side B:それでもセカイは続くから

track 1



 わたしはハネムーン・ベイビーとして生を受けた。けれどわたしは幸福の象徴などではなく、むしろその破壊者だった。


 当時、彼らの家計は苦しかった。

 それでも新婚旅行ぐらいはと、彼らは精一杯の贅を尽くし愉しんだ。

 わたしが産み堕とされたのは、そんな彼らのほんのちょっとした出来心からだった。

 男は薄暗い海中で果て、女は身ごもった。

 女はそれを産もうとした。

 男は女を罵った。そんなモノは早く堕ろせと。

 けれど、女はそれを頑なに拒んだ。せっかく私の中に宿った命だから、ふたりの愛の結晶だからと。

 それはとてもきれいな言葉だった。耳触りだけは疑いようもなく。

 女は男との円満だった仲を犠牲にしながらも、それを産んだ。

 けれど、すでにわたしはドロドロとうねる羊水の中でおぼろげながら感じ取っていた。

 女の底に歴然と横たわる、ごくあたりまえの小さな悪意を。


 ――どうしてこんなことになったのか。この子さえいなければ。


 内容はおそらく、そんなところだったのだろう。

 今にして思えば、それはほんとうに仕方のない、取るに足りない些細な悪意だった。

 わたしがそれを徒に感じ取らなければ、あるいは気づかぬフリをきちんと出来ていれば、きっとすべては丸く収まっていたのだから。

 わたしは愚かだった。必死で心を取り繕い、母として子を愛してみせようとする女を、わたしは受け入れてあげることができなかった。

 わたしは知らなかった。子どもは無知で蒙昧で、なにより純粋で可愛らしくなければならないということを。子どもは無理にでもそんな愛玩性を演じなければならないということを。子育てに悩み苦しむ母親や、辛い労働に身を捧げ家庭を支えんとする父親の慰みとなるために。

 わたしは子どもらしく笑うこともできずに、我が身を包む小さな悪意の渦に怯え、彼らへただ震えがちな敵意の眼差しを向け続けた。

 やがて、女は一向に懐こうとしないわたしを放棄し、代わりに酒を浴びるようになった。

 彼らの家庭はますます荒み、男は女へ、女はわたしへ暴力を振るうようになった。

 そのときになってようやく、わたしは自らの愚かさを知った。

 すべては、わたし自身が蒔いた種だった。

 わたしはヒトが人であるために、必死で忘れようとしている些細な悪意を徒に暴いてしまった。そうして、身勝手にも傷つき怯えた。そんなわたしの弱さと愚かさが、幸福な家庭という優しげなおとぎ話を自ら壊したのだった。罪のない彼らのことまで巻き添えにして。

 だから、わたしはべつに彼らのことを憎まなかった。ただ、冷えきっていた。心が震えて苦しかった。わたしは愚かな失敗作だ、初めから誰にも愛される資格などないのだと、ただすべてを諦めるともなく諦めていた。

 そんなわたしを、ほんの少しでも暖かいところまで救い上げてくれたのが、幼い頃の霧幸きりさきかまちだった。

 

 冬の寒い夜だった。わたしは外に飛び出していた。さりとてどこへ行くあてもなく、ただアパートの錆びた鉄階段のふもとに座り込んでいた。

 少年はふと立ち止まり、わたしの顔など見ないようにしながら言った。

「……いつもなにしてんの。そこで」

「……べつに」

「……あ、そう」

 少年は立ち去って行った。

 しばらくしてからまた戻ってくる。

「ほら、寒いだろ」

 少年はわたしの顔も見ずに、ぞんざいに毛布を投げ寄こした。

 それを取りこぼし動揺するわたしの耳に、また怒鳴り声が飛び込んでくる。

「――もう! ぜんぶアレが悪いのよ!」

「――知るか! てめえが勝手に産んだんだろーが!」

 何かの壊れるような音が聞こえる。きっと男が女に向かって何かを投げつけたのだろう。

「――な! なによ! アンタが中に出したからじゃない!!」

「――あン!? てめえがヨガって足絡めてきたんだろーが! みっともなく腰振りまくってよぉ!!」

「――なによなによなによ!! 初めにナマでしようって言ったのはアンタじゃない!!」

「――はン! それでキモチいキモチい叫んでたのはどこのどいつだ!? ナマってこんなにイイのねぇ、だってよぉ~っ!」

 馬鹿みたいな高笑いが響き渡る。何度も聞いたやりとり。けれど流石はだ。よほどその夜は燃え上がっていたのだろう。わたしの口からも自然と乾いた笑いが洩れた。

「……ルカ……こんなの『大丈夫』じゃないっ…………」

 少年はわたしから顔を背けたまま、よくわからない言葉を洩らした。

「え、なに? わたしの名前は――」

「――聞きたくない! ……ごめん、今日のことは忘れて」

 少年は湧きあがろうとするなにかを振り払うように、頭を振り、唾を吐き棄ててからその場を立ち去った。

 わたしはすぐに少年の後を追った。

「ねえ」

「…………」

 少年は振り返ろうともしない。

「こんなのもらっても困るんだけど」

「なんで」

「置く場所、ない」

「あ、そう」

「はい、これ」

 わたしは少年の正面に回りこみ、受け取った毛布を突き出した。けれど少年はそれを受け取らない。

「……きみ、いつもいつまでああしてるの」

「あの人たちが寝るまで」

「……あ、そう」

 少年は門を開け、自身の敷地へ入っていく。途中で立ち止まり、背を向けたまま言葉を放つ。

「なに突っ立ってんだよ」

「……毛布」

 少年は露骨に舌打ちをしてから言う。

「早く入って」

「……どこに?」

「ここ」

「なんで?」

「毛布あげると困るんだろ。じゃあウチを使えばいい。風邪引く」

「なに言ってんの? きみ、バカ?」

「大丈夫。親はいない。あの男はめったに帰ってこない。空いてる部屋を、勝手に使ってくれていい。合鍵もあげる。その代わりぼくには関わらないでほしい」

 目が点になった。

「は? かまってきてるのはきみじゃんか」

「あんなとこにいられると、嫌でも目に留まるだろ。目障りなんだ。いつでもウチを使っていいから、ぼくの視界になるべく入らないでくれ」

 その言葉は殊更冷たく放たれた。けれど、かつて女に聞かされたどんな美辞麗句よりも、不思議と心地よい気がした。このときから、わたしは少年からなにか暖かいものがわずかに流れ込んでくるのを感じていた。

 わたしは少年の提案を受け入れることにした。

 

 初めに、少年はごく簡単に家の中を案内する。

「ここがトイレ、そこが台所。その奥に洗面所と風呂がある。で、あっちの奥が父親の部屋。二階に上がって左奥がぼくの部屋。このふたつに入らなければ、あとは空いてる部屋を勝手に使っていい。電気もガスも、トイレも風呂もキッチンも洗濯機も好きに使えばいい。あと、食材も。着替えも借りていい」

「……え?」

「きみ、臭い汚い。それに痩せすぎだ」

「そう、かな」

 そういう感覚は、もはや麻痺しきっていた。

「じゃ、ぼくは引っ込むから。退屈だったら二階の右奥に書斎がある。本とかCDとかレコードとか。いっぱいあるから」

「どんな?」

「え~と、なんかむずかしいやつ。それからなんかかっこいいの。よくわかんないけど、とりあえず落ち着く」

「ふ~ん。きみのお父さんの?」

「知らない。父親のか、おじいちゃんの。たぶん、両方」

「ふ~ん。おじいちゃんはどうしてるの?」

「知らない。物心つくまえに消えた」

「消えたって?」

「行方不明。でもきっともう死んでる。おじいちゃん、世界的に有名なミュージシャンだったって。その辺にいたら、すぐわかるはずだから」

「……ごめん」

「どうでもいい。じゃあ、ぼくはもう行くから」

 少年は階段を上がっていった。途中で露骨な舌打ちを打つのが聞こえた。

 

 そうして、幼いわたしたちの半同棲生活が始まった。

 わたしは言われたとおり、なるべく少年の目に入らないようにした。べつに愛も温もりも要らなかったから。欲しいと思うことすら、忘れていたから。わたしは、ただ怒鳴り声や何かの壊れる音、それに冬の寒さから逃げられるだけで満足だった。けれど、少年はむしろ自らわたしに関わろうとしてきた。要らぬおせっかいというものを、焼いてくれた。


 ――ある夜のこと。

「……また、ここにいるのか」

「だって、落ち着く。やっぱりわたし邪魔?」

「……いや、いい。でもぼくには話しかけないで」

「は? なに言ってんの。きみが――」

 そのとき、わたしのお腹が一際大きく鳴った。少年は溜息をついてから言う。

「メシぐらい、ちゃんと食えよ」

「……つくれない」

 少年はままならないという風に舌打ちを鳴らす。

「来て」

「どこに?」

「いいから。こっち」

 わたしはしぶしぶ少年の後ろについていった。

「料理、教えるから。これから勝手に自分でつくって」

 少年は電子レンジの使い方を教えてくれた。わたしは、つい笑ってしまった。

「これが料理?」

 少年はバツが悪そうに、あくまで顔を背けながら言う。

「な、なんだよ。これが料理じゃなくてなんなんだ?」

「じゃあ、あれはなに?」

 わたしはキッチン・コンロを指差す。

「あ、あれだろ? 魔女がクスリでもつくるのに使うんだろ?」

 素っ頓狂なことを言う。わたしはまた、笑ってしまう。

「へぇ。きみの家って魔女が住んでるんだ~。きみってやっぱりおもしろいね~」

「う、うるさい! ぼ、ぼくは部屋に戻るから。とにかく好きなの食べていい。それと、ぼくにはもう話しかけないでくれ」

 そうして、少年は二階へ上がっていった。そのあと、わたしは自分が久しぶりに笑ったということに気づいた。そして、初めて寂しいという感情を自覚した。

 わたしのなかで、少年の存在は次第に大きくなっていった。わたしは少年とのわずかな接触を、唯一の心の支えとするようになった。そこに、隠し切れない確かなぬくもりを感じたからだった。少年は瞬く間にわたしのすべてとなった。あいかわらず少年は、わたしの顔すら見ようとしなかったけれど。


 ――それから、また別の日のこと。

「そのトレーナーと上着も洗えよ。汚い」

 わたしは洗濯機を借りている最中だった。

「あんまり小奇麗になると、怪しまれる。なにされるかわかんない」

「きみを外に放ったまま寝ちゃうやつらだろ?」

「そうだけど。でも親だから」

「親だから?」

「自分に懐かない子どもが、自分の知らないところで他の大人に懐くのはフユカイだと思う」

「ぼくは子どもじゃん。それにきみを懐かせた覚え、ない」

「こんなの、フツーじゃないから。誰か大人の世話になってるって、あの人たちは考えると思う」

「……そっか」

 少年は玄関へ向かっておもむろに歩き出した。

「――どこいくの?」

「きみんち」

 また、目が点になった。

「な、なんで?」

「話、つけにく。きみ、もうここに住めよ」

 あいかわらず素っ頓狂なことを言う。けれどその言葉は、うれしかった。

「――ば、ばか? 許してもらえるはずないじゃんか」

「だって、なんかソイツらムカつく」

 短絡的過ぎる。しかもそれ、理由になっていない。

「……や、やめて! ここにもう来れなくなる!」

 わたしは少年にしがみつき、必死で懇願した。

「……わかったよ」

 少年はしぶしぶ自分の部屋に戻っていく。そして途中で立ち止まり、背を向けたまま言った。

「……いいよ。もう。ときどきなら、話しかけてきて」

 少年は、またままならないといった風に舌打ちを鳴らし去っていった。


 それからすぐ後に、わたしは組織へ引き取られた。学校の階段から落ちて、病院でCTスキャンを受けたことがきっかけとなった。


 ――わたしの脳には、幼い天使が棲み憑いている。それが明らかになったからだった。


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