track 5


「それにしても。由梨、すっかり目が腫れ上がっているわね」

 たんぼさんが、包み込むような調子で穏やかに言う。子を見守る母のような、そんなぬくもりのある声音。

「うん……ごめんね……あたし、今日は泣いてばっかりで」

 なにを謝ることがあるのだろうか。きっとみんなもそう思っているだろう。

 鏡子が言う。

「由梨。わたしたちはみんな、あなたに感謝しているわ」

「うん。だから、謝らなくていい」

 今日だって、ぼくらの世界は彼女の光に照らされてうつくしく瞬いていた。この狂った世界に渦巻くあらゆる淀みは、彼女の存在によって浄化されていた。確かにそんな瞬間がいくつもあった。もちろん、それには大した意味なんてないと思う。こんな小さな世界。そのなかでのほんの刹那の祝祭なんて。けれど、ぼくらが由梨ちゃんを尊く想う気持ちに変わりはなかった。

「もう。みんなやさしすぎだよ。……ありがと」

 由梨ちゃんはいっしゅん躊躇してから、ぽそりと謝意を告げた。優しい言葉を望みながらも、それをなかなかまっすぐに受けとめることができない。根っ子のところで自分に優しくしてあげられない。そんな彼女の精一杯の肯定だった。

 

 降りしきる雨が、確かにまだザーザーと世界を水の中に突き落としていた。

 ぼくらはその中を泳ぐようになど歩けない。

 地を這い、醜くずぶ濡れになりながら、けれど人目を気にして。何食わぬ顔で歩いていかなければならない。土砂降りの痛みのなかを、傘も差さずに。

 逃げてきた? 目を背けてきた?

 違う。由梨ちゃんはそう言ったけれど。

 ぼくはぜったいに違うと想う。

 由梨ちゃんはいつだってこの雨と闘ってきた。ただ、力が足りなかっただけだ。

 その思考もまた、ぼくらの自己欺瞞なのかもしれないのだけれど。

 わかっている。世界のすべてが、堪らなく哀しいことぐらい。きっと誰もが知っていることだ。だからこの雨は鳴り止まないのだろう。

 ぼくらはどんよりと暗い田舎道を歩いていく。

 冷厳な秋の夜気が立ち込めて、仄荒んだ風が濡れた身をつんざいては去っていく。

 時おり、ドブ川からどぼどぼと溢れる水にぼくらは足を獲られそうになる。

 けれどぼくらは笑っていられる。この四人でいる間は。

 そんな感慨に浸りながら、たんぼさんや由梨ちゃんの会話を聞いていた。

 突然、由梨ちゃんは泣き崩れてしまった。

 わあああっと、泣き喚いている。どうしたんだ。尋常じゃない。

 ぼくらはすぐに詰め寄る。

「由梨ちゃん……」

「ゆ、由梨……?」

「…………」

 鏡子だけは、無言で目を伏せていた。

「ごめんね。ごめんね。ほんとにごめんね。でもわからなくて。わからなくって!!!」

「由梨ちゃん……? なにがわからないの?」

「この幸せが! いつまでここにあるのか!!」

 ――ああ。それね。知ってるよ。もうすぐ終わる。

 由梨ちゃんはまたわあわあと悲鳴のように泣き喚く。

「由梨……」

 たんぼさんは、すっと由梨の身体を抱きすくめる。

「ごめんね。ほんとにごめんね。みんながこうしてくれているのに。でもね……ごめんね。ごめんね、あたしはやっぱり……最低だ!!」

 もう支離滅裂だ。けれど、言いたいことはわかる。ぼくにはどうしようもなくわかってしまう。

「…………」

 安い否定にはなんの意味もない。ぼくらはそれを知っている。しばしの沈黙のあと、たんぼさんはただ静かに由梨ちゃんの頭へ手を添える。すべてを、吐き出してしまっていいのだ、と。

 由梨ちゃんはそれに甘える。ぼくはそれを決して卑怯だとは思わない。

「どうして! どうしてなんだ! あたしは怖い! 怖くて怖くてたまらない!! 人はどうして変ってしまうんだ!!」

 思えば、由梨ちゃん自身もこの一年と少しでずいぶん変わった。初めの頃は小さな妹のようにぼくと接していた由梨ちゃんも、学年が変わった頃ぐらいからかぼくを異性として意識するようになった。そして大人に憧れるようになった。ぼくとの接し方も、ついつい暴力じみた小芝居に頼りがちになった。由梨ちゃん自身、自分の変化に戸惑っているのだ。そして、同時にそれは冷たい事実を彼女にフラッシュ・バックさせる――人はどうしようもなく、変わってしまう生き物なのだと。

「あたしの友だちは! あたしの友だちは! みんな変わってしまった!! しのちゃんも! あいちゃんも! むかしはあんな子じゃなかった! あんな風に、誰かをバカにしながら! イヤらしく笑う子じゃなかった!! なんで! なんで!」

「わかってる! 逃げてるだけのあたしもおなじだって! それでのうのうと居場所をもらって!! 良い子ちゃんぶって!! あたしは最低だ!!」

 嗚咽に激しく震える由梨ちゃんの背中を、たんぼさんはきゅうっと締め付ける。

「ううん……ごめんね。こんなのはただの嘘。ポーズ。あたしはこの場所が好き。ほんとうに好き……失いたくない……失いたくないよ」

 弱々しく呟いた言葉は、ザーザーと鳴り響く雨音に虚しく呑み込まれていった。

 由梨ちゃんは、しばらくたんぼさんの胸の中で泣き続けた。

 鏡子は、涙すら出ないほど死んだ目でぼくをちらりと見つめ、それからずっと固まったように動かなかった。

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