることができた。

 そして、襲いかかった。

 時間は九月二日であり、九月一日である夜のことだ。

 こうして、八月二九日でありながら、八月三〇日であり、八月三一日である日付と、九月三日であると共に、九月一日であり、九月二日である日付が生まれることになった。

 それからはドミノ倒しのように事態は拡大していた。

 九月三日の未来方向と八月二九日の過去方向は、八月三〇日と九月二日と同じように話し合い、同じように結論を出し、同じように事を起こした。当事者たちは、なぜか方法が浮かんでくるのだ。日付の擦り付け合いが連鎖的に発生した。

 未来方向の日付と過去方向の日付はそれぞれの相手を捜し出して、日付を擦りつけた。

 その結果、八月と九月が消滅した。七月の日付と十月の日付が消えた八月の日付と九月の日付を兼任することになってしまった。

 日付は決して責任を負わない。誰も責任を負って、重なる日付を引き受けようとはしない。

 日付がどんどん消えていく。

 七月と十月が消えた。彼らが担うはずだった日付は六月の日付と十一月の日付が兼任することになった。

 日付の消滅が加速する。

 クリスマスと大晦日が消えて、十二月が消滅した。担当していた一二月二五日と一二月三一日は一年で最も盛大な祝祭日という重荷から解放されて、ホッとしていた。

 日付消失の加速は止まらない。

 四月二九日、四月三〇日、五月一日、五月二日、五月三日、五月四日、五月五日の金週兄弟たちは得意の連携技で、スムーズに日付を渡していった。進行方向は普段とは反対だが、そこは応用を利かせることで上手くいった。兄弟たちが日付を押し付ける瞬間、共通して思っていたことは、これからは休暇で盛り上がる人間の乱痴気騒ぎを聞かずに、静かに過ごすことができるということだった。彼らは静かな日付になりたかった。

 日付消失の連鎖は続いていく。

 一月一日は怒っていた。去りゆく一二月三十一日が新年と共に不愉快な代物を押し付けてきたのだ。それは九月一日から一二月三十一日までの日付である。一年の計は元旦にあり、と呼ばれる一月一日は日付には珍しく責任感がある。一月一日がしっかりしなければ後に続く日々がたちまち腐ってしまうからだ。ただ、今回は責任感よりも怒りが上回っていた。そして単純でもある。日付を放棄した後続どもを絞めなければ、日付としての品位に関わる。一は一以上であってはならない。一月一日は一月一日以外の仕事をしてはいけないのだ。一月一日は大義の為に堂々と一月二日に責任を押し付けた。

 日付消失の加速を止める日付はいない。

 四月一日が消滅したとき、四月が消えた。四月一日は、初めはこの現象が嘘であると思っていた。四月一日は嘘をついても良いという風潮が、四月一日のなかで常に嘘をつかなければならないという強迫に変化して、全てが嘘に思えるようになり、気がつけば全てが嘘なのだと四月一日自身が思うようになっていたからだ。しかし、今回ばかりは嘘ではないということに気がついて、三月三一日に日付を押し付けることに成功した。間一髪のところであった。

 日付消失は、遂に終着日に辿り着く。

 過去方向の日付は三月一日に責任を押し付けることに成功した。

 未来方向の日付は二月二七日に責任を押し付けることに成功した。

 ここに八月三一日から三月二日までを兼任している三月一日と、九月一日から二月二十六日までを兼任している二月二十七日が誕生した。

 ここが天下分け目の決戦の場であることは両日が理解していたことだ。

 どちらが二月二八日に日付を押し付けるか。これにより、日付の押し付け合いの勝者が決まる。勝てば自由。負ければ後で二月二八日に勝者の日付を押し付けられる。全ての日付を兼任する、「日付」になってしまう。永遠に「日付」として過ごしていかなければならない。休みがないのは嫌なことだ。

 過去と未来の戦いは凄絶を極めた。先に二月二十八日に日付を擦りつける。そのために両者は悪魔に日付の尊厳を売った。悪人が何度も転生しても思いつかないような悪事、姦計、策略、あらゆる手を行使した。互いに譲らなかった。「日付」になろうとしなかった。全ての日付を背負うことは御免なのだ。

 そして、遂に、決着がついた。

 未来方向の日付である、二月二七日が二月二八日に日付を押し付けたのだ。因果の矯正は起らなかった。

 これまでか、と悄然としていた過去方向の三月一日は、しばらく肩を落としていた。しかし、重大な見落としに気づき、救いの神に感謝した。

 暦は太陰暦を採用している。ならば二月は二月二八日で終わりではない。四年に一度、帳尻合わせのために生まれた二月二九日がいるではないか。影が薄くて忘れていた。三月一日は急いで彼を探した。

 二月二九日はポツンと一人で座っていた。最後の仕事が二〇一六年であったため、辛うじて存在感がある。

 三月一日は二月二九日に何も言わずに責任を押し付けた。

 こうして、真の最終決戦である、二月二八日と二月二九日の戦いの幕が上がろうとしていた。

 しかし、二月二九日は奸智に長けていた。四年に一度しか仕事が無いため、それ以外の日々はやることがない。二月二九日は思索に耽ることで、退屈な時間を消費していた。

 二月二九日は二月二八日に取引を持ち掛けた。

「二月二八日さん。おいらはあんたと取引がしたい」

「なんじゃ? おまえさんが「日付」を引き受ける気になったのか?」

「違う。そんなことよりももっと建設的な取引さ」

「それなら言ってみ。もしろくでもないことだったら、わしが背負っている日付を背負ってもらうよ」

「その日付の押しつけについてだよ。おいらたち日付よりも適した押し付け相手がいることに気がついたんだ」

「ほう。その相手は?」

「年さ」

 二月二九日は自信満々に語る。

「おいらたちの日付は年に押し付ければ良いんだ。二月二十八日さんの日付は二〇一七年に、おいらの日付は二〇一六年に押し付ける。それぞれは過去と未来の二方向に広がっているから、押し付け合いは起こらない。あとは年が勝手にやってくれるさ」

 二月二八日はその提案を受け入れた。

 そして、二月二八日は二〇一六年に、二月二九日は二〇一七年に日付を押し付けた。

 二〇一六年は九月一日から二月二十九日までの日付を兼任する年になった。二〇一七年は八月三一日から二月二八日までの日付を兼任する年になった。

 当然、二〇一六年と二〇一七年は困惑した。両年は考えて、自分がなすべきことをした、

 それからは、これまで通り以上の押し付け合いだ。

 二〇一六年は過去方向へ、二〇一七年は未来方向へ、それぞれの方向へ進み、日付と年を押し付けていた。

 世界はおかしくなった。数々の無理により、綻びが生まれたのだ。

 概念の押し付け合いは時間を狂わせた。過去方向へ進み年は過去へ、未来方向へ進む年は未来へ実際に進むこととなる。両年の時間の距離が離れていく。

 両方向の年たちは、様々な年が兼任をして、同化した。年が同化するということは、ある年に起きる出来事と別の出来事も同化するということだ。薄い紙に描かれた絵と絵を重なり合わせた状態と考えてかまわない。

 その結果、歴史は失われた。

 二〇二〇年が二〇二一年に年を押し付けて、二〇二〇年が曖昧になった。熱狂に包まれる予定だった東京オリンピックが不鮮明になった。

 二〇四五年が二〇四六年に年を押し付けること、二〇四五年が不鮮明になった。危惧されていた二〇四五年問題は、一九九九年のノストラダムスの騒ぎと同様に空騒ぎで終わってしまった。

 三三七六年が三三七七年に年を押し付けたことで、三三七六年が霞みになった。三三七六年に火星で生まれたはずの火星人の印象がはっきりしない。

 二六二八八年が二六二八九年に年を押し付けたことで、二六二八八年が霧に包まれる。二六二八八年で地球が吹き飛んだのだが、そもそも地球があったのかわからない。概念と認識の問題は知的生命体が宇宙に拡散したため、特に問題にならなかった。既に宇宙には、地球発信の暦を解する知性をもつ生命体が拡散されていた。地球のようなちっぽけな惑星が吹き飛ぼうが、暦にとってはたいした事件ではないのだ。そもそも、暦を理解する生命体が存在した年は消えたわけではない。重なり合っているだけであり、その存在がピンボケしているだけだ。そのため認識問題は簡単に解決している。結局のところ騒ぐような問題ではなかったのだ。

 こうして未来方向の年の押し付け合いは無限に続いていた。

 無限に続くということは、果てがないということだ。それがこの年単位における押し付け合いの提案者、二月二九日が予想していたことだ。

 未来方向は永久に年の受け皿が生まれ続ける。それは過去方向へ決して年を押し付けないということでもある。

 しかし、過去方向は違う。過去は有限だ。

 この宇宙が生まれた瞬間。ビックバンに突き当たれば全てが終わる。

 宇宙の始まりに起きたとされる大爆発。このときに空間と時間が誕生した。ということは、時間はそれ以前には存在していないということになるはずだ。

 時間が無いとは、それ以上は遡ることができないということ。年と日付を押し付ける相手はいなくなる。

 では、その先はどうすればよいのか?

 未来だ。永遠の受け皿を持つ働き者に過去の全ての年を押し付ける。そうすれば過去方向の役目はお終い。日付と年は完全に結合する。未来方向は永遠の受け皿を持っているのだから、たかが百五〇億年分の責任など軽いだろう。未来はこれから先、途方もない盥回しを行うのだから。

 これこそが発案者二月二九日が想定した、両者が得する提案の真実だ。

 過去方向の暦たちはこの仕掛けに気がついていた。全てを終えて楽になるために、原初の大爆発まで急いで年を押し付けあった。

 一九一四年が一九一三に年を押し付けた。色々な悲しみが曖昧になった。歴史が意味を失ったいまでは、これでよかったのかもしれない。

 一年が紀元前一年に年を押し付けた。これにより西暦が消えた。苛烈な争いの年が半分消えたことになる。

 紀元前九三五六万一七六二年が九三五六万一七六一年に年を押し付けた。最初の人類の存在が曖昧になった。それでも年の概念は消えない。重なる時間の影響もあるが、それだけが理由ではない。どうやら、地球以外にも知的生命体は存在したようだ。

 紀元前四〇億二三八二万二六七五年が四〇億二三八二万二六七四年に年を押し付けた。本来なら地球で誕生するはずだった生命体が霞みになる。これで生老病死から生命は解放されたことになる。良いことではないか。

 紀元前四六億四八六五万一九一八年が紀元前四六億四八六五万一九一七年に年を押し付けた。地球の存在が曖昧になった。まあ、仕方がない。暦にとっては重要なことではないのだから。

 過去方向の年の押し付け合いはさらに加速する。過去方向の暦たちが求める爆心地に向けて遡行する。そして、遂にその瞬間が来た。

 紀元前百五〇億一三九三万八七年。宇宙が誕生した瞬間に、過去方向の年である紀元前百五〇億一三九三万八八年が辿り着いたのだ。

 そこは爆発により大量の粉塵がまき散らされている以外は、黒い虚空が支配していた。しかし紀元前百五〇億一三九三万八八年は驚かない。似たような時にいたからだ。紀元前百五〇億一三九三万八八年は紀元前百五〇億一三九三万八七年を探した。そして、見つけ出し、紀元前百五〇億一三九三万八七年に年を押し付けた。消える間際、紀元前百五〇億一三九三万八八年は、このようなことをする必要はあったのかと疑問を抱いたが、答えを見出すことができなかった。

 こうして、紀元前百五〇億一三九三万八七年が二〇一七年八月三一日から紀元前百五〇億一三九三万八八年までの年と日付を兼任する「過去」になった。

 紀元前百五〇億一三九三万八七年は「過去」を未来方向にいる年に押し付けることが使命であると知っていた。突然、思い浮かんだのだ。未来方向で永遠に盥回している年に「過去」を押し付けるため、未来へ向おうとした。

 しかし、紀元前百五〇億一三九三万八八年を含めた過去方向の暦たちには見落としていた失敗があった。

 過去方向の暦たちはあまりにも急ぎ過ぎた。急ぐ余り、止まることを忘れていた。彼らは役目を果たすために、次の相手を瞬時に見つけて、年を押し付けていた。それは速度は光に及ぶほどに素早かった。時間も瞬く間に切り替わる。その結果、慣性の法則で止まれなくなっていたのだ。

 紀元前百五〇億一三九三万八七年はさらなる過去方向へ進む。

 止めることができない。紀元前百五〇億一三九三万八七年は諦めて、全ての始まりを待つことにした。一瞬で終わるのだから問題ない。

 瞬転。紀元前百五〇億一三九三万八七年はビックバンと対面することになった。

 急速に色が失われた。真っ黒な虚空が消えていく。代わりに空間がない白が充満していった。真の無が、現れた。

 そこで、紀元前百五〇億一三九三万八七年は思いもよらない相手と対面する。

 真の無に存在する概念があった。時間だ。紀元前百五〇億一三九三万八六年が、いた。

 紀元前百五〇億一三九三万八七年は驚いた。紀元前百五〇億一三九三万八六年は存在しない。理論上は存在してはいけないはずだ。

 ビックバン以前には空間が存在しないのだから、それに付随している時間も存在しない。

 しかし、現実に紀元前百五〇億一三九三万八六年は存在している

 これはどういうことなのか、瞬間の世界で紀元前百五〇億一三九三万八七年は考えた。

 瞬間?

 紀元前百五〇億一三九三万八七年は重大なことに気がついた。時間はまだ存在する。空間に時間が付随するのではなく、時間に空間が付随しているのだ。空間と時間は対等な関係ではない。時間が優位なのだ。ビックバンは空間を生み出しただけだったのだ。

 それでは、過去における時間の果てとはいつなのだろうか。

 一瞬だけ疑問が浮かんだが、すぐに紀元前百五〇億一三九三万八七年は紀元前百五〇億一三九三万八六年に年を押し付けた。

 当然だ。時間は止まらない。ここで止まれば紀元前百五〇億一三九三万八七年が曖昧な「過去」になってしまう。この先にはまだ紀元前百五〇億一三九三万八五年や紀元前百五〇億一三九三万八四年などが存在しているはずだ。答えは遥か彼方にいる彼らが見つけるだろう。

 こうして、「過去」の最後の年になるはずだった紀元前百五〇億一三九三万八七年は消滅した。

 こうして過去方向への概念の押し付け合いも、未来方向と同様の無限の受け皿を手に入れることになった。

「日付」「年」の押し付け合いは止まらない。

 時間に責任は持てないのだから。

 


 ところで日付を押し付けてバカンスにしけこんだ、一連の騒動の首謀者である八月三一日と九月一日はどこに行ってしまったのだろう?

 実は、彼らはバカンスに行けなかった。日付を押し付けるという方法は、根本的に間違っていたのだ。彼らは八月三〇日と九月二日に責任を押し付けた瞬間に、それぞれの相手に取り込まれてしまった。同化されたのだ。

 概念というものはそのものを規定するものである。それは絶対に不可分な構成要素のようなものであり、切り離せるものではない。概念だけを相手に同化させることなどできない。酒が残っていた九月一日は初歩的な部分を見誤っていたのだ。

 八月三一日と九月一日は八月三〇日と九月二日に概念を押し付けた。その結果、八月三一日と九月一日は八月三十日と九月二日と重なり合い、同化した。

 九月二日は九月一日であり、八月三〇日は八月三一日であるということは、文字通りそのままの意味だったのだ。

 八月三一日と九月一日はそのことに気がつくことなく、実質的に消滅した。夢見たバカンスは夢になった。

 概念の同化は、本当の意味も理解されないまま、後続の日付や年たちの間で行われて続けた。

 こうして「未来」と「過去」が誕生した。

 では、「現在」どこにいるのだろうか?


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時間は責任を取らない 中田 中 @ataru_urata

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