track 4
ぼくはしばらく鏡子のことを考えていた。
鏡子は今、いやずっと、いったいなにに苦しみ続けているのか――
決まってる。それはきっとぼくに関するなにかだ。
ぼくには心当たりがいくつもあった。
鏡子は痛々しいくらいに、ぼくに執着してくれている。それもなにか大きすぎる秘密を抱え込みながら。ぼくはそれを知っていたはずだった。
それなのに、ぼくは自分の甘い夢に浸り続けるだけで精一杯だった。そうして鏡子に関しては、ただ都合のよい希望的観測に安んじた。
最低だ。
ぼくはあまりにも身勝手だった。
ぼくは今からでも、その責任を取らなければならない。
そう、責任だ。大切だとか護るだとか、そんなことを言う資格は今のぼくにあるはずもない。それでも、やるべきことはやらなければならない。
ぼくはひとまず状況を整理してみた。
鏡子は、あの日ぼくがふたりを殺している間に逃げた。逃がすまいと、片手間で数度仕掛けた攻撃を紙一重で避けきって。明らかに、鏡子はぼくの攻撃を読んでいた。ぼくの攻撃は拳銃やその他の飛び道具と違い、一切の予備動作を必要としない。にも関わらず、鏡子はしかもそれをぼくから背を向けたままで避けた。そこから導き出されるひとつの解は、あまりにも空想じみている。けれど、鏡子のいつものあまりにも的確な言動や意味深長に過ぎる態度も、こう考えれば容易に説明がついてしまう。
――鏡子はぼくの心を読んでいる。
ぼくが悪魔であるように、鏡子もまた人を逸脱したなにかなのかもしれない。そして、おそらく鏡子はあの日憔悴して倒れたぼくを保護し、館とふたりの残骸とを処理した。
さらに、ここまでくれば件の不可解な大金の出所もなんとなく想像がつく。たぶん、幼い頃の鏡子を引き取っていったのが、なんらかの超常的能力の所持者による秘密組織かなにかだったのだろう。
……なんて荒唐無稽な話だ。けれどもしそれらの推論がすべて単なる妄想でないのなら、鏡子はぼくのすべてを看破した上で、超法規的な立場からぼくを護ろうとしているということになる。そうして、ぼくのドス黒い部分や鏡子自身の秘密をすべて抱え込んだまま仲間たちと接し、あげくふたりを見棄てざるを得なくなり、果てしなく悩み傷つき苦しんで、それでもまだぼくを護ろうとしている、ということになる。
あまりにも哀しすぎる。
いっそすべてが妄想であったなら、どれだけよいか。
でもぼくはどうすればいい?
そもそも、鏡子の属す組織の目的はなんだ?
こんな悪魔をそこまでして野放しにして、いったいなんになる?
鏡子にはおそらく、なにを言っても訊いても無駄だろう。
じゃあぼくはいったい、今さらになってなにがしてやれ――
……???
いや――ちょっと待てよ。
甘い夢も、くだらない幻覚も、とっくに醒めたはずだ。
なのになぜ、ぼくは鏡子を壊そうとしない?
ふたりを徹底的に切り刻み、館を破壊し、腹が満たされたからか?
違う。そんなことで、あのドス黒い衝動が収まるものか。
アレは留まることを知らない。果てしなく渇き続け、貪り尽くす。
それなのに、ぼくは今こうして、鏡子を大切に想うフリができている。
あまりにも哀しすぎる?
嗤えるね。
ぜんぶ自分のせいだろ。
ほんとうにぼくの脳は、近頃ますます都合がよろしくなった。不自然で気色の悪いほどに。
いったい、なにがどうなっているのか。
ともかくわからないことが多過ぎる。もちろん、ぼくは思考放棄を選んだ。どうせ考えてもなにもできないのだ。都合よくそう片付けた。
午後。自然と、ぼくの足は河合由梨のかつて居た家へと向かっていた。
せめて、傷つき哀しむ母親の姿をこの目に焼き付けておこう。そう思ったからだ。
門の前に立つ。しばし、敷地内を眺める。こうしていると自然と過去の光景が脳裏を過ぎってくる。
河合由梨はいつもこの家から、ドタバタと大きな物音を響かせながら飛び出てきた。ぼくや鏡子に置いていかれまいと、毎日が必死だった。そんなことをしなくてもべつに置いていかないというのに。そうやって、河合由梨は少しでも長くぼくらと居ることを切に望んだ。いつだって、残酷な季節や人の移ろいに怯えながら。
ぼくはそんないたいけな少女の弱さを利用し尽くした。
しばらく、そんな予定調和じみた浅考に耽ってから、ぼくはやはり河合家への訪問を後回しにした。それよりも先に、他に行っておくべきところがあったからだ。
ぼくは稲もとうに刈りつくされ寂寞とした田んぼ道を歩いた。
吹く風が、冬の到来を告げていた。
淡々と田んぼ道を抜ける。
古めかしい日本家屋の建ち並ぶ一帯をしばらく歩くと、一際強い威厳を放つ広大な屋敷に辿り着く。
かつて山下たんぼの住んでいた邸宅だ。
物々しい正門の脇に取り付けられた不調和なインターホンを鳴らす。
しばらくして、声が返る。
「こんにちは、どちら様でしょうか」
硬い響きを伴った、使用人の簡潔な言葉。ぼくもまた、無機質に言葉を返す。
「こんにちは。はじめまして。山下たんぼさんの学友の、霧幸かまちというものです」
「たんぼお嬢様のご学友の方ですか。少々お待ちくださいませ。すぐにご主人様を呼んで参りますので」
途端に、声の調子がやわらかくなった。一切警戒されることもなく、父親に取り次いでもらう。
十分ほど待つと、門の向こうから山下たんぼの父親が現れた。
「おお。はじめまして。きみがあの霧幸くんだね。娘から話はちょくちょく聞かせてもらっていたよ。さあ、外は寒かっただろう。まずは中に入って」
「は、はい。おじゃまします。それと、はじめまして。霧幸かまちと申します」
「ああ。きみは若いのになかなか礼儀があるようだね。まあ、そんなに固くならなくても構わんよ――さあ、こっちに」
父親は、気さくな態度でぼくを屋敷内の母屋へ招き入れる。それから長い廊下を連れられ、大きなシャンデリアが印象的な洋室まで案内された。
「さあ、今から妻も呼んでくるからそこに座って待っていてくれないか。すぐに使用人が暖かいお茶を運んでくるだろう。きみは先に飲んで温まっていてくれたまえ」
「は、はい。ありがとうございます」
父親はそそくさと部屋を後にした。
入れ替わりで使用人が丁寧な御辞儀とともに現れ、無駄話をすることもなく、紅茶を置くとすぐに場を退いた。使用人の謙虚さというものなのだろう。なぜかそれが、反って少し不愉快だった。
それにしても。山下たんぼはぼくのことを父親に話していたのか。やはり親子間の会話は多かったのだろう。だが、それだけだ。それが如何に辛いことか。山下たんぼは、家の中でもあの品行方正な社交上の仮面を被り続けていたのだ。そうやって、息苦しい家族ごっこに付き合わされていたのだ。思ったとおりだった。山下たんぼにとっての家は間違いなく、河合由梨が「みんなの森の館」と呼んだあの館だった。帰る場所は、ぼくが惨たらしく破壊したあの館以外に存在しなかったのだ。
そんなことを考えるうちに、父親が妻を引き連れて戻ってきた。
「いやあ。お待たせしたね。さあ、千代子。こちらにおいで」
「……ええ」
母親はやつれているのか声にまるで力がない。
あたりまえだ。愛する我が子が突然居なくなったのだから。父親もまた、先程から落ち着きのない空元気を披露し続けている。彼らはあたりまえに、盲目に、山下たんぼを愛好していた。現在の彼らの様子はそれをまざまざと教えてくれる。
彼らはそして、こうして娘の友人を暖かく迎え入れてくれている。外部から上辺だけをなぞれば、まさしく善良ですばらしい両親だと言えるだろう。だが、それだけだ。彼らは彼女がべつに望んでもいない一家の威光と、ありあまる豊かさと、そしてなによりもまず、盲目的でつまらない愛情を与え続けた。彼女がまさしくそれに思い悩まされていたことには一切気づかずに。要するに、彼らはどうしようもなくおめでたいのだ。愛はただ、注げばいいものだと思っている。思うともなく思っている。互いの入出力における周波数の違いやそもそもの前提の違いというものを、一切考えようともしていないのだ。
そんな的外れな義憤を募らせながら会話を横流しするうちに、当たり障りのない茶番劇もようやく終わる。父親は途端に神妙な顔つきになって語り始める。
「――たんぼは、あの子は、いったいなにが不満だったんだ。わたしにはわからないんだ……。いつだって、わたしも千代子も、あの子には精一杯愛情を注いできたつもりだ。どれだけ忙しくてもなにを犠牲にしても、あの子のことを第一に考えてきた。それなのに……」
……ん? なにかがおかしい?
そうだ。あくまで状況は山下たんぼの失踪、のはずだ。攫われたのかもしれないし、どこかで誰かに殺されたのかもしれない。それだけ自分たちの愛情に自信があったのなら、むしろそう考えるのが自然だ。なのに、なぜこの男は彼女が自らの意志で姿を消したと思い込んでいる? しかも、実際すでにこのぼくに殺されているのだというのに。
「霧幸くん。たんぼから、なにかそれらしいことは聞いていなかったかね? なにが不満だったとか、そういうことは……」
それにしても、なんて哀しそうな眼だ。
ふたりとも、身勝手な感情をこうまでさらけ出して。そんなに自分たちの愛を従順に受けとめてもらえなかったことが不服なのかねえ。これじゃあ娘だか
「う~ん、ぼくもそういう話はとくに聞いていないですね」
「……そうか」
「あの……ちょっと待ってください。ちょっと、その。言いづらい話ですが……」
「なんだね? どうか気にせずになんでも言ってみてくれたまえ」
「いや、あの……どうもお父さんはたんぼさんの失踪を彼女自身の意志によるもの……つまり家出だと決めつけておられるようですが……」
「ああ。そのことかね。実は先日、なにか手がかりがないかと思ってたんぼの部屋を調べてみたんだが、それで……書置きが見つかってね」
「カキ……オキ……?」
って、なんだそれは? 牡蠣=沖? いや、それはない。意味がわからん。
「そうだ。書置きがあってね。千代子」
「……ええ……これを」
「――これは」
――気が合わないのよ。この世界と。だからあなたたちはなにも悪くないわ。気にしないで。
「あなたたちだなんて……わたしたちに、こんな冷たい呼び方……あの子は今まで一度もしたことがなかったのよ……それなのに……きっとわたしたちが悪かったのよ……」
うん。それはあるだろうけど。でも違うよ。
「あの子はもう……きっと…………死んでいるわ!」
そう。それは正解。ホントごめんね、千代子さん。あなたの大事な大事な愛便器はぼくがズタズタにして使い棄てたよ。
けっきょく、母親はその場で泣き崩れ、父親はその介抱に回ることとなった。
ぼくは少しだけ残ったお茶を飲み干し、その場を後にした。
不思議と、娘の消失に傷つきうろたえる彼らを見てもあまり申し訳ない気持ちは湧き上がってこなかった。むしろ、ざまあみろと思ったぐらいだ。やっぱりぼくは歪んでいる。そう思った。
――今朝からずっと、温度のない無機質な雨が降りしきっている。
それは金属的な音を鳴らしながら世界を淡々と濡らし続ける。
ぼくはただ、この雨を意味もなく受け入れる。感情を圧し殺して。だってそれは。あまりにも身勝手で、気持ちの悪いものだから。
今日も山下家で、それを改めてまざまざと見せつけられた。存外、ぼくがイラついたのも的外れな義憤などではなく、むしろ同族嫌悪の類だったのだろう。けれど、それは彼らに対して失礼というものだった。なぜなら彼らなど比べるべくもないほどに、ぼくは徹底的に壊滅的に、山下たんぼのことを利用し傷つけ壊したのだから。
もちろん、河合由梨のことも。
ぼくは河合家の目前まで戻っていた。さすがに、この家の門をくぐるのには躊躇してしまう。
それでも、ぼくは意を決してインターホンを鳴らす。
「――はい、こんにちは」
「あ、こんにちは良子さん。お久しぶりです。霧幸かまちです」
「ああ、かまちくんね。お久しぶり。よかったわ。ちょうどあなたに渡したいものがあったの。ちょっと待っててね」
渡したいもの? まさか形見分けか? 娘を殺した張本人に? そもそも状況は依然行方不明のはずだ。先程の書置きといい、どうもわからないことが多い。ますます事態が掴めなくなっていく。
「お待たせ。よく来てくれたわね。さ、中へどうぞ。お茶を淹れるわ」
「あ、ありがとうございます。それじゃあ、おじゃまします」
河合良子はぼくを居間に招き、すぐに暖かい緑茶を淹れてくれる。
「じゃあ、いただきます」
「ええ。ゆっくり飲んでね」
しばらく、ゆったりとした沈黙が流れる。
それから、言葉足らずな会話が訥々と紡がれる。
「……寒かったでしょ」
「……はい」
「……いつぶりかしらね」
「……えっと、いつでしたっけ」
「……そうね。7月じゃなかったかしら」
「……ああ。みんなで遊びに来たときの」
「……あのときも。由梨はほんとうに幸せそうで」
「……そう、ですね」
突然、河合良子はくすくすと、湿り気を丁寧に包み隠すような微笑みを浮べる。
「――あの子ったら、毎朝ドタバタしてね。置いていかれたくない~~って」
「そうですね。いつも、いつも、由梨さんは必死で。それが…………とてもっ」
――今まで、数えるくらいしか会ったことはないけれど、ぼくはこの人のことが好きだ。だからだろう。こうしてお茶を飲み交わしていると、申し訳なくて堪らない気持ちが沸々と込み上げてくる。油断すると、ついあの気色の悪い液体が目から零れ落ちそうになる。ぼくは寸でのところで感情を圧し殺す。
「いえ……なにもありません」
しばらく、重苦しい沈黙が流れる。ぼくのせいだ。ぼくに引きずられて、良子さんまで深く沈み込んでしまう。
どうすればいい。ぼくは目の前のこの人に、いったいなにができるのか。
慰める? どうやって? そもそも、この人をたった今苦しめているのはぼくが犯した所業そのものだ。けっきょく、この重みを淡々と受けとめる他はないのだろう。なんて非生産的で、自己満足な償いか。罪は償えないものだ。その真理を、改めて痛感する。
「――やっぱり、あなたは暖かいのね」
良子さんは、ふと優しげな含み笑いを浮べてぽつりとつぶやく。けれど、それは――
なおも良子さんは言葉を繋ぐ。
「こうして、ふたりきりで居るとよくわかるのよ。それは、わたしにだけ向けて注がれるから。わたしたちだけの特権ね。ああ、わたしももう20年若ければねぇ」
なにやら、不思議なことを言う。そしてくすくすと、稚気を含んだ穏やかな微笑を浮べる。
「いえ、良子さんなら。あと3年ぐらいでも十分ですよ」
なぜか、ぼくもつい要らぬ一言を誘われてしまう。今や懐かしくすらある悪ノリというやつだ。
「もう、上手いこと言うのね。どっちにしても無理じゃないの」
良子さんは、年甲斐もなく子どもっぽくふて腐れてみせる。
そしてわずかな時間、再び沈黙が流れる。今度は少しやわらかい沈黙。深海にふと光が射し込むような、そんな優しさ。暖かいのはあなただよ。ぼくは心底そう思う。自分の罪すら、つい忘れてしまいそうになるほどに。
「――いいのよ。わたしのことは。わたしも、由梨も、こうなることは覚悟していたんだから」
いったい、なんの話だ? わからない。わからないことが多すぎる。
「――それより……なにをおいても、わたしはあなたに感謝しているの」
「…………」
「由梨はね。もちろんあなたも知っていることだけれど、あの子はとても優しくて、傷つきやすい子なの。繊細で、人の世界では生きていくのが難しいくらいに……」
「……そう、ですね」
「それでもね。まだ小学生の頃までは良かったの。環境が、奇跡的なくらいに良かったの。いろんなことに傷つきながら、それでもあの子は笑っていたわ。でも、今の学校に入ってから、その奇跡は終わってしまったの。あの子は孤独に思い詰めて、毎晩不眠に悩まされて……」
「やっぱり……気づいていらしたんですね」
「そうね。けれど、わたしはどうしていいかわからなかった。なにもしてあげられなかった。ただ手をこまねいて見ていただけだったの。あの子が、いじめを受け始めたときも……」
良子さんは、必死で感情を噛み殺している。でも違うよ。あなたはそんな風にしなくてもいい。あなたは優しかったんだ。人はいつだって非力で、完璧にはなれない。それでいいんだ。
「――良子さん。由梨ちゃんはあなたに感謝していたんですよ」
「――」
良子さんは信じられないと言った風に、驚いた目をする。
ぼくは続ける。
「あなたのその眼差しが命綱だったと、あの子は言っていました。『あたしが夜眠れてないのも、思い詰めてるのも、きっとお母さんは気づいてた。きっとだからこそ、お母さんはいつも穏やかに愉快に接してくれて。それとなく話も聴こうとしてくれて。あたしはお母さんには心配かけたくなくて。だからいつも誤魔化してたけど。それでも、その優しさがうれしかった。それにお母さんはまるで生きる力をくれるみたいに、あたしの好きなアニメのキャラ弁を一生懸命つくってくれた。あたしはそれがなかったら、あの屋上から飛び降りていたかもしれない』って。そんなことを言っていたんです」
「そう、なの……」
良子さんは、なおいっそう涙を堪えている。娘からの思いがけない感謝には、決して涙を流すまいとしている。気持ちは解ってしまう。だってそれは。あからさまに自分が可愛くて出る涙だから。けれど良子さんは、それでも泣いていいんだ。無理しなくていいんだ。ぼくはそう思う。
「……ありがとう。でも少し、話が逸れてしまったわね――ともかく、わたしがずっとなにもできずにいた状況を、あなたは変えてくれたの。あの子は、以前よりは眠れるようになって、思い詰めたようなつくり笑顔もしなくなったわ。それに、ときどきでもほんとうに幸せそうな顔をするようになったの。それはあなたのおかげなのよ」
「……違いますよ。ほかのふたりがいなかったら。ぼくにはなにも。あの子があからさまないじめからすぐに逃れられたのも、山下たんぼの威光があったからです。山下家は、良子さんも知っているとおり――」
「ええ。そうね。この町の絶対的な権力者だものね。一度睨まれてしまえばたとえ子供といおうが、どうなるかわからない――そういうことに、しておいてあげるわ。そう、渡したいものがあるって話だったわね。ちょっと待っていて」
良子さんは、そのまま席を立ち、すぐに戻ってくる。
「これよ。これを、あなたに受け取ってほしいの」
「――え。でもこれは……」
だってこれは、日記帳じゃないか。なぜぼくに? 良子さんならともかく、勝手に第三者が見ていいものではないだろう。
「いいのよ。由梨が以前から言っていたの。もし自分が突然居なくなったら、日記帳をあなたに渡してほしいって――読んであげて。なかには、お手紙も入っているはずよ」
河合由梨が言っていた? 手紙? いったいどういうことだ?
「でも……これはぼくなんかが――」
「いいの。由梨だって、あなたに感謝していたのよ。これはあの子の達ての望みなの。受けとめてあげて」
いや。受けとめるもなにも、今のぼくにはそんな資格は――
「いい? なにがあったとしても、あまり自分を責めすぎないで。人は完璧にはなれないわ。あなたは、ほんとうに由梨に優しくしてくれた。たとえ一度道を踏み外していたとしても。その償いをこれからしていくにしても、それだけは忘れないで――って、これじゃ半分くらい誰かさんの真似みたいになっちゃったけど」
良子さんはそう言って、またくすくすと笑った。ほんとうは辛いだろうに、そうやって無理をして、娘を殺した張本人の前で笑ってくれた。
ぼくは受け取った日記を濡らさないようにしつつ、硬質的な雨をただひたすら浴び続けた。暗く濁った冬空を一心に見上げながら。
心を、冷やさなければならない。ちゃんと殺さなければ。
河合良子の放つ暖かさに、ぼくはつい流されそうになった。やはり油断をすると、どこまでも他人の優しさに甘えてしまう。ぼくは改めて自らのずるさを思い知った。
けれど。こうして心を殺すことも、また単なる自己満足に過ぎないことはもちろんわかっている。でも。じゃあ、どうすればいいんだ? いっそもっと赦されればいいのか? それこそ、ありえない。
わからないことが多すぎる。世界も道徳も生き方も、わからないことだらけですぐ疲れてしまう。ぼくはまた、くだらない思考放棄を選んだ。
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