track 5



 ――歌?

 鼻歌が、聞こえる。

 透き通った、哀しげな少女の声。

 夜空に溶けるような。こんなにもうつくしい世界に、掠れて消えていくような。そんな儚げな歌声。


    †††


 あの森でぼくたちは

 たくさん遊んだね


 かくれんぼではいつも

 ぼくが鬼だったっけ


 きみをみつけたとわらってたけど

 ほんとうはもうひとり

 かくれてたのに


 あの森はぼくたちを

 やさしく包んだね


 出かけてしまう朝には

 涙が溢れたっけ


 夜に眠れない子どもたちが

 眠れるようにと

 きみは泣いていた


    †††


 わたしは少女が歌い終わるまで、静かに待った。少女もまた、涙を流していた。

「――アリシア……」

「――きょうこちゃん! おはよう!」

「アリシア、今は夜じゃないかしら?」

「あ、そ、そうだね」

「今は何時ごろ?」

「八時くらいだよ~」

「……そう。ごめんね。けっきょくいっしょに遊べなくって……」

「ううん。いいの。それよりね、きょうこちゃん……」

 アリシアはふっと、目線を落とす。

「どうしたの?」

「――え~とね……あんまり、ほんとうのじぶんをかくさないでね」

 そう言って、しがみついてくる。ううん。たぶんわたしを抱きしめているつもりなのだ。

 わたしはアリシアの頭を冗談っぽく撫でつける。かまちが河合由梨によくそうしたように。

「な~に言ってるの。わたしはわたしよ」

「でも……」

 アリシアはわたしの身に絡めた手で、背中をそっとさする。

「いいのよ。痛くないの」

「でも……」

「それより、アリシアはちゃんとご飯は食べたの?」

「……ううん、まだ」

「もう、わざわざ待っててくれなくってもよかったのに。みんなと食べることは大切なことよ」

「――その言葉、そっくりそのままあなたに返してあげたいわね」

 穏やかに微笑みながら、先生が晩御飯をお盆に載せて運んできた。

「はい、鏡子。はい、こっちはアリシアの分よ」

「ええ、ありがとう」

「ありがとう、せんせい!」

「それにしても、鏡子、ずいぶん眠っていたわね。疲れているんでしょ。今日はもう泊まっていきなさい」

「え……、でも」

「いいのよ。どちらにしても、すぐにどうこうなるような状況じゃないのでしょう?」

「そうだけれど……」

「きょうこちゃん……」

 アリシアは寂しそうな瞳で、見つめてくる。でもそれはどっちなの?

 ううん。わかっている。きっとアリシアは、わたしのことを心配してくれている。わたしは、ダメだ。こんな幼い子に、それもいつも傷つき苦しんでいるような子に、こうまで心配をかけさせてしまっている。

「――さあ、まずはご飯を召し上がって。早くしないと冷めちゃうわよ。わたしは先に、寝具の用意をしておくから。寝るところは、アリシアといっしょでいいわね」

「え、ええ」

 けっきょく、先生とアリシアに押される形で今夜の宿泊が決まってしまった。

「あ、それとね。ご飯の後、アリシアをお風呂に入れてあげてくれる?」

「……わかったわ」

「ありがとう。それじゃあね、鏡子、アリシア」

「せんせい、またあとでね~」

「……いろいろとありがとう。さつき先生」

「いいのよ。大したことじゃないわ」

 そう言って、先生はひらりと手を振りながら部屋を出ていった。

「――うん、それじゃ食べよっか」

「うん!」

「「いただきます!」」

 今夜の献立はマコガレイの塩焼き、ひじきの煮つけ、サラダ、お味噌汁、沢庵。

 アリシアはうれしそうにお箸を手に取り、にこにことご飯を食べ始める。わたしも、ついつられて微笑んでしまう。確かに。親しい誰かと食べるご飯は、優しい。今のわたしには度が過ぎるくらいに。どうしてか、わたしは突然に涙が湧き出そうになるのを寸でのところで堪えた。これ以上、幼いアリシアに余計な心配をかけるわけにはいかない。幸い、ご飯に夢中になっているアリシアはそれに気づかなかった。

 アリシアはおぼつかない手つきで一生懸命カレイの身をほじる。

 息をフーフーさせては、暖かいお味噌汁を飲む。

 口をはふはふさせながら、白いご飯を目一杯にほお張る。

 アリシアは、ほんとうにおいしそうにご飯を食べる。わたしには、なぜかその姿がとてもうれしい。こうしていると、アリシアがほんとうに幸せそうに見えるからだろうか。

 けれどそれは――

「おいしいね、きょうこちゃん」

 アリシアはふと顔を上げて言う。にこにことした顔で。

「そうね。おいしいわ」

 アリシアと食べるご飯が、おいしくないわけがない。わたしはそう思った。

 またしばらく、心地よい沈黙が流れる。わたしには優しすぎる、暖かい団欒の静寂。

「――あのね。きょうこちゃんはね。ひとりになっちゃだめなんだよ」

 アリシアが再び顔を上げて云う。

 わたしは嘘をつく。

「な~に言ってるのよ、わたしにだってお友だちがたくさんいるんだから」

「でも……」

「ほ~ら。それに、こうやってさつき先生やアリシアも居てくれてるじゃない」

「うん! アリシアも、いる!」

 アリシアはうれしそうだ。顔をきらきらと煌めかせている。

 話を逸らすなら、今がちょうど良い頃合いだろう。

「――ね。そういえば、さっき歌っていたのはなんていうお歌なの?」

「えっとね。ふぇありー・ているっていうんだって。このまえ街につれていったもらったときにね、仔犬さんと仔猫さんがいっしょにうたっていたの。とっても仲がよさそうだったんだよ~っ」

 きらきらとした目で言う。子どもらしい比喩だろうか。けれどそれは、時として物ごとの正鵠を射ることもある。この場合もそうなのかもしれない。なぜだか、そんな気がした。

「でも、よく覚えているわね」

「えっとね。CDをもらったの。それでおぼえたの」

「そうなの。いいお歌だったわ。わたしもあとで先生に頼んで録音させてもらおうかしらね」

「うん! そうしよ~♪」

 アリシアはうれしそうだ。

「アリシアはね。『夜に眠れない子どもたちが眠れるように』っていうところが、いちばん好きなの」

「そう……ね」

 アリシアは、いつも他人の心配ばかりしている。こんなにも幼いのに。自分自身、とても辛い身の上なのに。

「……アリシアはね、みんなにしあわせになってほしいの」

 けれどそれは、この世界では絶対に不可能な命題だ。アリシアは悪意以上に、人の隠し持った痛みにあまりにも敏感だ。だから、それをどうしても夢見てしまう。

「アリシアはね、じぶんがそんなに長くないって知ってるから。だからね、できるだけのことをしたいの」

 アリシアに憑いた天使は永く生き過ぎた。あと十年もすれば、宿主もろとも朽ち果ててしまうだろう。だから、組織もその限りある強力なリソースを使い切るのに必死だ。当然、幼いアリシアには特別なカリキュラムが施される。一般の教育課程など無視して、本格的な戦闘訓練を幼い身に詰め込む。先生は、煮え湯を飲む思いでその施行を見守り続けている。

「……そう、ね。でも、あまり無理はしちゃダメよ」

「ううん。ムリをしてるのはね。ほかのみんなとか、せんせいとか、きょうこちゃんだよ」

「もう。あなたはね、幼すぎるのよ。それにあなただって辛いはずよ。ひとりでなにもかも抱え込んじゃダメよ」

「だって、アリシアはね。コピーだから。みんなみたいに、ふかい傷をもってないから」

「……ばかっ」

 わたしはアリシアから目を逸らす。苦虫を噛む思いで、机の下へ視線を落とす。

「……なん……で?」

 アリシアは、辛そうな声で訊く。きっと、自分が怒らせてしまったかと心配しているのだ。

 ばかはわたしだ。また、アリシアを傷つけてしまう。わたしはまた冗談っぽくアリシアの頭を撫でつける。そうして、かまちがよく河合由梨を安心させたように。

「あのね、アリシア。自分でそういう言い方をしちゃダメよ。それにね、誰が誰より苦しいとか辛いとか、そういうことはあまり考えないほうがいいわ。ううん。考えちゃダメなのよ。それは自分や誰かを、余計に傷つけてしまうだけだわ」

「でも……」

「――さ、もうご飯が冷めてきちゃってるわ。早く食べよっ。いっしょにお風呂に入るのが楽しみね」

 わたしは止まっていたお箸を動かし、勢いよく食べ始める。アリシアも少し間を置いてから、それに続いてくれた。しばらくすると「おふろおふろ~♪ きょうこちゃんとおふろだ~♪」などと口ずさみながら、再び幸せそうな笑顔に戻ってくれた。


 お風呂場で、わたしとアリシアは背中の洗いっこをした。そのとき、アリシアはなにも云わずに、わたしの背中に浮かんだばかりの深いあとを治してくれた。痛くないと言っているのに。けれどほんの気休めにしかならないそれは、わたしには十分過ぎるほど優しかった。

 アリシアは、自分にとってなんの特にもならないその些細な治癒能力をほんとうに大切に想っている。

 ――天使たちの聖痕。シールドによって自ら殺し続けた心の反動。自由の羽を背中から無理矢理毟り取ったような生々しい痕。アリシアは、それを表面的にのみ治すことができる。

 けれど、アリシア自身は心にシールドを張るのが下手だ。ままならない。だから、その治癒能力はアリシアにとってなんの意味もない。それでも、天使の中でも最強と言えるほどの戦闘能力よりも、アリシアはその意味のない力を一番大切にしている。そうして、わたしに刻まれた痕をいつも丁寧に治してくれる。まるであたりまえのことみたいに。わたしにはそれがうれしくて、哀しい。アリシアは自分を治してやることができないから。自分には痛みなどないと思い込んでいるから。自分は元気だ、大丈夫だ。みんなと違って心に傷を持っていないから。そう決めつけて。そうやって、けっきょく無自覚に自分を殺している。それはとても哀しいことだ。

 

 アリシアは夜、眠れないことが多いと聞く。けれどわたしがそばに居るとすぐにすやすやと眠ってくれる。その寝顔がほんとうに心地よさそうで、わたしはうれしい。

 でも、わたしはそんなアリシアの寝顔を見ていてもなかなか寝つけなかった。その甘やかなひとときは、もはやわたしには過ぎたものだった。


 夜も更けた頃、小さなラウンジにお茶を飲みに行くと、先生はそこに居た。

「……あら、奇遇ね」

 先生は手をひらりとさせて、しれっと言う。きっとわたしが来るのを見越して待っていたくせに。さり気無くて、暖かい。こんなものに触れるとバカな疑いを持った自分が憎くて堪らなくなる。

「……さつき先生、明日も朝が早いだろうに」

「もう、今日だけれどね。ちょっと無性にお茶が飲みたくなったのよ」

 先生は嘘をつくのが下手だ。お茶ならべつに自分の部屋でも飲めるというのに。

「それより今日もありがとうね。アリシアのこと」

「……それはこちらの台詞よ。また……あの子に痕を治させてしまったわ」

「……そう。でも、それはきっとあの子にとってもいいことなのよ。あの子は自分を治してあげられないから。ときどきでも誰かを治すことは、あの子の心にもいいことなのよ」

「そう、なのかしらね……」

「もちろん、あの子に無理をさせている私自身を肯定するつもりはサラサラないわ。私は、悪魔よ。きっと」

 先生はめずらしく私に心を晒してくれている。でも、それは――。

「さつき先生が悪いんじゃないわ。この施設だって、せめてアリシアに少しでも良い環境を用意しようって、先生が一生懸命掛け合ったから創られたんでしょう?」

 人の悪意にも痛みにも敏感なアリシアには、大きな施設で暮らすことは過酷すぎた。あまりにも多くのものを、その幼い身に抱え込んでしまうから。だから、アリシアにはなるべくこぢんまりとした環境が必要だった。

「そうね。アリシアや他のエリート候補生たちに、より効率の良い戦闘訓練を受けさせるためにね」

「もう、それは建前でしょ」

「あの子も、もう来年度からは部隊に召集されるわ。研修とは名ばかりの実戦投入よ」

「……そんな。まだやっと七つになったばかりなのに……」

「……ほんとうに。こんなことはいつか終わりにしたいわね。あの子も……悪魔たちと殺し合うことへ、早くも疑問を感じ始めているわ」

「そう……」

「争いはよくないって。どうしてみんな争うのって。ここのみんなも、お互いに小さな悪意を隠し持って暮らしているのが哀しいって。みんな仲間なのにって。そう言っていたわ」

 でもそれは……仕方のないことだ。どんなに親密で、解り合い、支え合える仲間でも、そこに人が集まれば些細な悪意は必ず生まれる。衝突を避けることはできても、心の奥までを誤魔化すことはできない。どんな暖かいつながりの裏側にも、その秘かな争いは歴然と横たわっている。人間とはそういうものだ。の間にさえ、わずかながらもそんな一面があった。夢見がちなかまちは、仲間同士のそれには絶対に気づこうとしなかった。けれどおなじく夢見てしまうアリシアは、無防備であるがゆえにどうしてもそれを直視してしまう。だから、何度も何度も傷ついてしまう。

「アリシアには……かまちのようなタイプの悪魔と、絶対に出会わせたくないわね」

「そうね。きっともう抱えきれなくなるわ。それこそ壊れてしまう――今のあなたも、とても見ていられないけれどね」

「わたしは大丈夫よ」

「あなたは、霧幸かまちと出会うのが早すぎたようね。心の暖かい悪魔ほど、弱りきった天使の心にとってはある意味危険なの。その暖かさへ直に触れられてしまうがゆえに、接触が過ぎればいずれは自分のすべてを委ねてしまう。適切な距離感を見失ってしまうの。それは心のバランスを著しく乱してしまうわ」

「わたしはただ、かまちを護りたいだけよ」

「それもまた、ひとつの依存の形なのよ。自分の心を殺しながら依存している分、反って余計に危険よ」

「……そんな風に言うなら、さつき先生はなぜわたしをこの任務につけてくれたの?」

「あなたは……もう他に生き方を見つけられないくらいになっていたからよ。いつだったか、あなたが霧幸かまちのことを洩らしてくれたとき、私は理解したの。あなたが必死で自分を殺し続けてまで、ひたむきに頑張って来た理由を。もしその道が閉ざされてしまっていたら、きっとあなたの心は崩壊していたわ。私が気づいたときには、あなたはもう引き返せないところまで来ていたの。面倒見が良いなんて、買い被りでしょ。私はあなたになにもしてあげられなかったわ」

「そんなこと……ない。だって。さつき先生がこの施設をここに創らせたのも、いずれこうやって……わたしのことまで見守ろうって考えてくれたからでしょ?」

「それこそ買い被りね。たまたまよ」

 そんなたまたまがあるものか。候補地は他にいくらでもあったというのに。やっぱり、先生は嘘をつくのが下手くそだ。先生はわたしたちが少しでも自己肯定感を持てるようにと、何度も優しい言葉を掛けてくれるけれど、当の先生自身がこうやって見え透いた嘘をついてまで自分を卑下している。先生だって、ほんとうは自分を肯定したいくせに。天使たちはみんな哀しいくらいに嘘つきだ。それを痛感させられる。

「違うわ。必然よ。きっと、先生が監視対象への過剰な接近を黙認してくれたのも、理由があってのことでしょ? 限られた時間における交流のなかで、わたしの心に良い変化が見られる可能性を考えてのことだったんじゃないの? だってそれは。じゃなくてのはずだったから。さつき先生は、そうやって、わたしがかまち以外の誰かと深く接することを促してくれたんじゃないの?」

「そんなこと、ないわ。私はただの悪魔よ、きっと――それにどうあっても結果的には、余計にあなたを傷つけてしまったわ」

「違うの。それはわたしが悪いのよ。わたしが仲間に心を開ききれずに、そのうえ引き際まで見誤ってしまったからよ。さつき先生は、いつもわたしにできる限りのことをしてくれているわ。わたしはその優しさにいつも応え損ねてしまうけれど……それでも、その気持ちだけでも、わたしは十分にうれしいの」

 先生は瞳の奥をわずかに翳らせたまま、穏やかに微笑む。

「……ありがと、鏡子。でも、やっぱり私はダメね。ほんとうはあなたを慰めるつもりだったのに。どうしてまた、こうやって無理をさせちゃってるのかしらね――」

 先生は一瞬固まってから、突然くすくすと、声を上げて笑い出す。なぜだか、とてもうれしそうな様子で。

「私たちって、けっきょく似たもの同士なのよね。なんだかこうして話していると、いっしょに終わりのない禅問答でもしているみたいよ。やっぱり自分が悪いの? やっぱり自分は悪くないの? でも、やっぱり……って。もう、ダメね。私たちの存在そのものみたいよ。――ね、鏡子、今夜はいっそ情勢の話でもしましょ。気分転換よ」

 自嘲的な哀しい言葉も、やわらかい冗談っぽさのなかに包み込んで先生は言う。わたしも、ついつられて笑ってしまう。やっぱり、先生は暖かいな。

「もう、気分転換に情勢の話って。けっきょく重たい話じゃないの」

「そうね。それでも、お互いに自分の非を深め合うよりは気が重くならないはずよ」

「まあ、それもそうかもしれないわね。けれど、情勢って言ってもなにを話そうかしら?」

「そうね、どうしようかしら」

「とりあえず、わたしは戦線の話はあまりしたくないわね。人の生き死にを話の肴にするつもりには到底なれないわ」

「やっぱりあなたは真面目ね。でも、それもそうよね――じゃあ、システム論なんてどうかしら? 昔、少しだけ教えたけれど覚えている?」

「一応ね。基本だけよ」

「じゃ、今から小テストよ」

 先生はうれしそうに言う。わたしも久しぶりの授業がとてもうれしい。

「ええ。いいわよ。じゃあ、問題を出してちょうだい」

「そうね。じゃあまず、天使と悪魔の総数はいったいどちらのほうが多いでしょうか?」

「統計的には悪魔のほうが少し多い、だったわね。けれどそれは、天使からすれば悪魔のほうが見つけやすいから。理論的にはまったくの同数と言われているわ」

「正解よ。文句なしの解答じゃない。じゃあ、次行くわよ――天使と悪魔が人間に宿る際のパターンはぜんぶでいくつあるでしょうか?」

「三つ、ね」

「正解よ。じゃあ、その内容は?」

「まずは何処からともなくの新発生。それから、天使は以前の宿主の死による、悪魔の場合はそれに加えて宿主の拘束状態による転移。そして三つ目は親から子によるコピー、ね。その場合の遺伝率は大体2%程度。そんなに珍しくはない数値よね。だから、わたしたちは覚醒した悪魔が子をつくらないようにも目を見張る。もちろん管理が完全に行き届くわけでもないけれど」

「そうなのよ。厄介なのは、コピー体が悪魔そのものの成熟までを継承してしまうことよね。――じゃあ、もうひとつくらい行っておこうかしらね――天使と悪魔の発生から覚醒までの期間は、いったいどのくらいでしょうか?」

「そうね、印によって個体差はあるけれど、天使も悪魔も大体二百年から三百年くらいだったかしらね――って、あれ? けれど、CTスキャンが出てくるまではどうやって個体把握をしていたのかしら?」

「今はもう完全に廃れたようだけれど、大昔は魔術や占星術の類を使っていたようよ。効率はあまり良くなかったようだけれど」

「魔術って……胡乱な話ね」

「それを言ってしまったら、私たちの存在だって胡乱なものになるじゃない。天使よ、天使。心の壊れた超常者よ。それでもね、はっきりと生きているわ。私たち」

「……そうね。その通りだわ」

「――じゃあ、ここからは私の講義ね。ひとます少し話が逸れるけれど、鏡子は魔術の――いわゆるMAGICKマギックのメカニズムについては知っているかしら?」

「知らないわね、全然――あ、でもその言い方は確か、アレイスターなんだかによるものね。奇術のほうのMAGICマジックと分類するためだとかいう。そうね、確か……『魔術とは、意識に変化をもたらすアートである』だったかしら? 彼の有名な言葉だそうね。わたしにはなんのことだかまるでわからないけれど」

「アレイスター・クロウリー、ね。つまりは特殊な儀式や修練によって自らの意識に変化を及ぼせば、霊的なアクセス経路からこの物質世界にも干渉することができるという話よ。彼は魔術をあくまで、そういった意識の変容を手助けするためのアートとして考えたの。だから場合によっては、特別な儀式などなくとも魔術的パワーの行使はできると、彼は考えていたわ」

「……無茶苦茶な話ね。意味不明よ」

「魔術の理論ではね、精神世界と物質世界はお互いにつながっているの。だから、精神世界に影響を及ぼすことができれば、その波動が物質世界にも伝わって、つまりはこの現実世界を変容させることができる。そんな風に考えていたの。ああ、過去形ではなかったわね。一応、今でもほそぼそとだけれど実際にいるのよ? そういう人たち」

「精神世界……ね。ユングの集合無意識ならまだ少しわかるけれど。似たようなものと考えてもいいのかしら?」

 先生は突然、くすくすと笑う。

「――そうね。でも、私ったらバカね。初めっからそっちの話をすれば良かったわね。ユングなら、まだ学問としても認められているものね」

「先生も、お茶目なところあるわよね。そういうところ、可愛いわ。ときどきしれっとヘンな趣味を露出させちゃうところ」

 先生は急にわたわたとする。こういう風に褒められると、弱いのだ。甘くなぶるようにからかわれ、なおかつ褒められるくらいが一番困るらしいのだ。先生は頬を紅くさせて、ますます可愛らしくなってしまう。

「も、もうや~ね。そ、それよりお話の続きよ。ともかく、私たち人類の精神はね、深い無意識の部分なり霊的な部分なりでみんなつながっているの。呼び方は精神世界でも、アストラル界でも、集合無意識でもなんでもいいわ。要するに、この領域へ影響を及ぼすことで世界を変えようとしたり、あるいはここからなんらかの知識やパワーを引き出し利用する。というのが魔術のメカニズムなの」

「……とりあえず、ある程度は理解できたわ。やっぱり、あまり納得はできないけれど」

「まあ、あなたならそう言うでしょうね。でもね、鏡子――さっきあなた、天使と悪魔の総数についての解答で、という言葉をつかっていたわよね?」

「ええ、そうね」

「じゃあね、鏡子。現在のその理論が元々どこから派生したものかは、知っているかしら?」

「――っ。そ、そんなばかみたいな。も、もしかして、その魔術の理論?」

 先生はえっへんとふんぞり返って言う。

「その通りよ、鏡子。よくできましたっ」

 あいかわらず、今夜はいつにも増して可愛らしい先生だ。わたしも、つい楽しくなる。

「でも、やっぱりわたしは集合無意識だとか精神世界だとかいう概念には懐疑的よ。よく言われる世界各地の神話や夢における共通点なんて、けっきょくただの偶然にしか思えないし。関係ないかもしれないけれど、あの形態共鳴シンクロニシティだとかいうよくわからないものもね」

「形態共鳴ね。あのサルが芋を洗うようになったら他の土地のサルも一斉に洗うようになったとか、そういうやつね」

「ええ、そうよ。あと、グリセリンがどうとかも、有名だったわね。どちらもかまちに見せてもらった漫画で如何にもそれらしく説明されていたけれど――っ」

 わたしはつい、そのバカみたいな漫画の内容を思い出して、くすくすと笑ってしまう。先生は少しだけ驚いたような顔をしてから、穏やかに微笑む。

「ま、バカみたいな話よね。けれどね、私たちは実際にそれらと相通じる能力を日常的に使っているはずよ」

「え? なんのことかしら?」

「精神感応よ。あなたは毎日、霧幸かまちの心を読み続けているでしょ?」

「でも、あれは。わたしが天使でかまちが悪魔だから……」

「もう、人間同士でおなじことをする訓練もたくさんしたでしょ?」

「あれがなんだっていうの? 人の心なんて、ぜんぜん掴めなかったわよ」

「まあ、そうでしょうね。けれどね、あれは元々人間同士の精神感応能力を開発するためのものなのよ。実際、あの実験を何百回も繰り返したあとでは、ほんの少しでも正解に近づいていたでしょ?」

「確かに、そうかもしれないけれど。ただの経験則じゃないかしら?」

「違うわ。私は絶対に予測できないように話題の振り方には気を配り続けたつもりよ。それにね、あの状態でパートナー同士の脳波を測定すると面白い結果が得られるのよ。物理的には完全に隔離されたふたりの脳波に、確かな同期が観測できるの」

「えっと、ど、どういうことかしら?」

「まずはね、脳波のなかでも特に精神活動を示すβ波に着目してトポグラフという二次元マップに起こすの。すると、頭のどの辺りからどれぐらいの強さで脳波が出ているのかがよくわかるのだけれどね。そのマップに、わずかではあるけれど、それでも通常では考えられないくらいの共通性を確認できるのよ。これは、やっぱり私たち人類の脳がどこか得体の知れないところで繋がっていることを証明しているわ」

「……どこか得体の知れないところ。つまり、集合無意識や精神世界と呼ばれるものね」

「ええ、そうよ。それに、サルの芋洗いやグリセリンの結晶化などの形態共鳴についても、人類という観測者の存在を考慮に入れればこれで説明がつくのよ」

「観測者……もしかして、人間の意識の変化が精神世界に波動を起こして、物理世界にも影響を与えるという、魔術のアレかしら?」

「そう、それよ。魔術と言っても案外バカにできないでしょ?」

「……ん~。でも、確かに精神世界や集合無意識のような概念を考えると、悪魔と天使のシステムについてもなんとなく説明がついちゃうのよね」

「でしょ? つまりこの天使と悪魔のシステムは、いわば人間世界のひずみの表象なのよ。きっと」

「そう、かもしれないわね」

「それなのに、私たちは闇雲に悪魔と闘い続けているわ。ほんとうの敵は巨大すぎるし、なにより、掴みようがないものだから。不毛な争いなのよ。ほんとうに。それすらも、その表象の一部なのかもしれないけれどね」

 先生は肩を落とす。きっともう、楽しい時間は終わってしまった。そんな気がした。

「そう、ね」

「ねえ、鏡子。寿命を終えた印は、何処に行くと思う?」

「……もしかして、また集合無意識に還元されるのかしら?」

「たぶん、としか言えないけれどね……他に考えられないもの。天使も悪魔も、なにも救われていないのに、安らかに消えてしまえるとは思えないわ。きっとまた新しい苦しみを膿むのよ」

「…………」

「……私はね。どうにかして、この残酷な世界を変えたかった。だから若い内から戦闘班を退いて、後進の指導に回って、その片手間で研究を始めたの」

「……なんの研究かしら?」

「ほんの淡い希望を見つけるための、そのためだけの研究よ」

「でもそれは、見つかったの?」

 先生は力なく首を振る。

「惜しいところまでは、行ったのよ――ねえ、鏡子。悪魔が宿主の大切にしていたモノを、瞬時に破壊対象にしてしまう仕組みってね、ほんとうに残酷なのよ」

「……わたしもそう思うわ」

「ううん。ほんとうはあなたが思っている以上に残酷なのよ――悪魔はね、宿主の愛好対象への気持ちの変化を敏感に察知するの。少しでも心がブレ始めた時に、悪魔は容赦なくそれに喰らいつくの。でも、それは心がブレない限りは愛好を続けられるということをも意味するの。悪魔は敢えて、ほんのわずかな希望をチラつかせているのよ。きっと、内向的な宿主ほどその仕組みを自覚するわ。だから夢見てしまうし、余計に自分を責めてしまうの。いつか人を殺めたとき、ほとんどありもしない希望に縋ってしまった自分を赦せなくなってしまうの。悪魔じゃなく自分が裏切ったからだ。どうせいずれ飽きるのをわかっていながら、自分のために使い棄てたんだって」

「……そうね。その通りだわ。自分が飽きたから……ね。その感じ方は、かまちの思い込みだと思っていたけれど。どうやらわたしの甘い願望だったようね……」

「けれど、彼がまだ生きていてくれて良かったわね」

「かまちにもし音楽がなかったら、きっと自害に至っていたわ。かまちは音楽を、悪魔との契約で得た罪そのものだと思っているようだけれど……」

「そういういびつで偏った思い込み、私たち天使のそれとも少し似ているわよね」

「……そうね。わたしたちって、ほんとうは似たもの同士なのよ。それなのに……悪魔とか天使とか……ばかみたい」

「――あのね、鏡子。私はね、想うのよ。そういう似たもの同士の悪魔と天使が健やかに手を繋げるようになれば、この世界はほんの少しでも良くなるんじゃないかって。これは理屈じゃなくて、直感なのだけれどね。ううん、それこそただの甘い願望よ」

「……そうね。それでもわたしたちには、たとえ子どもじみているとしても、そういう優しいおとぎ話が必要なのかもしれないわね。――いつか自分を幸せにしてあげるために」

「……そうね。でも。どうして幸せになるのって……自分に素直に優しくしてあげるのって……こんなに難しいのかしらね……」

 しばらく、どうしようもない沈黙に沈む。わたしたちは、幼い頃から幸せになることを徹底的に諦めさせられている。それが堪らなく悔しい。

「――ね。さつき先生は、具体的にはどんな研究を行なっていたの?」

「私はね。悪魔の宿主が、自分で大切だと決めたモノを心の底からずっとそう想えるように、それを可能にする方法を考えていたの」

「けれど心は、心の奥底は、絶対に自力でコントロールしきれないものよ」

「本来は、ね」

「――ああ、もしかして脳手術かなにかかしら?」

「そうよ。私はね、あらゆるモノに対してどの程度のを感じるか、その脳神経の働きに干渉して、完全に自己規定してしまえるようにするチップを開発したの。つまり意識でなにかを大切にしたいと強く想えば、心底そういう風になりきれるの。もちろん、専門家の協力も仰いでのことよ」

「え? 開発は、もう終わっているの?」

「そうよ。実際に、私たちはある宿主の脳にそのチップを埋め込んでみたことがあったの」

「……どうなったの?」

「失敗よ。悪魔の印に、人工的な脳への干渉はブロックされてしまったの。ほんとバカだったわ。ぜんぶ無意味だったのよ」

「……そんな」

 また重苦しい沈黙が降りる。淡く甘い希望など、こうして簡単に潰えてしまう。いつだってそうだ。わたしたちがいくら勇気を振り絞ったところで、精一杯の期待はすぐに裏切られる。信じる意味なんてない。けっきょくわたしたちは――

「――あれ? ちょっと待って」

 先生は突然なにかを思いついたように、取り乱した声を出す。

「ど、どうしたの?」

「それよ。それかもしれないわ。霧幸かまちの件よ。どうして彼は、わざわざ幻覚に浸りきってまで大切じゃなくなったはずのモノに執着し続けたの? 執着し続けることができたの?」

「――っ。もしかすると、今のチップの話となにか関係が……でも、干渉は不可能だったはずじゃ……」

「――父親よ。霧幸かまちとおなじ悪魔の印を持つ彼なら……もしかするとなにか……」

「彼の行方不明と、かまちの。やっぱりなにか関係がありそうね」

「きっと、そのはずよ。他に考えられないもの。でもやっぱりバカだわ、私。こんなことを見落としているなんて」

「仕方ないわ。先生も、いろいろと大変なのだもの」

 先生は、突然憑き物が落ちたようにくすくすと笑い出す。

「――ううん。だって。霧幸かまちの父親、彼って確か脳科学の専門家だったわよね。これって、だいぶモロじゃないの?」

「――あ……そ、そうね」

 わたしも、つい笑ってしまう。なんだかバカみたいで。

「鏡子。もしかすると、私たちの世界にもまだ希望が残っているかもしれないわ。霧幸かまちのこと、まだ諦めちゃだめよ」

 諦めるな。希望はまだあるはずだ。ありふれたそれらの安直な言葉は、無理解な人間に投げられれば痛みを強める毒にしかならない。けれど、わたしのことを解ってくれている先生からのそれは、ほんとうに暖かい。投げかけるべきときにだけ、そっと投げかけてくれる。

 ――それに、実際にわずかな希望が見え始めてきたのだ。わたしは、力強く頷く。今夜はけっきょく、先生にたくさんの力をもらった。その恩返しをしたい。少しだけまっすぐ、そう想えた。

「うん。さつき先生、今日はありがとう」

「ううん、こちらこそよ。ありがとう、鏡子」

 それから、わたしたちは気の抜けたようなあくびを仲良くユニゾンさせてから、それぞれの部屋に戻った。窓から見える空はまだ真っ暗だったけれど、わたしたちの心には、すでにほんの少しの光が射し込んでいた。

 

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