不幸小僧の夢を見た

十笈ひび

不幸小僧の夢を見た

 もう、全てはすっかり揃ってしまったような気がした。

 私はまだ若く、まだ未来ってものがあって、その未来を想像するとき、それはたいがい輝かしいものであるはずだと私は思いこんでいて……

 そう、そのはずだった。

 でも、今ではちっとも、ちっとも……

「おい! ここでちっともという言葉はおかしいだろ? まったくとか、さっぱりじゃないのか?」

 と国語の先生にも言われ、それは一学期の成績にまで響いた。

 数少ないミスを、いつまでたっても忘れない先生だった。

 その先生は記憶の達人だった。

「記憶力ってものは訓練次第なんだよ。今の学校の試験はこの記憶力が全てだからな。この能力があるかないかでバカと天才が決まるってわけさ」

 その先生は自慢たらしく笑っていた。



 今まででも、少しおかしい。

 ほら、なんとなく文法がなってないでしょう?

 それはあなたが悪いわけじゃない。

 あなたが混乱する必要はない。

 全てはただの暇つぶし。

 全ては時間の無駄。

 わずかの喜怒哀楽を感じるかもしれない。

 でも全ては共通してるのです。

 最終的に、全ては同じ結果になるでしょう。

 時間の無駄、よく見て暇つぶしだったと……



 さっき薬を飲みました。

 単なる風邪薬です。

 じきに眠たくなり、熱にうなされ始めました。

 それからは、私の部屋は無限の広がりをおびはじめました。

 部屋の四隅がどんどん遠くなり、私が小さくなっているのかと錯覚したほどです。

 薬のせいだ。こんなこともあるだろうと、私は冷静でした。



「そうだな。もうやるべきことはすべてやったような気がする。いや、実際に僕がすべてを体験したというのではないかもしれない。それは擬似的なことだったかもしれない。でも、おそらく、全ては満足するまでやり尽くしてしまった。人によって、まだそれは満足する値に達してないのかもしれない。人間の欲深さなんて底知れないものだから……

 ああ! そんな言葉も聞き飽きてしまった! 僕自身何度も使っていたからな。結局、全てにおいて都合のいい言葉だった。僕が悪人だった時、本当にこの言葉はお気に入りだった。思い出すなぁ〜、悪人だった頃!」


 

 それはまるで台本を読むように明瞭な声。楽しげだったので、とても興味がわきました。

 それに、私は熱にうなされているようでもなく、体もまるで体重をなくしたように軽いのです。

 部屋の壁はもう遙か彼方で、視認するのも難しくなりました。

 部屋の床には、見たこともないような幾何学模様の絨毯が敷かれていて、これも果てしなく彼方まで続いています。

 あの声の主は、少し離れた場所にある私の勉強机の裏に立っているようでした。

 そこはまったく遠近感が感じられない世界でした。感じられないというよりは、無視されているような気がしました。



「もう何もいらないな。楽しいこともすっかり失せた。何も楽しくない世界の到来だ! 

 ああ! 本当に何も楽しくない世界は、信じられないけど、全てが何も楽しくなかった。

 でも、みんな幸せってヤツには憧れてた。

 僕もそうだ。幸せの為なら何だってした。

 それには金が必要だ。そう奴らは言った。金のためにはまず学歴さ、そんなことをしたり顔して奴らが言うから、僕は名高い大学を卒業した。

 そして、語学に長けてなくてはならないというから、存在する国語の大半を話せるようになった。

 さあ! いよいよ金儲けだ! 幸せの為に必要だっていう金を必死になって集めたよ。しかもそれは半端な量じゃなく、有り余る程に、途切れることなく必要だというから、そのように金ってやつが集まる方法を考えた。

 ある程度の年齢に達すれば、素敵な恋人が必要だと言うから、誰もが羨む恋人もつくった。

 そして、結婚もして子供もできた。

 家族――

 これぞ幸せの究極の形態!」



 机に近づいてわかったことですが、その机は予想をはるかに超える大きさでした。

 私が目で測った距離感なんて、当てにはならないほど、近づけば近づくほどその机は大きくなりました。

 ふと思ったのですが、これは私が縮んでいるのかもしれません。

 やっと机の脚にもたれかかれるほど接近して、声の主に見つからないように慎重に脚の裏に身を隠しました。

 言っていることはよくわからないけど、なんとなく、しばらく何を言い出すのか聞いていたいように思いました。



「あり得なかった。驚いたよ。全然違う。そうじゃない。

 僕は幸せをいまだに知らない!

 幸せ! 幸せ! 幸せ!

 ああ~! 叫べば叫ぶほどなんて虚しい言葉なんだ~!

 愛も同じだ。

 愛がほしい! 愛がほしい! 愛し愛されたい!

 ああ~! まったくなんてことだ。この二つの言葉、どうにもこうにもなんてそっくりなんだ! 言葉にすればするほど空っぽになる! すっかり空っぽだ。真っ白になってゆくよ~!」



 おかしい。

 少し変です。その人の声は、空気を介して伝わる音とは少しちがうようでした。

 それに、なんだか私の知っている人たちの声とはまるで違って、言葉を聞いて物事を理解するという余計な作業がいらないような気がしました。

 私が生まれてから今まで続けてきた、そんな作業を余計な作業だと気づくこと自体、変。

 その声を聞くと、訳の分からない悲しい気持ちになりました。無性に泣きたくなるほどでした。実際に、その時泣いたらどれほどすっきりするだろう。

 もうそこは私の部屋ではなくて、どこか別の異国の地みたいで、声の主と私以外には誰もいないようでした。

 声の主も、まるで存在していないようで、音楽が流れているとてつもなく広大な部屋で私一人だけいるみたいでした。

 恐怖心がないというのが不思議でした。

 私はとてもくつろいだ気分になって、机の脚にもたれかかって腰を下ろしました。

 ふと視線を落とした先には、黒いエナメル靴が見えました。ブランドには詳しくない私でしたが、その靴がとてもおしゃれだってことはすぐにわかりました。黒い靴の底、その縁ぐるりに赤いラインが入っていました。吐き口にも赤い縁取りがあって、歩くたびにその赤が見え隠れします。

 ふと視線を上げると、声の主が私の前に立っていました。



「僕は記憶なんてものを信じたことはない。万能だとは思わない。必要だけど、それが全てなんてあり得ない。

 でも記憶は素晴らしかった。あの音楽を何度も口ずさめること。こんな幸せはない。この上なく幸せなあの瞬間!

 あのレコードをもう一度かけよう!

 あの流れ出すメロディを聴くこと。

 記憶し、何度も口ずさんだあのメロディを実際に聞く喜び!

 同じだ! 何度も頭の中で繰り返し流したあの音楽と、何も変わらない、色褪せない! 同じだ! 同じ音だ! この感動がわかるかい? この幸せが!」



 夜が明ける瞬間というのを見たいと思ったことがある人ならわかるかもしれない。夜と朝の境界。それはまるで線で引かれたようにくっきりと違いがあるのだろうか。あんなに暗い夜と、あんなに眩しい朝。その変化、グラデーション。どんなものだろうかと一晩中空を見上げていた人ならわかるかもしれない。まったく顔を覚えられない人のことを。

 何度もその人に会いました。たくさんおしゃべりもしました。その人のいろんな仕草、表情だって覚えているはずなのに、どうして顔を思い出さないのか。

 ……表情。

 表情だって覚えてる。私もその人の前では何度も同じ表情を見せていたから。

 ほら、思い出すだけで私の表情が変わる。

 それはその人のせい。その人の表情を思い出すせい。

 でも、相変わらず顔は思い出さない。絵にも描けない。

 声の主の顔というのは、私は覚えられない。覚えられないし、思い出せない。

 その世界にはカメラも持ち込めない。その世界にはボイスレコーダー、通信端末、ありとあらゆる記憶装置の類は全て持ち込めない。紙に描くこと、それすらその世界ではできない。私が何か持ち込めば、すぐに気づかれた。そうすれば、簡単だった。

「今日は会えない」

 こうなる。

 決して私の都合では動かない。

 でも、何も持ち込みさえしなければ、願いはすぐに叶います。

当然のように、その人はやって来る。

 だけど、何も持ち込まないなんて、とてつもなく難しいこと。何も持ち込まない、それは私の欲さえ持ち込めない。私のつく嘘さえ持ち込めない。少しでも何かを持ち込めば、返事はいつもお決まりのもの。

「今日は会えない」

 全てはそれでおしまいになってしまう。

 だから、いつもこの人と会うときは、こんな時でしかあり得ないのかと思いました。

 私が風邪薬を飲んで、夢と現実の境目がわからなくなった、ほんの一瞬。

 その瞬間だけには、とても鮮明にその人の声を聴くことができました。

 風邪の日。学校を休んで、全てのことがどうでもよくなって。一人っきりの部屋で布団にくるまりながら、薬が効き始めてまどろむ瞬間。天井がグラグラと揺れ始めた瞬間。その声が聞こえてきます。

 今日もまた、私が長い間待ち望んでいた瞬間の、天の声にも近いその声が。

 声の主の顔は今日も覚えられない。

 でもその瞬間には確かによく見えていたんです。

 歌うような声が聴こえてきたら。

 長い台詞を滑舌良く、リズミカルに語る声が聞こえてきたら、私は耳を澄ませます。



「随分ここもなじんできた。以前はもっと住みにくいのかと思っていた。僕はずっと不幸だった。不幸小僧って名乗っていた時代があったんだ。誰もが僕を嫌った。せっかく店を訪ねてやっても、ほうきを振り回されて追い払われた。

 僕自身は何もしやしないが、どうも僕が近づくと不運が後に訪れるらしかった。

 よくわかる話だ。僕は不幸小僧、もっともなこった。僕の後にはいつも不幸が残される。足跡みたいな不幸がいっぱい。

 でも、その足跡は黒くてよく目につくから、僕は必死でふき取ってたんだ。

 みんなきれい好きだったから、至る所を汚しちゃいけないと思ったんだ。

 雑巾持っていつだって、足跡を消して歩いたよ。

 でも、一人じゃ全部は消せなかった。

 誰か手伝ってほしかったけど、なんせ僕は不幸小僧で、近づく者全てを不幸にするらしいから、誰も近づいてはこなかったし、その足跡に触れるのもみんなはいやがった。

 この足跡をつけない方法はといえば、僕が一切動かないことだった。

 僕はここで立ちつくして、やがてそこら辺の樹と見分けがつかないくらいになればよかった。

 すると、もうこの不幸小僧ともおさらばだった。

 不幸小僧と人は呼び、僕もそうだと思ってた。

 なんせぴったしの愛称だった。

 僕は泣いたことがなくて、人は僕を氷のような冷血漢だと思っていた。

 どんなことがあっても涙は流さない。

 そもそも感情なんてありはしない。

 絶対零度の心臓。

 だけど、せめて、せめて今ある物、僕が好きな物、そんな物を眺めさせてくれてもいいじゃないか。

 僕は自分の足跡はできる限り消したよ! あなたに触れることだってしない!

 でも、僕だって好きな物があって、好きな人がいる。

 誰も僕のことは知らない。

 不幸小僧なんて、知り合いがいても誰も喜ばれないから。

 ただ、そっと眺めるだけなら、誰も不幸にはならないだろう。

 たとえ僕が不幸小僧でも、誰も不幸にしない。

 それでも、そのわずかに残してしまった足跡が不幸を招く。

 僕はあの樹と同じように、もう一歩も動かずここにいたほうがいい。

 僕の足から次第に根が生えてきた。僕は樹になるんだ。

 ああ、僕は樹になるぞ!

 そうだ、もっと早くこうしていればよかった。

 こうして樹になってしまえば、もう不幸小僧じゃなくなるもんな。

 ここにこうしていれば、リスが毎日遊びに来てくれた。

 すっかり太い枝になった僕の両腕が、今では小鳥の休憩所だった。

 雨が降れば、森の動物達は僕の下で雨宿りをした。

 僕はもう不幸小僧じゃない。

 でも、どうだい、この丘から見えるあの街の様子は、不幸小僧の僕がいなくなって、一切の不幸はなくなったのかい?

 あれからどれだけの時間がたったか、もう僕にはわからないけど、この街や、この世界から全ての不幸はなくなったのかい?

 今では幸福な人たちばかりがいるのかな。もう僕が足跡をつけることもなくなって、みんな不幸小僧を恐れることもなくなったろう。

 きっと、ずっと幸福なんだろうな。

 これでよかったんだよ。もう足跡をふき取ることもしなくていいんだから。

 足跡をつけるヤツもいないんだよ。

 この樹さえなくなれば、もう完全に不幸はなくなる。

 さよなら、さよなら、さよならみんな。

 この丘はもうすぐすれば新しい街になるのだという。

 これで、この世界からは土の地面が完全に消えるのだという。

 全てはコンクリートで覆われるらしい。

 僕は近々他の樹と同じように、切り倒される予定だそうだ。

 森の動物達のことが心配でならない。

 僕は不幸小僧。でも、大好きな動物達の為に何かしたかった……。

 ただ、祈ろう。祈ることなら、僕にもまだ残されてる。

 大好きなみんな、僕がいなくなっても、忘れないでおくれ……」



「忘れないでおくれ……」

 と私もその言葉を繰り返しました。

 でも半分は夢の中です。

 薬が完全に私の意識に勝ったのでした。

 次に目を覚ましたときは、今聞いた話も、垣間見た光景も、全部忘れてるかもしれません。

 今の話は誰の話で、誰が語っていたのか、もうわからないでしょう。もし覚えていたら、きっと私は書き記します。

 約束します。



 風邪が治れば、私は好きなことを好きなようにします。

 テスト勉強さえしないのです。

 また先生が嫌味を言います。

 そんなのは平気でした。だって、これは先生の人生ではないのだから。これは私の人生なのです。先生がテストに出るから必ず覚えておけといった箇所さえ忘れます。

 いろんな事を忘れて、もう思い出しません。

 誰かが私に忘れるなと強制したのでしょうか?

 先生は覚えておけというけど、忘れるなという言葉は使わなかった。

 あの先生の顔を一番に忘れたいです。

 きっといつかきれいさっぱり忘れるでしょう。

 そして、また私は風邪をひきます。

 この先、何度も何度も風邪をひきます。

 でも、風邪をひくたび、私は思い出すのです。あのとき、私の中に直接語りかけてきた声のこと。そして、その主のこと。



 忘れないでおくれ……



 あまりにも悲しい声で最後にそう言った、誰かのことを。

 私が忘れない限り、何度も何度もその主に会える気がします。

 本当に忘れない、忘れたくないことだけを覚えていたい。

 その他は、私にはどうでもよかった。

 ありとあらゆる方法で、人はいろんなことをありのまま記憶できる技術を身につけた。でも、あの声の主の声と姿は、私の中にしか残っていない。

 だから、あの人は言うんだ。

 忘れないでおくれ、と。

 人の心に刻まれた言葉や風景ほど、強烈な記憶など、どこにも存在しないのだから。



【おわり】

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