track 7



 ずっと光に憧れていた。

 自らの人間性への希望めいたものに。


 ――母はいつからか居なかった。

 ぼくを実質的に育てたのは、顔も名前もない自動人形みたいな保母だった。

 なんの人間性も放たない無機質な挙動と、シルバーで塗りつぶした不気味な仮面に、幼いぼくは異常なほどの恐怖を覚えた。だから、早くこの化け物から逃れたい。そう思うばかりだった。そうして小学校に上がる頃から、ぼくは鉄仮面の保母の手を離れ、ほとんどひとりで暮らすようになった。

 

 父の姿は幼い頃からめったに見なかった。

 顔などまるで見た記憶がない。父はぼくの顔を決して見ようとしなかった。

 けれど父はいつもあたらしい玩具を大量に買っては部屋に置いておいてくれた。

 玩具はすぐに飽きた。ぼくはどうしようもないくらいに飽きっぽかった。

 大切なものも、あるときを境に一瞬でゴミになった。そんな経験を数え切れないくらいに重ねた。

 たまたま父が手渡してくれたものなど、特別な想い入れのあるものも関係はなかった。飽きればすぐゴミになる。それに変わりはなかった。

 ゴミとなった玩具は物置部屋に乱雑に積み重ねられていった。

 父はそんなぼくを見るうち、次第に冷たい言葉を吐き棄てるようになった。

 ――おまえは絶対に友だちをつくるな。その資格はない。このゴミの山を見ればわかるだろう。

 などと。我が子にそんな言葉を吐くときの父はいったいどんな顔をしていたのだろうか。少し知りたい気もする。今となってはなんの感情も湧かない実の父親だけれど。

 

 それからまもなく、ぼくは玩具を壊し始めた。

 不注意からではない。単なる悪ふざけでもない。

 性癖の芽生えだった。

 それは周期的に訪れた。

 性癖の発現が訪れるたびに、無性になにかを壊したくなった。壊したくて壊したくて堪らなくなった。

 そんなときにゴミとなった玩具を見ると、まるで歯止めは利かなくなった。

 ぼくは物置部屋のゴミ山も、すべて切り刻んだ。超常的な力が湧いてきて、積み木だろうが合金だろうが手も触れずに八つ裂きに出来た。その間中ずっと、ぼくは恍惚とした全能感に酔いしれた。けれど、そのあとは全身の虚脱感とともにとてつもなく大きな哀しみに襲われた。無残な破片と化したゴミを想ってのことではない。自らの酷薄な人間性を思ってのことだった。

 

 そんなぼくの変化に、父はますます重たい言葉を吐いた。

 おまえはいずれ人を殺す、と。

 ああ、そうだろうな。ぼくもなんとなくそう思った。

 だからぼくは友だちをつくらなかった。人と関わることを、なるべく避け続けた。

 どうせすべては移ろい、飽き果てていってしまうのだ。玩具だろうが。人間だろうが。

 どうせ棄てるのならば。初めから関わらなければいい。友情ごっこなど白々しい。

 ぼくはきっと人ではない、もっと悪質ななにかなのだ。

 ――ずっとそう思っていた。ニンゲンというものに身勝手にも憧れながら。

 


 小学校でも、学園の中等部でも、ぼくはずっとひとりだった。極力誰とも言葉を交わさず、必要最低限の業務的なコミュニケーションだけに終始した。それもなるべく感情を殺して、余計な愛着など間違っても持たぬように。もともと感情が希薄で、とりわけ他者への共感性が欠けていたぼくにとって、それはさほど難しいことではなかった。


 けれど、高等部に上がるとしつこくちょっかいを掛けてくる先輩が現れた。

 

 それが山下たんぼとの馴れ初めだった。

 たんぼさんは、たまたま委員会で一緒になったぼくにやたらと話しかけてきた。

 たんぼさんの名前は中等部の頃からよく聞いていた。学園一の有名人だったからだ。学力は常に学年トップで運動神経も抜群、表向きは品行方正で容姿も端麗。たんぼさんはまさしく絵に描いたようなだった。

 だから、そんなたんぼさんがぼくのような胡乱な人物になぜそうまで関わりたがるのか初めはまるでわからなかった。

 

 ぼくのつれない態度に痺れを切らしたのか、たんぼさんはやがて強硬手段に打って出た。

 

 休みの日、県外までCDでも漁りに行こうとぼくが電車に乗っていると、たんぼさんは明らかに偶然を装ってぼくと同じ車両に乗り込んできた。ストーカーかよ。そう思いつつ、ぼくは当然気づかぬフリをした。

 

 たんぼさんは何処まで行ってもついてきた。

 

 実にストーカーだった。今思えばほんとうに洒落にならない。けれど、そのときはぼくに意地でもついて回るたんぼさんの悪戯っぽい笑顔がなんとなくうれしくて、悪い気はしなかった。たぶん、人からそんな風にじゃれられることは初めてだったから、ぼくもまたそれを楽しんでいたのだろう。自分でもそうと認めないうちに。

 

 ぼくは最終的に彼女のストーキングを黙認し、勝手にデート気分を味あわせてあげた。何店舗か回ったレコード屋では、彼女もまた好き勝手にCDを漁っていた。

 ちょっとした好奇心に負けてちらちらとそちらを盗み見ると、なるほどなかなかいい趣味をしていた。ぼくに目をつけたのも決して的外れではなかったのだと気づいた。ぼくのなかでも、次第に彼女への好意は膨らみつつあった。けれど、ぼくはそれを無視した。むしろこれ以上関わってはいけないと、改めて心の防衛線を引きなおした。


 彼女は帰り際、あろうことかぼくに告白をしてきた。

 ――かまちくん。好きよ。私と付き合ってくれないかしら?

 どこまでデート気分なんだ。びっくりした。

 当然断った。にべもなく断った。

 けれど、その後もたんぼさんは学校でぼくを見るたびにちょっかいを掛けてきた。ほんとうに、この頃からずっと懲りない先輩だった。

 


 そんなことがあった。

 だから、グループをつくるときはほんとうに気が引けた。

 自分がつれなく振った異性を、べつの異性のためのグループに招き入れようというのだから。実際かなり外道な企みと言えた。

 

 けれどたんぼさんはそんな下衆なオファーを快く受け入れてくれた。


 それどころか、たんぼさん自身、ほんとうに由梨ちゃんを大切にしてくれた。鏡子のことも、ずいぶん気に掛けてくれた。それでいて、やはりぼくのことも深く愛してくれた。

 

 思えば彼女自身、ぼくと恋人同士になることよりもなによりもまず、ただ人として深く交わり合うことを望んでいたのだろう――たんぼさんもまた、人間性というものへ倒錯じみた執着を抱いていた。だから、自分のなかの光の芽を育ててくれる誰かを切実に求めていたのだ。

 

 彼女と、こんなやり取りをしたことがあった。

 

 ぼくはときどきそうするように、深夜の館で四肢を投げ打って床板に転がっていた。いつもの、性癖の発現のすぐ後のことだった。ひんやりとした床板は火照った身体に心地よく、ぼくは哀しい気持ちでステレオから流れる音楽を聴いていた。この頃はまだ未来にも少ない希望を持っていた。だからヤケクソにはなっていなかった。

 

 そこに、たんぼさんはしめやかに現れた。


「どうしたの……? すごい涙……」

「……たんぼさんこそ、どうしたのさ。こんな時間に」

「……ごめん。ちょっと、ね」

「ちょっと、ね。じゃないよ。そんな顔して」

「あら? そんな酷い顔をしているかしら?」

「うん。言わなきゃ言わない」

 彼女はぶわっと涙を浮かべて、けれどあくまで上品に笑った。

「もうっ。ばかよっ、あなた。やっぱり……あなたは優しいのね」

 ぼくはびっくりした。そんなはずあるか。少なくとも、今ここのぼくは最低だ。そう思った。

 彼女は少し冗談っぽく微笑んでおどけて見せた。

「……こんな時間にふたりきりなんてね。由梨が知るとどう思うかしら」

「……由梨ちゃんは、きっとまだ恋を知らないよ。ぼくとおなじで」

 彼女は意外そうに言う。

「あら、そう? あの子は気づいていないだけよ、まだ。さ~て、あなたはどうかしらね?」

 考えたことはなかった。けれど、どちらでもよかった。

「……たんぼさんは、こんなときまでれるんだね。きらいじゃないけど、そういうのさ。でも、それならぼくもはぐらかすよ。いいの?」

「あら、ごめん。あなたの優しさが、うれしかったから。つい、ね……」

 彼女はステレオから流れるぐにゃぐにゃでツギハギの音楽に耳を傾けてから、か細くつぶやく。

「灯かりが嫌いなの……今でも」

「そうか……たぶんぼくもおなじだ」

「でしょうね。だから私は逃げてきたの。きれいでいびつな灯かりから。まさかこんな時間にあなたが居るとは思わなかったけれど。この時間は、迷惑?」

 ぼくは少しだけ考えてから答えた。

「いや、いいよ。べつに。ここは自由に使えばいい。そのためにみんなに鍵を渡したんだから」

「ありがとう。うれしいわ。だって。ここには、光があると思うから」

「……由梨ちゃんか。あの仔はいい。ほんとうに、尊い」

「そうね。由梨はいつも光を見せてくれる。でもあの子だけじゃないわ」

「鏡子のこと? アイツは孤高で、儚い。いっしょに大切にしてやってほしい」

 彼女は呆れたように薄く笑う。

「ほんと、ばかね。あなたもよ」

 ぼくは身の回りの凄惨な光景を一瞥する。ただの狂人だろ。コレ。そもそも人かどうか。

 ぼくは乾いた笑いを浮かべてしまいながら応えた。

「で、それが回答? 納得できないな。なんだか抽象的で、煙に撒かれているみたいだ」

「そうね。そのつもりだったもの。あなた、意外に鋭いのね」

 彼女はまたおどけてみせた。

 つい、ため息が出る。

「……ほんと、ブレないね。で?」

「あら、あなた。しつこいのはレディーに嫌われるわよ。知らなくて?」

「ああ、いいよ。べつにアンタになら」

 こちらも合わせてみた。

 彼女は大仰にうろたえてみせた。冗談だとわかっているくせに。でもそれは心地の良い感触だった。ほんとうに、いつだってぼくらを楽しくさせてくれる先輩だった。

 彼女はしばし間を置いてから続ける。

「そうよ。抽象的だわ。でも、ほんとうにそれがすべてなの。私の家はね、知っていると思うけれどそれなりにご立派なお家柄なの」

「ああ、知っているよ。同じ金持ちでもウチとは偉い違いだ」

「でもね。どこまでもくだらないの。生ぬるくて気持ち悪いの。善良ぶって鈍感に立ち振る舞う彼らの、すべてがイヤで堪らないわ。私は人間性の尊さなんて、なにひとつ理解できずに生きてきたわ」

「きっと、たんぼさんは頭が良すぎるんだよ。だから、虚しいからくりをすぐに暴いてしまう。ギフト、だっけ? 幼い頃から人並み外れた知能を持つとかっていう。たんぼさんって、確かそういう人種だったよね」

「そうよ。心の未熟な私には宝の持ち腐れだけれど。でも、言葉っておもしろいわね。『ギフト』って、ドイツ語では毒という意味を持つらしいのよ」

「そうだね。確かに、行き過ぎた理解は毒になることもある。この世界で生きていくにあたっては。欺瞞無しに、人は生きられないから。でも……それを言うなら……由梨ちゃんだって鏡子だって、厳しい目で見ればいくらでもボロは掘れるよ。ほんとうにきれいなものなど、この世界にはありえないのだから」

「そうよ。それがわかっているから。私は灯かりが堪らなく嫌いなの。そのなかで暮らす善人もね。灯かりを盲目的に信じることの傲慢な純真さというものが、ほんとうに耐えられないの。それなら、いっそ汚いものの方がマシだわ。潔くて」

 ぼくは周囲の無残なゴミクズを一瞥しながら言う。

「ああ、そうか。だからぼくのことも気に掛けてくれるのか。こんなにも汚れているから」

 彼女は哀しそうな瞳で笑った。

「ばかね。あなたは。でも……そんなだから、私はあなたに魅かれたのかもね」

 彼女はすっと、ぼくの髪を撫でる。おっとりと、屈折した自己愛を敢えて滲ませたようなやわらかい手つき。

「あなたのこと。中等部の頃から、ずっと気になっていたのよ」

「え……?」

「あなたはいつもひとりで、闘っているように見えたから。私はね。汚れてしまって、荒れてしまって、それでも光ろうとしている、そういうものが好きなの。どんな宝石よりも」

「……イカれた趣味だ。それじゃあ、不幸なヤツが好きってことじゃないか」

「ちょっと、違うわね。けれど、イカれているのは認めるわ。けっきょく、自分と似たところのある人にしか、自分で自分を打ちのめしてしまう人にしか、好感を持てないのかしらね。ほんと、狂っているわ」

「……それでも、たんぼさんは光を信じてみたいと思った。だから、ぼくらを大切にしてくれているんだろう?」

「そうよ。自分のために。少しでも、マシな自分に近づくためにね。だから私には交わるための誰かが必要だったの。それがたとえ欺瞞に塗れていても――すべてを疎んじているだけだなんて、絶対に間違っているもの。そんな人生は哀しい徒労よ」

 ぼくは複雑な気持ちで、嘆息とともに告げた。

「……そっか。たんぼさんも、ニンゲンに憧れているんだね」

 彼女は淑やかな眼差しをぼくに注ぎながら頷く。

「……ええ。そうね」

「でもね。やっぱりぼくとたんぼさんは決定的に違うよ。致命的と言ってもいいくらいに」

 彼女は沈黙し、ただ哀しそうな瞳でぼくを見つめる。

「あのさ、俺。そもそも人間じゃねえんだわ――」

 

 それから、ぼくは彼女に自らの性癖のことを告げた。

 彼女は黙って耳を傾けてくれていた。

 気がつくと、ぼくは彼女に縋りついて激しく泣きじゃくっていた。

 移ろってしまうことが怖いと、由梨ちゃんを裏切りたくないと、未来がどうしようもなく怖いと、どこまでも遠くへ懇願するように泣き喚いた。

 彼女はただ、優しくぼくの身を包んでくれた。

 彼女自身、自演への虚無を確かに抱えながら。

 けれど少なくともぼくには、それが欺瞞だろうがなんだろうが、灯かりだろうがなんだろうが、そんなことはどうでもよく思えた。

 それはただただ、暖かかったから。

 ――ああ、これがきっと彼女の光なんだろうな。そんな逆説めいた確信を、ぼくはぼんやりと頭に浮かべていた。


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