track 10



 さらさらと、砂礫されきのように乾いた雨が降りかかるなか、ぼくは森を歩いている。

 サアサアと、冷えた風が森を吹き抜け、紅葉を少しずつ散らしていく。

 そうして木々から抜け落ちた葉は、弱々しいダンスを踊りながら落下の線を描く。

 あるものはヒラヒラと玩ばれ、あるものは唐突に突き落とされて。


 しかしこれはまだ、哀しい主題へのほんの前奏に過ぎない。


 すっかり深みを帯びた秋も、もう新たな季節へと移ろい過ぎようとしている。

 少し早めに羽織ったダッフル・コートが、来るべき冬を警戒するように、執拗に外気からこの身を護ろうとしている。

 おかげで寒くはない。ただ少し、うすら寒いだけだ。

 館に辿りつく。森の入り口からはそう長くない道のりだ。

 鍵を開け、重い扉を開く。

 誰もいない。

 ひとりは嫌だ。

 たんぼさんが消えてから、館にひとりでいるのが怖くなった。

 みんなこのまま消えていってしまうのじゃないかって。

 壊してしまうことに比べれば、ずっとマシなはずなのに。

 ぼくは紅茶を入れる。ぽかぽかと白い湯気が立つ、暖かい紅茶を。

 うすら寒いのに。この身は必要以上に温まる。

 冬は嫌いだ。その訪れに怯んでしまう。昔は好きだったのに。

 光が、熱が、薄れて消えていってしまう気がするからだ。

 暖かさを知ってしまったから。人とのつながりを知ってしまったから。

 だから。初めからないはずの虚構の光に縋り続けてしまう。

 大切になるほど怖くなるのに。それでも、ぼくはひとりになるのが怖かった。

 できるだけ、ニンゲンを夢見ていたかった。その暖かさのなかに浸っていたかった。

 ――だから。ぼくは問題を先延ばしにすることを選んだんだ。


 気がつくと、目に涙が浮かんでいた。

 手指でその涙を拭き取る。白っぽい湯気の中で、それは白々しく光っている。

 心に虚無が降りる。

 紛らわすために、ステレオをつける。

 スピーカーからは静かなギターの音色が響く。

 確かに、死にたくなるような音楽だ。

 深みを帯びた低音弦の音色が、憂鬱を助長する。

 力ない声が、寂しげに響く高音弦の音色が、どうしようもなくやるせない感傷を誘う。

 間奏に挿入されたピアノの音色に乗って、いっそ消えていってしまいたくなる。朝空に舞う淡いバラ色の煙のように。そんな風にきれいに消えていけたならいいと。

 それは静かなぬくもりだ。うつくしい音楽による詩的な感傷は、現実から目を逸らさせてくれる。

 夢見るための、ほんの少しの気休めをくれる。

 それでも、そろそろこの夢にも限界が来ているのか。白々しい涙が流れて止まらない。もう、終わってしまうことを心は悟っているのだろう。


 と、扉の開かれる鈍い音が響く。このリズムは、由梨ちゃんだろう。可憐な手にはこの館の扉は重すぎるのか、由梨ちゃんはたどたどしく開く。同じゆっくりとした開放でも、たんぼさんのなにかを労わるようなやわらかいそれとはまるで違う。由梨ちゃんのは一生懸命扉を開こうとしているのがひしひしと伝わってくる微笑ましい開放だ。安直にも、護ってあげたくなる。ほんとうは自分がいちばん危険なのに。

 扉の閉まる音が聞こえる。背中を向けていて良かった。ぼくは頬に伝う涙をセーターの袖で拭き取り、急いで目薬を差す。そして即座に気持ちを切り替える。由梨ちゃんには、絶対に黒い部分を見せられないから。

「おはよう。由梨ちゃん」

 ぼくはあくびをしてみせながら、ふにゃふにゃとした声で言う。

「……うん。おはよう、かまち」

 どうしたのだろう。今日は私服ではめずらしくスカートを穿いている。そして剥き出しになった両の膝上を擦り合わせて恥ずかしがっている。

「どうしたの? 内股になってるよ」

「……う、うん」

「なんだか女の子みたいだ」

「……うん」

 なんだ? 反応がおかしいぞ。ここはいつもなら「うが~~っ」とか「初めから女の子だあ!」とか来るところじゃあないのか?

「…………」

「…………」

「……どうしたの? こんな短いスカート穿いて」

 言いながら、ぴらりとスカートの裾を摘まみ取る。そう、まずは生地の質感から検分してやらなくてはな。

「…………」

 あれ? なんだか空気が痛いぞ? ん? いや、待てよ。なんだか白くて神々しいものがスカートの向こうに――

「うが~~~~っ! このくずヤローが~~~~っ!!」

 痛い! 腹を蹴られた! ていうか。

「今よけいパンツ丸見えでしたよ~~!」

「この! 結婚詐欺師が~~っ!」

 しまった。つい声に出してしまった。第二撃目をなんとか立ち上がって防ごうとする。

「……ほが…………っ」

 由梨ちゃんの小さなお御足が、ゴールド・ラッシュへ爆進した。おめでとう! 見事、金を掘り当てたようだ! 違う金だが。

「……ご、ごめん。か、かまちが急に立ち上がるから……」

 ソファーにくず折れてしまったぼくを、由梨ちゃんは怒りも忘れてしおらしく介抱してくれる。それにしても。そろそろ言っておこうか。

「……今日の由梨ちゃん、かわいいね」

 由梨ちゃんはパアッと顔を煌めかせる。うん。ほんとうにかわいいや。

「お化粧、上手にできているね。練習したの?」

「う、うん!」

「そっか。いっぱい練習したんだね。そのスカートも、似合っているよ」

「……うん」

 どうしたものか。また緊張してしまっている。けれど、由梨ちゃんも由梨ちゃんなりに一歩ずつ進もうとしているのだろう。変わってしまうことをなんとか受け入れようと――

「…………っ……ぅううううう!!」

 頭が、軋む。壊れそうだ。怖い。なにかがものすごく怖い。変わってしまうことが? 違う。それは違う。答えがズレている。

「か、かまち!? ど、どうしたの?」

 由梨ちゃんはおろおろと、すごく心配そうにしている。今にも泣き出してしまいそうな顔で。ダメだ。由梨ちゃんには笑ってもらわなくちゃ。ぼくは必死で笑顔を取り繕う。

「ふ、ふふ。びっくりした? 由梨ちゃんが緊張しているようだったから。でも、ごめんね。ちょっとやり過ぎちゃったかな」

「…………も、もう! かまちのばか! ばかばかばかばかばか!」

 ぼかすかと、ぼくの胸を叩いてくる。よかった。安心してくれている。

「でもさ。由梨ちゃん。『深海少女』のドレスも丈が短かったじゃんか。そんなに恥ずかしがらなくてもいいんじゃないの?」

「…………ぅう……あ、あれは衣装だし。今はお、お化粧もしてるし。そ、それにふ、ふた……ふた、ふたた……ぅう」

「うん。落ちついて、由梨ちゃん。ゆっくりでいいから」

「う、うん。だって今日は……ふた……ふた……り、きり……だからぁっ」

 目を、ぎゅっとつぶって。頬は林檎みたいに紅く染まっている。

 由梨ちゃんは今、未来へ踏み出すことに一生懸命だ。ぼくはその小さな頭に、そっと手を添える。

「うん。よくできたね、由梨ちゃん。そうだね、今日はふたりきりだもんね。これからふたりでどっか行こうか?」

「う、うん!」

 由梨ちゃんの顔が、再びパアッと煌めく。

「で、どこ行こっか?」

「……えっと…………どこでもいい、かな」

「そっか。じゃあ、とりあえず出てみようか。今すぐ行く?」

「うん! 行く!」

 ぼくらは歩き出す。自然と手を取り合って。由梨ちゃんは新たな関係性に向かって。けれどぼくは、あとほんのひとときの安らかな夢に向かって。


 由梨ちゃんと森のなかを歩く。先ほどはやがて訪れる死の気配を淡々とチラつかせていた景色も、こうして歩くと少し違って見えてくる。

 世界は、由梨ちゃんの笑顔できらきらと煌めく。

 自然と、目尻や口の端に微笑みが零れる。

「ね。由梨ちゃん」

「……え、な、なに?」

 ずいぶん淑やかな調子になったからか、由梨ちゃんはまたどぎまぎしてしまう。

「ん~。やっぱ、なんでもない」

 ぼくはつい、頭をわしわしとしてしまう。

「ん、もう」

 不服そうに、肩を落とす。なにをやってるんだろう、ぼくは。せっかく由梨ちゃんが勇気を奮って一歩踏み出したというのに。

「……いや、ごめん。由梨」

「――え? い、今、なんて?」

「いやさ。由梨。世界が、きれいだなって」

「…………」

「狂ってるかな? これ」

「……ううん……ううん……」

「そっか」

「うん。あたしも……かまちと……こうしていると……ううん、みんなといるときも……そう、思ってしまうから」

「ありがと。でも。哀しいよね。これ」

「……あたしたちのことが?」

「えっと……世界が。ぼくらは、ぼくらだけしか幸せになれないから。身勝手な幸せがすべてだから」

「うん。あたしもいつも……それが苦しくなる……」

「……宮沢賢治が言ってるんだけどさ。みんなが幸せにならないうちは個人の幸福はあり得ないって、そんなことを。ばかだよ、あいつは。ぼくらは身勝手にも幸福になれるし、それでいいんだ。きっと」

「……そう、なのかな……?」

「うん、そうだよ。さ、今日はいっぱい楽しもう」

 それは思考放棄だ。欺瞞だった。どうしようもなく欺瞞だった。

 ぼくは由梨ちゃんの手をきゅっと強く握り、踏み出すことを促すように大きく振った。

 由梨ちゃんはぼくの子どもじみた行動に、ぼくがわざわざ蒸し返した幸福へのうしろめたさに尾を引かれながらも、ころころと笑った。そうして、やっぱりぼくのこの世界はきらきらとうつくしく煌めいていた。


「――お昼ご飯、こんなところで良かったの? 初デートくらい、遠慮しなくていいのに」

 駅前に辿りついてから、ぼくらは少し早めの昼食を取ることにした。由梨ちゃんはわざわざ安っぽいファスト・フード店を初デートの昼食に選んだ。

「だって、かまちとふ、ふふたりで来たかったんだもん。さ、た、食べよ」

「そっか。うん、じゃ」

「うん!」

「「いただきます!」」

 ふたりで意気揚々と唱和する。由梨ちゃんはほんとうにうれしそうだ。

 由梨ちゃんはエビのたっぷり挟まったハンバーガーを両手で持って、栗鼠のような仕草でかじりつく。ほろほろと、口の端が綻びる。

「……おいしい……」

 由梨ちゃんはこの世界最大手のハンバーガー・チェーンが大好きだ。そこには堪らなく哀しい象徴性を感じるけれど、由梨ちゃんの笑顔はひとまずそれを忘却させてくれる。

「……いいね。なんか。こういう時間って」

「う、うん」

「ま~た、緊張しちゃってるね」

 おでこを指で突っつく。

「あうっ。だ、だって、か、かまちがなんだか、その……」

「ん?」

「い、色っぽい? か、から?」

「色っぽい?」

「ん~~。な、なんていうか。いつもと、違って見えるから。す、すごく穏やかで」

 それは、終わりが近づいて感傷的になっているからだろう。けれどぼくはもっともな言葉でお茶を濁す。

「それはね、きっと由梨ちゃんがぼくらの関係性をほんの少し進めてくれたからだよ。それに、今日の由梨はきれいだから」

「あ……あ、ありがと……」

「でもね。由梨ちゃん。あんまり無理しなくてもいいんだよ。急がなくても、ぼくは此処にいるから。どこにも行かないから」

 その言葉に、嘘はなかった。とんでもない誤魔化しはあったけれど。

「……うん、ありがと――」

「……由梨ちゃん」

 すっと、ハンカチを差し出す。

「ご、ごめん。あたし、今すっごくうれしくて――」

 それからしばらく、由梨ちゃんはさめざめと泣いた。

 ぼくはゆったりと、由梨ちゃんの小さな頭を撫で続けた。

 泣き終わった由梨ちゃんは、すっかり肩の力がほぐれていた。良い意味で、昔の由梨ちゃんにまで戻っていた。

「――これからどこ行こっか?」

「ん~~~と……」

「あ、そういえばいつだったか、いっしょに駅前のアニメ・ショップに行きたいって言ってたよね。今から行ってみる?」

「――う、うん!」

 由梨ちゃんはパアッと顔を煌めかせて、こくこくと頷く。過去に何気なく放った一言を覚えていてくれたのがうれしいのだろう。由梨ちゃんは想い出を、切実なまでに大切にしているから。

「それじゃあ」

「うん」

「「ごちそうさまでした!」」

 ふたりで勢いよく唱和して、席を立つ。トレーを片付けてから、店を出る。少し歩くとすぐにそのアニメ・ショップが眼前に現れる。

「う~ん、ひさしぶりだな。由梨ちゃんは、初めてだよね?」

「うん♪」

 にこにことして、歌うように。ぼくはさり気なく由梨ちゃんの手を取る。店内に入ると、オタク風の男たちがあまり好ましくない視線でぼくを突ついてきた。

「こ、こわい……」

「ふーなふなふっふーなふなふっふ♪」

 由梨ちゃんは怯えるぼくなど意に介さず、ぶんぶんと大きく手を振りながらなにやら胡乱な歌を口ずさんでいる。ますます男たちの視線が怖くなる。やめてくれい! あげく由梨ちゃんは「ヒャッハー!」とか言い出すし。緊張して縮こまっていた由梨ちゃんはいったいどこへ行ってしまったんだ。

「ゆ、由梨ちゃん。ここはお買い物や冷やかしをするところだよ。決してふなっしーのお歌を歌いながらイチャイチャするところではありませんよ!」

 由梨ちゃんの耳元でコソコソと囁く。しかし、よく考えたら初めに手をつないだのはぼくのほうだったわけだが。

「……ぅん。ごめんね」

 急にしおらしくなる由梨ちゃん。当然、由梨ちゃんも気づいていたのだ。気づいていたからこそ、なおさら楽しい気分に浸り切ろうとしていたのだ。由梨ちゃんは、他人に向けられたこんなしょうもない嫉妬にも心を痛めてしまうくらい、人の放つ悪意に対して繊細なのだから。

 そんなあたりまえのことにも気づかないなんて。そろそろ自分でいっぱいになってきているようだ。

 ぼくらは手をつなぐのをやめ、いそいそとその場を離れた。

 それから店内を物色するうちに、由梨ちゃんはすぐに気を持ち直してくれた。


「あ、まど☆マギだ~♪ 今度いっしょに映画観に行きたいなぁ」

「うん、そうだね」

 約束はしない。だが、いっしょに観に行きたかったのはほんとうだ。

「ほむらちゃん……かわいい……」

「そうだね。ほむらちゃん見てると、いつも鏡子のことが頭に浮かぶよ」

「……そう、だね。鏡子ちゃん、いっつもひとりで無理してるもんね」

「……うん」

 なぜこうも、すぐにしおらしくさせてしまうのだろう。きっとこれが最後のひとときだというのに。ぼくは急いで話題を振り替える。

「あ、由梨ちゃん。あっち見て」

「ん、なに?――わ……ぁあ、ふ、ふなっしーだあああっ!」

 由梨ちゃんは飛ぶような勢いで、ふなっしーグッズ・コーナーへ駆けて行った。

 ぼくは少し遅れて、由梨ちゃんの後を追う。

「これこれ、由梨ちゃん。店内は走っちゃダメだよ」

「ふわぁああ~。ふなっしーがいっぱいだぁあ」

 すっかりふなっしーの織り成すザ・ワールドに入り込んでしまっているようだ。ぼくの声も届かない。

「ふなっしー……」

 頭ひとつ分くらいのサイズのぬいぐるみを胸に抱き寄せて、由梨ちゃんは目からじんわり涙を滲ませている。ふなっしーめ。ちくしょー。おめえ、ほんとにいいヤツなんだな。今の由梨ちゃんの姿を見てるとよくわかるぜ。なぜかその光景に、ぼくまで泣けてくる。

「……由梨ちゃん」

 ぼくは由梨ちゃんの頭にそっと手を添えた。

 しばらくしてから由梨ちゃんは我に帰った。お金がないから、とふなっしーから離れる由梨ちゃんの眼はとても切なかった。

 ぼくらは店内を引き続き回遊した。

「――あ、前にかまちの好きって言ってたPSYCHO-PASSのグッズがあるよ!」

 由梨ちゃん自身はあんまり好きでもないのに、うれしそうだ。

「おお、ほんとだ! へえ、このドーム・ストラップ、渋くてかっこいい」

「うん、それに透明感があってきれいだね。かまちの好きなキャラクターのはあるかな?」

「え~と、あ、ちょうど填島さんのだけ売り切れてるみたいだ」

「そっかあ。残念だねぇ……」

 それからまたふたりでぽてぽてと店内を練り歩く。

 と、なにやらネットリとした視線を商品棚の方から感じた。

「う、わ……」

 リヴァイ兵長の潤んだ瞳が、ぼくの目をロックオンしていた。

 そこへ由梨ちゃんが駆け寄る。

「わあ、進撃の同人誌だね~」

「ゆ、由梨ちゃんさ、これらがどういうものか、わかっているの?」

「――えっと、スピンオフ?」

「ま、あ、ある意味ではそうなんだけど……」

 と、由梨ちゃんはわざわざ男性用コーナーの方から一冊取り出してくる。

「ねえ、かまち。進撃の巨根って、どういう意味かな? なんでミカサちゃんたち裸なの?」

 なに? ミカサだと?

 ……おぉ……ぼくのミカサだ……すごく……かわいい…………。

 ――違う違う! きゅんきゅんしている場合じゃないぞ! この馬鹿チンめ!

「え~とね、由梨ちゃん、それは大人の読むものだからねっ。さ、さ、は早く行こうか」

「え~~っ、あたしもう大人だもん!」

 渋る由梨ちゃんを力任せに大人たちの性の楽園から引っぺがす。

 ずりずりと引きずり去られた由梨ちゃんはしばらくの間、子どもみたいにふて腐れていた。


 ようやく機嫌を取り直してから、由梨ちゃんは言う。

「――そうだ。かまちは書籍コーナーは見ておかなくていいの?」

「うん、今日はいいよ。どうしようか。もう一通りグッズは見て回ったし、次に行く?」

「うん。そうだね。やっぱりかまちと回るの楽しかった♪」

「ありがと。ぼくも楽しかったよ」

 うん。なかなか愉快なハプニングもいっしょに楽しめたし。

 ぼくらは連れ立ってお店を出た。

 そこで、ぼくは先程の由梨ちゃんの尊い姿と切なげな眼差しを同時に思い出した。

「――ごめん、由梨ちゃん。外でちょっと待っててくれる?」

「え、トイレ?」

「これ、れで~はそんな聞き方しないのっ」

 めっ、とおでこを突っつく。

「あうっ……お、おトイレ?」

 まあ、それでよしとしよう。

「うん、そんなとこ。すぐ行ってくるから待っててね」

「うん、いってらっしゃい」

 少し詰まっていたため、予想外に時間がかかってしまった。

 用を済ませてから急いで由梨ちゃんの下へ戻る。

「お待たせっ」

「かまち、遅かった。うんちだろ~?」

 少々うざい絡みをしてくる。小学生か、おまえは。

「はい、これ。初デートの記念だよ」

「……え?」

 買い物袋を、由梨ちゃんに手渡す。袋の形から察しているのか、すでに由梨ちゃんの手指はふるふると震えている。

「……わ……やっぱり」

 由梨ちゃんの目から、またぽろぽろと涙が零れる。

「受け取ってくれる?」

「……うん」

 由梨ちゃんは、再びふなっしーを胸元に抱き寄せる。さっき以上に切実な仕草で。

「かまちがくれたふなっしー。世界でいちばん優しいふなっしーだ」

「……うん」

 ぼくはただ穏やかに頷いた。

 だって、そうじゃないか。由梨ちゃんがそう想っているのなら。

 それがたとえ悪の権化からのプレゼントなのだとしても。

 

 それからぼくらはゲーム・センターに向かった。

 はじめぼくは漫画から受けた影響で格闘ゲームに挑戦してみたけれど、案の定ボロボロだった。簡単な必殺技であるソニック・ブームすら満足に繰り出せなかった。それでもぼくがムキになってコインを何度も投入するのを、由梨ちゃんはどこかうれしそうな呆れ顔で眺めていた。

 そのあとは由梨ちゃんといっしょに大きいお友達になってキッズ用のメダル・ゲームを楽しんだ。明るい色合いの小さな箇体にしがみついて可愛いキャラクターたちと戯れる由梨ちゃんの後ろ姿は、ほんとうに幼い子どものようだった。

 もちろん、初デートの必修コースであろうプリクラにも挑戦した。ぼくはひたすら恥かしかったけれど、出来上がったプリクラに落書きを書き加える由梨ちゃんの笑顔がほんとうにうれしかった。

 そして、ぼくらは駅ナカの百均ショップに入った。

 由梨ちゃんは、ふわふわと天使のように店内を舞う。

 そうしてあれこれと手にとっては、楽しそうな声を上げる。

 由梨ちゃんは安いものが大好きなのだ。たとえその遠景にドス黒い悪魔が潜んでいたとしても、それはいつだって巧妙に隠されているから。今、こうしてぼくが何食わぬ顔で由梨ちゃんとの幸福を貪っているのとまったく同じように。

 世界もぼくも、由梨ちゃんを騙して汚し続けているのだ。

 次第に夢は限界に近づいているようだった。暗い想念も、少しずつ振り払えなくなっていく。

「――わぁ、このお洋服、かわいいね……」

 ぼくらは今、駅ナカを通って、家路に着こうとしている。

「うん。かわいいね。それに、由梨ちゃんにとっても似合いそうだよ」

「そ、そうかな?」

「うん」

 由梨ちゃんはてれっと微笑む。

 それから、ぼくらはまた歩き出す。

「――あ、今五階の楽器店でギター作りのワーク・ショップやってるんだって」

 由梨ちゃんが、なんの気なしに言う。当然だ。由梨ちゃんはなにも知らないのだから。けれど、ぼくにはなぜかわかってしまう。運命は隠していた手札を、ようやく見せびらかそうとしている。

「そ、そうだね」

「たんぼさんが作ってくれたギター。かまち、すっごい喜んでたよね。最高にぼく向きの良い音が出るんだって」

 ――やっぱり。もはや頭に痛みも走らない。そんな気すらしなくなっていく。

「ああ、そうだったっけ」

 適当な返事。

 由梨ちゃんはそれを敏感に察知し、激しくおろつく。

「……え、あ、ご、ごめん。無神経だったかな、あたし。た、たんぼちゃん、居なくなっちゃったのに」

「いいよ、べつに。ぼくこそごめんね。きっと今日は楽しかった分、疲れてるんだ」

 あ~あ。壊れてく。ぜんぶ壊れてく。くだらなかった茶番が。

「そ、そうだね。きっと。今日は楽しかったよ~。ありがと」

「ううん、こっちこそありがとう」

 それからしばらく、重苦しい沈黙が続く。

 運命の悪戯か、何ものかの自嘲的な作為か。今まで真実を狡猾に隠して来た電気仕掛けのからくりを、わざわざ由梨ちゃんの幼い声でバラバラにさせていく。

「――あ、ら、来週もやっぱり模様替えするのかな? みんなの森の館」

 うん。するだろうね。しちゃうだろうね。だって。あそこは大切だったものだらけだから。

「あ、ででも、鏡子ちゃんが言ってたよ。部屋のほうは相変わらずだったって。ほんとはあんまり、環境を変えるのは好きじゃないのかな。なのに、いつもありがとね。あたしたちを、退屈なんてさせないように。だから、毎週部屋を衣替えしてるんだよね。ひとつずつ、モノを入れ替えながら」

 あ~あ。なんで由梨ちゃんがそんなこと言うのかな? 想い出の詰まったものがどんどん消えていって、ほんとはいっつも寂しい思いをしているくせにさ。違うんだよ。だって。それは必然なんだ。家のガラクタなんか、もう見向きもできないからだよ。

 ――大切だったものほど壊したくなる。ほんとはそれを、ぼくは知っていたのにねえ。

 ぼくの妖しくも堕ちていく気配にうろたえ、その小動物はひとり勝手にしゃべくり続ける。

「あ~♪ さ、さいきんうれしいこといっぱいだあ。二回目のお誕生会もしてもらったし♪」

 ――あ~、そうか。それだったか。いちばんキテるのは……ってことは。

 ――あっははは! な~るほど! そうかあ。そういうことだったのねえ。

「ううん。違うよ、お嬢ちゃん。お誕生会は一回しかやってない」

「え――」

 ぼくはソレを切り裂く。

 周期でもないのに。

 一回、二回。

 生首が、泥水みたいに飛び跳ねる。

 臓物が、生ゴミみたいにブチ撒かれる。

 そのあとも。なんかいもなんかいもなんかいもなんかいも切り裂く。

 執拗に。周到に。徹底的に。壊滅的に。

 やがて身の回りは、グチョグチョの血とミンチと汚物の沼になる。

 え? 道徳?

 関係ないよ。第一、すでに一度ヤったモノだし。

 え? 人目?

 気にするか。だって、誰も見ていない。

 見ているわけがない。

 初めから、ぼくにしか見えていなかったんだから。

 

 大切だったものほど、破壊に余計な力を使ってしまう。回数だけの問題じゃない。一の力で切り裂けるものを、わざわざ千以上の力で切り裂いているような感覚。

 ぼくは過度の覚醒剤が切れた後のような、どうしようもない全身の虚脱感に襲われながら、這うようにして帰路を歩いた。家に辿り着くまでに、何時間かかったのかも覚えていない。


 ――どうしてだろう。くだらなかった茶番は終わったはずなのに、雨は鳴り止まなかった。バリバリとおおきな音を立てて、ぼくのセカイをあくまで獰猛に喰らい尽くそうとしていた。


 

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