track 8
物凄い雨。
バリバリと、石を噛み砕くような足音が天上から襲ってくる。
すべては叩き割られ踏みつけられ死に絶えていく。
泥水みたいに飛び跳ねて。
生ゴミみたいにブチ撒かれて。
死をもたらす蒼白の騎馬が執拗な巡回を続けているのだ。きっと。
もうすぐ此処へも手が回る。
すべてが、終わってしまう。
そんな気がする。
逃げ出せるものなら。どれだけよいか。
いつからだろう、この雨は。
もうあまり覚えていない。
いつからだろう。
未来に希望を失くしたのは。
光もなにも、見えなくなったのは。
わからない。このところの記憶は夢の中のように曖昧としている。
過去の思い出ばかりが、だらしなく頭にこびりついている。
ただ、それすらも正確かどうか。
考え出せばきりもない。
けれど由梨ちゃんに訊くのは怖い。
傷つけてしまうから。
鏡子に訊くのも無理だ。
これ以上、ぼくのことで苦しませたくない。
厭な朝。
なにを聴こうか。
ラックを漁ってみる気にもならない。
ほんとうの絶望には音楽などあまりに遠い。
そもそも身勝手な感情を増幅させて浸ったとして、あるいは現実を忘却したとして、なんになる。
ただのマインド・コントロール。欺瞞だ。
ロックンロールに救われていられるうちはまだ幸福だった――そんな言葉を思い出す。
けれど、なぜこんなにも絶望してしまうのかはわからない。
ただひとり、去ってしまっただけのことなのに。いずれ記号になってしまう誰かが、自身の都合で勝手に出て行っただけなのに。
――ぼくらは四人じゃなくなった。ただそれだけのことなのに。
突然。来客を告げるインターホンが鳴る。
たぶん、鏡子だろう。玄関まで迎えにいく。
「おはよう。かまち」
ずぶ濡れだ。なぜこうまでしてここへ足を運んでくるのか。こんな日ぐらい部屋でジッとしていればいいのに。
「……ああ。おはよう。でもわざわざどうしたの。こんなに雨が酷いのに」
鏡子はこちらをまじまじと見つめながら言う。
「べつに。ちょっとかまちと話したかっただけ」
「そっか。まあ、とりあえず上がりなよ」
「ええ。おじゃまするわ」
鏡子は靴を脱ぎ、玄関を上がる。ぼくはそのまま鏡子を連れ、二階の自室に戻った。
――わからない。なにか不自然な気がする。この光景のすべてが。けれど問題はまるで靄がかかったように不明瞭だ。ぼくは考えるのを放棄した。それはとても怖く思えたから。
「……またモノが増えたのね」
部屋に上がった鏡子は言う。あたりまえだ――あたりまえ? なにがどうあたりまえなんだ? また、一段と頭の中の靄が濃くなる。ぼくは気にしないようにした。元より、こんなことはよくあることなのだから。
「じゃ、ちょっとお茶入れてくるから。適当に座っておいて」
「ええ。ありがとう」
ぼくは誰もいないキッチンでふたり分の暖かいお茶を用意し、部屋に戻る。
「お待たせ」
「ありがとう。頂くわ」
ぼくらはお茶を飲みつつゆったりとくつろぐ。ぼくらの間に言葉はそう多くない。鏡子は無口な方だし、ぼくも話題がなければとくに自分から話すことはしない。
しばらく静かにお茶を飲み交わしているうちに、鏡子が先に口を開いた。
「そうね。なにか音楽でも聴こうかしら。鬱陶しいわ。この雨」
けれど、今さら音楽など聴く気にはならなかった。ぼくは代案を申し出る。
「う~ん。今、あんまりそういう気分じゃないんだ。なんだったらゲームでもしようよ」
「……いいわ。今はなにがあるのかしら?」
一瞬の間が気になったが、ぼくはゲーム・ソフトの並んでいる棚を鏡子に見せる。そこには、すでに用済みになったはずのゴミ類もいっしょに棄て置かれている。
「もう。やっぱりRPGと美少女ゲームばかりじゃない。こういうものはひとりでするものよ」
まあ、そうなんだけど。一応一点は補足しておく。
「あ、一応言っておくけれど、美少女ゲームはたんぼさんの趣味だからね。ときどき一方的に貸し付けてきたんだ。ほとんどのやつは起動すらさせてないよ」
それもひどい話だが、仕方ない。他人のものを無残なゴミクズにしてしまうわけにもいかないのだから――なにがおかしいんだ? この感じ。いや、知らない。気にするんじゃない。それに触れてはいけない。そう自分に言い聞かせる。
と、気がつけば鏡子はまたあの苦悶の表情を微かに浮かべていた。今にもなにか言い出しそうだが、ついになにも言い出せない。その逡巡が、余計に鏡子を苦しませているようだった。
「……ごめん。たんぼさんのこと、思い出させちゃったかな。でも。鏡子が責任を感じることはないよ。あの人のことだ。きっとどこかで楽しくバカやってる。自由なんだよ。あの人は。繋ぎとめられるものでもなかったし、そんなことをしても仕方がなかった」
「……そうね。きっとそうだわ」
それがどうしようもなく欺瞞であることを、たぶんぼくらは知っていた。
けれど、鏡子は必死で微笑みを繕って提案する。
「そうね。じゃ、美少女ゲームというものをしてみたいわ」
ぼくもそれに合わせて、繕いに繕いを上塗りする。きっとふたりでなにかを誤魔化すために。ふたりの欺瞞のために。
「そうだね。えっと……じゃ、これにしよっか」
たんぼさんがかつて最も愛したゲームだった。これとあとひとつは、たんぼさんにどうしてもやってみて欲しいと念を押されたので自分でもプレイを終えている。どちらも、なぜたんぼさんが愛したのかがよくわかる、深い思索の海中で真摯に光を探し続けるような、そんな哲学的なジュブナイルものだった。もちろん、ぼくの胸にも深く響いた作品たちだった。それゆえにぼくはようやくひとつの決断に辿り着けたのだと、そんな気がするのだがそれがなんだったのかはまるで覚えていない。
鏡子はパッケージ裏の解説を読みながら、少し驚いたように言う。
「……少し、わたしたちに似ているわね」
――彼らはいつも七人だった。
そこには大きな字でそんな文言が書かれている。ぼくらはいつも四人だった。少し切なくなる。うん、きっとそんな感慨だけでいい。
「そうだね。孤独と問題を抱えた人間ばかりが集まって、彼らは彼らの聖域をつくった。衰退の情感が漂う町外れの廃工場をたむろ場にして。少しだけ、ぼくらに似ているよね。そういう意味でも、気に入っている作品だよ。たんぼさんもほんとうに好きだったみたいだ」
「そうね。これをしてみたいわ。18禁というのが少し気になるけれども……」
「気にしなくていいよ。ハリウッド映画にだって、文学小説にだって、サスペンス劇場にだって濡れ場はザラにあるものだよ。ゲームだけ厳しすぎるんだよ」
「……そういうことじゃないのだけれど……。まあ、いいわ。はい」
鏡子は頬をわずかに朱色に染めながら、ゲームのパッケージをぼくに押し付けてきた。その顔を見てようやく気づく。ぼくはこれから鏡子とエッチなゲームをしようとしているのだ。どうしよう。怒張してきた。いや、間違えた。緊張だった。きっとそうだ、そのはずなんだ。だから静まれ、我が息子よ!
「…………」
なぜだろうか。鏡子の視線が痛い。半ば呆れ気味の眼でこちらを射抜いてくる。そのおかげか、空気を読まないことに定評のある反抗期がちな愚息もようやく落ち着きを取り戻す。というより、萎縮して縮こまっているようだ。は! この臆病ものめッ!
「…………」
ダメだ。鏡子がますます呆れ顔になっている。ぼくは紳士的な態度でこの場を切り抜けようと試みる。
「あ、ああ。いやはは。少しおまた、あ、こほん、お待たせしてしまったようだ、ネ。さ、さてさて、ではこいつめをPCに挿入しようかしらね」
なんだこのうさんくささは。しかもあらぬところで噛んでしまっているじゃないか。
「…………」
鏡子はすっかり呆れきった面持ちでゲームの起動を待っている。ぼくは動揺をなんとか抑え、ディスクをセットしソフトを立ち上げてから鏡子にPCを明け渡した。鏡子は無言でPCに向かう。
――オープニング・ムービーが流れる。終わりを確信している。そんな歌を背景に、印象的で意味深長な台詞が現れては消えていく。
わずかに記憶が揺さぶられる。脳が軋む。見てはいけないものが、一瞬脳裏を過ぎった気がした。それはあまりに凄惨だった。けれど、醒めてすぐ消える夢のようにその印象だけが心にシミを残して過ぎ去っていった。ぼくは小さく、安堵の溜息をつく。――そんな心の動きすべてに堪らなく吐き気がした。
鏡子は無言でプレイを続ける。キャラクターたちの声を聴いていると、とても懐かしくなってくる。少し優しい気持ちになれる。彼らもまた、尊く魅力的な若者たちだった。鏡子も意外に熱中している。いつもの、本を読んでいるときの鏡子だ。入り込んでこちらを意に介さない。普段から無口な鏡子がますます無口になる。ぼくは文字を読むのが早い鏡子のペースに置いていかれそうになりながら、鏡子といっしょに黙々とゲームを楽しんだ。
いつから始めたものか、気がつけば窓に映る外界はすっかり暗く沈みきっていた。
あいかわらず雨は、獰猛な咀嚼音を響かせながら世界を喰らい尽くそうとしていた。
ゲームの進行状況は、ちょうど今しがたひとつのルートを終えたばかりだ。
鏡子が声を発する。
「すっかり遅くなってしまったようね」
「そうだね。楽しめたかい?」
「ええ。そうね。ずいぶん熱中してしまったわ――ね。かまちはお腹が空いていない?」
その言葉に応えるように、ぐきゅるる……とお腹が鳴る。鏡子は仄かに微笑む。その直後、鏡子のお腹からも同じく気の抜けたような音が鳴り響く。
「……しょ、食材はあるかしら? 少し早いかもしれないけれど、晩御飯をつくってあげるわ。今日はいっしょに食べましょ」
こういうときは、遠慮しないようにしている。元より鏡子の手料理はおいしい。願ってもない機会だ。ぼくは微笑みを浮かべながら首肯する。
「ありがとう。お願いするよ。食材は冷蔵庫にあるものを適当に使ってくれてかまわないよ」
「ええ。そうさせてもらうわ。少し、待っておいて」
「うん。いってらっしゃい」
鏡子は階下のキッチンへ降りていった。
十分ほどしてから、鏡子は二人分の器を載せたお盆を両手に戻ってきた。いい匂いだ。ますます食欲をそそられる。
「おかえり。早かったね」
「ええ。ご飯も炊いていなかったし、かまちがよっぽどお腹を空かせているみたいだったし、簡単なもので済ませたわよ」
言いながら、鏡子はテーブルにお盆を置く。そこには焼きそばとお茶が二人分載せられていた。焼きそばについては片方のお皿に山のように盛られている。
「おいしそう。ていうか、すごい大盛りだね。ぼくの分?」
「……あたりまえでしょ。わたしがこんなに食べると思って?」
微かに怒気を帯びたかのような声。それを稚気と解しながらも、やはり少したじろぐ。
「あ、ご、ごめん。そりゃそうか。でも、ありがとう」
「いいのよ。それより、早く食べましょ」
鏡子は薄く微笑みながらもそそくさと食卓の準備を済ませる。その最中に鏡子のお腹が一際大きく鳴っていたのには気づかないフリをしておいてあげた。
「では――」
「「いただきます」」
ふたりで唱和してからお箸を手に食し始める。
「お……」
一口。自然と感嘆が洩れる。調味料はオイスター・ソースにしょうゆ、塩コショウにしょうがといったところだろうか。他にもなにか一味入っているような気もするが、それがなにかはわからない。もしかして愛だろうか? ともかく、箸がどんどん進む。具材は豚肉、にんじん、もやし、キャベツ。豚肉はやわらかく、もやしはシャキシャキ、にんじんとキャベツも適度に火が通っている。そのうえ、わずかについた焦げ目が絶妙な香ばしさを演出している。
「おいしいね。よくウチの乏しい具材と調味料でこれだけのものをつくれるよ」
「慣れよ。料理は。頭にある引き出しからレシピを取り出して、そのとおりに手癖のままに調理しているだけよ。専門的な次元になればそれだけじゃないのかもしれないけれど。わたしのはその程度よ」
なんともドライな物言い。愛という名の調味料の存在など、あっさりと否定しそうな勢いだ。
「――ああ、そう。愛なんて胡乱な調味料は、わたしの料理には期待しないでね」
言いやがった! つい、口に含んだお茶を吹き出してしまう。
「もう……汚いわね」
しかし、鏡子はくすりと笑う。そしてハンカチで口元を拭ってくれる。顔が近い。思わずどきっとする。こんなときの鏡子は妙に色っぽい。ふたりきりのときや他の誰かに気取られない状況では、ときに鏡子も大胆になることがある。
「……ね」
鏡子は改まったように、ぼくの目を見つめて語りかける。
「あの紅い髪の子。少し由梨に似ているわね」
「……そうかもね」
「ええ。それに主人公の男の子はかまちに似ているわ」
これはよくわからない。ぼくはあんなに強くも誠実でもない。疑問系で返す。
「そうかな?」
「そうよ。護ってあげたくなるところが」
「ほわぁい?」
思わず素っ頓狂な英語が口を突いて出る。だって、それはない。少なくとも、そんな資格はぼくにはない。あるはずがない。
鏡子はそんなぼくの様子が気に喰わないのか、ことさら強い語調で言う。
「ともかく、そうなのよ。大丈夫。かまちはわたしが護ってあげるわ」
「いいよ。そんなの。それより由梨ちゃんを護ってあげて。そういう約束だろ?」
「……そう……だったわね」
鏡子は顔を伏せる。きっと苦悶に顔を曇らせているのだろう。雰囲気だけでなんとなくわかる。
世界に襲い掛かる獰猛な雨と、ぼくが焼きそばを啜る雑音だけが執拗に聴覚器中のリンパ液を揺らし続ける。もったりと、忘れようとしていた絶望が頭をもたげそうになる。
鏡子がようやく顔を上げ、言葉を発する。何処か間の抜けたようにも響く、いかにも繕いのために用意された言葉。
「由梨は……あの子は今頃どうしているかしらね」
ぼくはなんの気なしに答えてみせる。
「お家でゆっくりしてるんじゃない? この雨だし。由梨ちゃんはぼくらのなかじゃ唯一親子の仲がいいからね。そりゃまあ、片親だけれど」
「……そうね。それにしても、あの紅い髪の子が幼なじみね。ポジションが被っていて嫌だわ」
会話は流れる。するすると簡単に。元よりただ場を繕うためだけの
ぼくは鏡子の口から安易に洩れ出た心にもない愚痴をさらりと拾う。
「そっか。そういえばぼくらって幼なじみってやつだったね。一応」
「一応、ね。家に同棲までさせておいて」
「しょ、小学校の低学年同士じゃないか! その言葉は、に、似つかわしくないぞ」
鏡子はくすくすと笑う。
「冗談よ。動揺しちゃって、かわいいわ」
たんぼさんみたいなことを言う。
「ったく。タチの悪い冗談だよ」
それから鏡子は少し間を置いた。ふたりの間にやわらかい沈黙が漂う。かつてを、懐かしむように。
「――かまちはいつも他人を遠ざけようとしていたものね。わたしが戻ってきてからもずっと、忘れたフリなんかして」
「……あら、バレてたの?」
「あたりまえじゃないの。そのくらい、わたしじゃなくてもわかるわよ」
「いや、ほら、親父がアレなもんでさ」
へらへらと笑いながら弁解する。鏡子には父の言葉によるトラウマで友人をつくることが怖かったとだけ伝えている。どこまで見透かされているかは知らない。
鏡子は神妙な顔をする。
「かまちのお父さんは、今、どこでなにをしているの?」
「知んね。もう何年も見てねえし。いつもといっしょだよ。どーせ。研究室にでも篭もってるか、どこぞでフラついてるか、そんなとこだろ?」
「そう……なのかしらね……」
鏡子は訝しげな目を窓の外へ向ける。けれどそんな目をしても無駄だ。どーせぼくはなにも知らない。知らされていない。あの男のことについては、いつだってそうだった。
父の話はなんとなく鬱陶しいので、ぼくは話題を挿げ替えることにした。
「鏡子の方こそどうなのさ? アイツら、鏡子と入れ替わりでどっかに行ったっきり、まるで帰ってこないじゃないか。一体どうなっているの?」
べつに知らなくてもいいことだった。だから、今まで改まって訊くことはなかったし大して興味もなかった。鏡子にとって、彼らが居なくなったことは間違いなく良いことだった。少なくともぼくにとっては、それだけの事実で十分だった。だからはぐらかすならそれでいいし、嘘をついてくれてもよかった。
けれど鏡子はあまりにあっさりと真に迫った言葉を吐き出した。
「お金よ。お金を積んだの。彼ら、喜んで立ち退いていったわ」
「お金って……それ、けっこうな大金だよね?」
「ええ。そうよ」
鏡子は当然のことのように頷いた。けれど、そんな大金を一体どうやって用意したというのか。もちろん虚言の可能性もある。ぼくはそれ以上詮索することをやめた。
「――それより、ありがとう。おいしかったよ」
「そう。満足してもらえたようでうれしいわ。けれど、こちらも食材を頂いているからおあいこね」
「じゃあ」
「ええ」
「「ごちそうさま」」
ふたりで手を合わせ唱和する。それから鏡子は食器をお盆に載せて階下まで運んでいった。洗い物まで片付けてくれてから、鏡子は部屋に戻ってくる。
「――そうね。あのゲーム、借りていっていいかしら? かまちが持っているよりはいいでしょ?」
どういう意味だ? いや、コイツは一体どこまで知っている? にわかに動揺しながらも、ぼくはあくまで平然を装う。
「そうだね。ぼくは当分やんないと思うし、鏡子にも楽しんでもらった方がたんぼさんも喜ぶと思うよ」
鏡子はやはり微笑みを繕って応える。
「そうね。きっと。じゃ、これは借りていくわ。さっきのデータが引き継げないのは残念だけれど――ああ、それと忘れていたわ。かまちに借りていたCDを返そうと思って今日は持ってきていたの」
「え。なにか貸していたっけ?」
「もう。これよ。すてきなアルバムだったわ」
「あ、うん」
――ああ、これだったか。ぼくは鏡子からそれを受け取った。
それから鏡子は
鏡子が去ってからどれほどが経過しただろう。
机の上を眺める。
鏡子から返してもらったCDが載っている。
フィッシュマンズ――。
たんぼさんが大好きなバンドだった。
ふたりきりの夜には、フィッシュマンズ・ナイトと称して延々と聴いていたこともあった。
そんな壊れもののようなひとときによく溶け込む、繊細な音楽だった。
ぼくはなんとなく、CDをセットしてから照明を消した。暗がりの向こうには、たんぼさんが居てくれているような気がした。
音楽が流れる。
ゆったりとしたダブ・サウンドへ、ガラス細工のように儚く澄んだ声が乗る。
それは心をヒリヒリとくすぐりながらも、穏やかに包み込む。
どうしてこんなに優しい歌が歌えるのだろう。
ほんとうの優しさ。
そんな蜃気楼のように虚ろな概念に憧れて、ぼくはいつからかその想いをギターへ託すようになった。せめて歌のなかでだけは人間でありたい。そう思っていた。
いつだったか。由梨ちゃんが初めてフィッシュマンズを耳にしたとき、ぼくみたいで安心すると言った。べつにマネをしたつもりはないが、彼に声が似ていると言われたこともあった。けれど、どうしても彼ほどに優しい歌を歌うことはできなかった。
いつだって言葉ばかりはもっともで。けれどそれが嘘だとわかりきっていたから? だってぼくは、どうしようもない性悪の悪魔だから。性癖のことだけじゃない。ぼくのすべては、いつからか歪みきっていたから。
涙が流れる。
都合のいいことだ。
漠然と、詮のない思考が頭を過ぎる。
どうして、音楽は飽きないのだろう。
壊せないから?
確か、いつだったかたんぼさんがそう推論してくれた。
それがきっと悪魔の呪いの本質と密接に関わっているのだとも。
たんぼさんはぼくの性癖を不条理な呪いと考え、そこにぼくの罪はないと言った。
だがそれも、今となっては実際どうでもいい。呪いだろうがなんだろうが、ぼくは自ら道を踏み外した。その事実はあまりにも堅固だ。
ただ、ぼくは切に願う。
――人も、壊せないものならよかったのに、と。
気がつけば、アルバムは二曲目の終盤まで差し掛かっていた。
自らをイカれていると認めた、けれどほんとうにすてきだったたんぼさんを思い出させる名曲。
ぼくはリモコンで曲頭まで巻き戻して、優しい音楽に身を任せた。ゆったりと、水槽に漬かるように。
そしてアルバムを聴きとおす間、ぼくはぼんやりとたんぼさんのことを思い出し、ただただやわらかい涙を流した。
今になってようやく気づく。
哀しいときに浮かぶのは
哀しいときに笑うのは
哀しい夜にそばに居て欲しいのは
いつでも彼女だった。
彼女はぼくにとっての見えない力だった。たんぼさんはいつもそうやってぼくを支えてくれていた。思い出になってしまった今も、きっと。
ぼくにとって由梨ちゃんが護るべき大切ななにかなら、たんぼさんは最も必要な誰かだった。つまり、たんぼさんはぼくにとってまさしくそういう人だった。
ようやく気がついた事実に、透明な涙は溢れて止まらなかった。そして降りしきる雨はいつしか柔和さを帯びて弱まり、ただただ世界をたおやかに包み込んでいた。
たんぼさんの仕草や微笑みを思わせる、そんな優しい雨だった。
――こうして、ぼくはたんぼさんのことをただただ良い思い出として片付けた。ほんとうに丁寧に、慎重に。傷ひとつつけないように。
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