track 6



「…………」

 

 背中に触れる床板が、硬く、冷たい。

 身体を包む衣服は水をだくだくに吸って皮膚に纏わりついている。まるで、暗い水底にいるような気分だ。外界も、内界も、すべてが水に覆われ、浸食されていく。そうして心身にかかる水圧は日に日に増していく。ぼくはいったい、あとどれくらい耐えることができるだろうか。「聖域」と思えた居場所にすら、初めから致命的な綻びがあった。シェルターの中にも、水は容赦なく攻め寄せてくる。どうすればいい? もう、息継ぎをすることすら、ままならなくなっていく。

 

 かつて見たロック・バンドのプロモーション・ビデオを思い出す。

 画面中央には、男の顔がアップで映っている。

 その男の顔をめがけて、水かさはじわじわと増していく。

 やがて、水は男の顔を完全に埋め尽くし、男は必死で息を止め続ける。

 ――そんな映像をバックに流れるのは、ただひたすら心の平穏を願う若者の、気だるくもうつくしい楽曲だった。

 

 今のぼくの背後にも、何かうつくしい音楽が流れているのだろうか。こんなぼくの姿さえも、どこか遠くから見たならば、それなりに尊いもののようにも見えるのだろうか。

 ……ふと、そんなふざけた考えが浮かんでしまった。

 それはただの願望だ。

 あまりにもナルシスティックな、唾棄すべき願望に過ぎない。


 つまらぬ物思いから立ち返り、現実へ意識を向け直す。


 ぼくは今、いつもの館にいる。

 そのロビーの片隅で四肢を投げ打って倒れている。

 事後の反動で全身が虚脱しきって気だるい。

 ほんとうに、今夜は執拗なまでに行為に及んでしまった。もう、すべてがどうでもよく思えてきそうだ。

 ザーザーと鳴り続ける響音に混じって、呪術的な印象を帯びた古いロック・ミュージックが流れている。フー! フー! じゃねーよ。とは思うが、そのヤケクソな感じが今の気分にはちょうどいい。

 

 と、館の重い扉がゆっくり開かれる。

 

 ぼくは億劫で、そちらを見ない。どうせこんな時間に来るのが誰かぐらいはわかっている。

 闖入者はなにかを労わるようなやわらかい靴音を響かせながら、静かに近づいてくる。やがて神妙な声がそっと洩れる。

「Sympathy for the Devil……悪魔を憐れむ歌……ね」

「……悪魔とつるもう、か」

 ぼくは誰にともなく呟く。

「ああ。そうね。昔の邦題はいい加減よね」

 そんなことはどうでもいい。

「……どうだい? 悪魔とつるむ気分は? はは……あっはは……は」

 いびつな薄笑いがごく自然に洩れる。

「もう……ばかよ。あなたは。ほんと……ばかっ」

 静かにしゃがみ込んで、ぼくの髪に触れながら言う。こんなときの彼女はいつにもまして優しい。本来は知的で、高潔な女性なのだと思い出す。

「見ろよ、これ。またやっちまった」

 どうしても、吐き棄てるような、横柄な口調になってしまう。彼女はゆったりとした声音でそれを包み込む。

「……そうね」

「由梨ちゃんがこんな俺を知ったら、どう思うだろうな。今日だってあんなに泣き喚いていたのに」

 ぼくの周囲には粉微塵になるまで切り刻まれた木屑が散乱している。石油ランプのうっすらとした灯かりがそれを艶めかしく照らし出している。

 今夜のパーティーでぼくが奏でたアコースティック・ギターの虚しい成れの果てだった。

「きっとさ。由梨ちゃんは、このギターを大切に想っていたんだ。今夜の思い出を紡ぐのにも一役買ったギターだったし」

「……そのギター、むしろ大切にしていたのはあなたの方だったと思うけれど……よっぽど辛いのね。今のあなた」

「なんのことだかわからないね。どうせゴミはゴミだ」

「……そう。ともかく飽きてしまったのね」

「そうだよ。飽きたオモチャを見ると切り刻んでやりたくなるだろ? 壊れるサマを見たくなるだろ? まあどーせアンタにはわからねえだろうがよ」

「……そうね。わからないわ。けれど仕方ないわ。そういう性癖なのだから」

 言いながら、ぼくの頭をしとやかに撫でつける。

「は! それで人を切り刻んでも、大切だった人を切り刻んでも、同じことが言えるのかよ?」

 子どもみたいなことを言っている。きっと口元には幼くも醜い笑いが浮かんでいるだろう。考えたくもない。

 ぼくはさらに調子に乗って続ける。

「由梨ちゃんが! 切り刻まれても! アンタはそんなことが言えんのかよ!」

 どうしてだろう。どうしてぼくはこんなにも泣いているんだろう。涙が物凄い勢いで頬を伝っていく。身勝手な感情か。

「ばかね……あなた……ほんとばかよ」

 涙に掠れた声。彼女はぼくの頭を抱きかかえ、その膝に預けさせて言う。

「私は……許してしまうと思うわ。あなたのことを」

「おい!! アンタは! 由梨ちゃんのことが大切じゃないのか!!」

 なぜぼくが怒っているんだろう。ほんとうに感情は身勝手だ。

「……あなたのことを愛しているもの」

 彼女は仄かに色気を帯びた声で言う。ぼくの髪をしっとりとした手つきで撫でつけながら。

「……アンタもやっぱり相当狂ってるよ」

「そうね。そうよ。けれどね、かまち。人とモノは違うわ。それにあなたがいずれ由梨に飽きたとしても――」

「気休めだ! 人を想う気持ちも、モノを想う気持ちも根源的には変わらない。いずれは飽きる! ニンゲンの才能がない俺ならなおさらだ! そしていざ周期が訪れれば歯止めは利かなくなる。道徳観念など意味を成すものか」

「そうかもね。なら逃げればいいじゃない。由梨を置いて。飽きてからでもいい。周期が来るまでは耐えられるのでしょう? それから永遠に姿を消せばいいのよ」

「わかってる。わかってる。きっとそれで大丈夫なはずなんだ! それで最悪のはずなんだ!!」

 ぼくは凄惨に泣き喚いた。ちょうど先刻の由梨ちゃんのように。

「…………」

 ぼくが落ち着くのを待ってから、たんぼさんは沈黙とともに優しく頷いた。そしてひんやりとした手でぼくの頬を挟む。そうやって、それとなく続きを促してくれる。

「でもおかしいんだ……ぼくは結末がもっと酷いなにかであることを、知っている気がするんだ。なぜかそんなどうしようもない確信だけがあって……もしかすると、ぼくはいつのまにか未来から戻ってきたんじゃないかって。しかもそれを忘れている。だから……最悪以上に最悪ななにかを変えることが出来ない」

「タイムリープね……ありえないわ」

「だって……しょっちゅうなんだ。デジャヴが。それにヘンな夢を見る。夢の中で……ぼくはすでにみんなに飽き果てている。名前すら覚えちゃいない――いや、それは少し違う。その響きに、なんの感慨も湧かないんだ。すべてが、まるでなんの意味もない数字や記号みたいに思える。名前だけじゃない、みんなとの想い出も、あんなに親しみを感じていたはずの顔も仕草も。それなのに、ぼくは笑っているんだ。雨上がりの空の下で、まるで過去と未来、ふたつの自分が混在しているみたいに」

「雨上がりの空……ね。あなたは……この雨が由梨のものだと思っているの?」

 なんだかよくわからないことを言う。けれどその声はどこまでも神妙に響いた。

「……確かに、そうとも言えるのかもね。ぼくが由梨ちゃんから離れるとき、少なくとも心の中で雨は止む。大切なものさえなければ、悪魔に悩みなど芽生えるはずもない」

「あなたは悪魔じゃない。人間よ」

 たんぼさんはきっぱりと言う。

 ぼくは薄く笑いながら首を横に振る。きっとぼくは今この人に甘えているのだろう。それを認識しながらも、やさぐれた言葉はだらしなく洩れ続ける。

「ああ。悪魔って概念は人間世界の淀みの象徴みたいなものだからね。そういう意味ではぼくもニンゲン様か。でも笑えるね。ぼくは由梨ちゃんを奪い去ろうとする狂った世界を憎んだ。けれどマトモに考えてもみれば、ぼく自身が狂った世界の象徴みたいなものだったんじゃないか。悪魔が天使と戯れようなんてどうかしていたよね。そのうえ乙女心まで玩んでさ。初めからこうするべきじゃなかったんだ。ぼくはきっと……由梨ちゃんを大切にしてみせることで、ニンゲン様の気分を味わいたかっただけなんだ……けっきょくかわいいのは自分だった」

 たんぼさんはほんとうに哀しそうな瞳でぼくを見つめて言う。

「……あなたは、もう少し自分を大切にしたほうがいいわ。だから自分のこともきちんと理解できないのよ。いい? かまち。確かにあなたは他人より移ろいやすいわ。危うい性癖も持っている。けれどね……それがすべてではないの。だから、変わってしまうことを恐れてはだめよ。受け入れてあげて。哀しい結末も。あまり自分を追い詰めすぎないで。鏡子が苦しんでいるのはわかっているでしょ?――ね。かまち。そうすれば、きっとあなたの雨も鳴り止むはずよ」

 たんぼさんは子を諭すように、優しくも厳格な調子で言った。

 

 それからたんぼさんはぼくの頭を丁寧に床板へ預けなおしてから、さっそうと立ち上がり歩き出した。ぼくもまた反射的に起き上がり、彼女を見送ろうとした。

 と――

「…………」

 たんぼさんは唐突に振り返り、ぼくの唇を奪った。

 吸い付くような、大人のキス。

 そして悪戯な微笑みとともに囁く。

「由梨には内緒よ……」

 どきっとするような、甘い声。

「え……」

 どうしても思考が追いつかない。

「私にここまでさせるなんてね~っ。きゃあ。もう! や~っぱりかまちは甘えんぼだわ。か~わいい!」

 扉を閉める際、たんぼさんはこちらを見つめてケラケラと笑いながら言った。すっかりいつもの、いやいつも以上にふざけたたんぼさんだった。

「……なんだったんだ。まったく、自分でやっておいてからに……」

 けれどうれしかった。ぼくもまたたんぼさんのことが好きだったから。

 状況が許すなら、ぼくは由梨ちゃんとたんぼさん、それに鏡子も、誰と結婚してもいいというくらいにみんなのことが大好きだった。それが友情か恋情かはぼくにはわからなかったけれど。でも人と深く関わることを避けてきたぼくには、その区別はどうでもいいことだった。みんなのことが大好きで大切だ。それだけがぼくにとって重要な事柄だった。ずっと護っていたいと切に願う、いずれ移ろう感情だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る