track 3
由梨ちゃんはいつもひとりだった。
寂しそうに、いつもひとりでぽそぽそとお弁当を食べていた。母の愛情が篭もっているのであろう、彩り豊かで可愛らしい盛り付けが、反ってその痛々しさを否応なく引き立てていた。
由梨ちゃんはいつも屋上に居た。天国が、一番近い場所だ。
中等部校舎の屋上では周りの目が怖かったのだろう。由梨ちゃんは渡り廊下を渡って、特殊教室用の校舎まで来ていた。人を避けて、流れ弾や地雷を避けてようやくその場所に辿りついたのだ。――そこにはすでに、ひとりだけ先客が居たわけだけれど。
ぼくもまた、ひとりだった。
友人をつくることが白々しくて、自らひとりを選び続けた。
ぼくは自らの特殊な性癖を恐れていた。それゆえ父の冷めた言葉に支配されていた。
ぼくらはいつもひとりだった。
けれど、言葉を交わすことはしなかった。ただ互いが互いをそれとなく気に掛けていた。おなじくひとりぼっちの誰かとして。
そんな微妙な関係性が急変したのは夏休みも近い、ある暑い日のことだった。
ぼくはいつもよくするように、授業をフケて屋上の日陰でギターを爪弾いていた。よく手入れした爪で、やわらかな音を紡ぐことに殊更執心していた時期だった。せめて音楽の上でだけでも、人間らしく、優しくありたいと思っていたのだ。
気がつくと、由梨ちゃんがすぐ近くに腰掛けていた。
ぼくは思わず飛び上がり、「…………ほぇっ!」と間抜けな声を発してしまった。その姿を見て、由梨ちゃんはころころと幼子のように笑った。それが初めて見た、由梨ちゃんの笑顔だった。
由梨ちゃんはひとしきり笑うと、一瞬で寂しそうな顔に戻った。
それから、由梨ちゃんはぼくへの初めての言葉を発する。
「……ねぇ、お兄ちゃん。もうやめちゃうの?」
懇願するような、掠れきった声だった。幼い声には痛々し過ぎるくらいに、深いノイズが刻まれた音。世界は汚すぎる。無責任にも、そんな言葉を頭に思い浮かべた。
ぼくは静かにギターを爪弾き始めた。どうにか、目の前の世界だけでも暖かくきれいな世界に変えることができたなら。そんな白々しい夢を、初めて本気で思い描きながら。
由梨ちゃんはぼくの弾くギターに聴き入り、やがてぽろぽろと涙を流し始めた。小さなその肩は、嗚咽に堪えて小刻みに震えていた。
一曲が終わってから由梨ちゃんは遠い目でつぶやく。
「やさしい、ギター……」
か細く、震える声だった。今にも壊れてしまいそうに。ぼくは、由梨ちゃんの小さな頭にすっと手を置いた。そして、ゆっくり、ほんの少しだけ前後へ揺り動かした。由梨ちゃんの髪の感触や頭のカタチを、静かに確かめるように。
そうすると由梨ちゃんは、堪えていた嗚咽を解き放ち激しくむせび泣いた。ぼくは由梨ちゃんの身に新たな何かがあったのか、そもそも、いつもなぜひとりでいるのかを訊こうか迷った。けれどひとしきり泣いた後の由梨ちゃんは、ただ虚脱しきったようにぼくへ肩をもたせかけ、なにも云わなかった。
そうこうしているうちに時限の終わりを告げるチャイムが鳴り、なんとなくぼくらを引き裂いた。
その後、その日のHRで今まで看過されていた一部の生徒による屋上への出入りが、これから厳しく制限されるのだという報を聞いた。理由は今朝に起きた、中等部一年生による飛び降り自殺だった。
当然、ぼくらの屋上にも翌日には分厚く頑丈な南京錠が設えられていた。それから、屋上で由梨ちゃんと会うことはもう二度となかった。
由梨ちゃんとの再会は、それから一週間以上も後のことだった。
終業式の日、ずっと姿を見ていない由梨ちゃんが気がかりだったからか、ぼくはなんとなく中等部校舎付近の通用門から帰路に着いていた。
けれど周りに幼い中等部の女子がいっぱいでついヘンな気分になりそうだったぼくは、人の流れを避け、寂れた小路のほうへ入っていった。
その先に由梨ちゃんは居た。
見棄てられたような小さな公園で、由梨ちゃんは力無くブランコにしがみついていた。
目は、うっすらと開かれているが外界の何をも映していないかのように色を失い、死んだ金属のようにギスギスとした存在感ばかりを辺りへ放射していた。
声を掛けるのも、躊躇せずにはいられなかった。まるで由梨ちゃんの身体だけが狂った世界の従属物になったみたいに、絶対的な遠さを感じずにはいられなかった。
が、それゆえに、ぼくはますます声を掛けなければならないと思った。このまま放っておいてはいけないと思った。今、誰かが彼女を引き止めなければ、きっと彼女はこの狂った世界に完全に奪い去られてしまう。そう思った。そして、その引き止める役がたまたまぼくになろうとも、それはそんなに悪いことじゃないのかもしれないと肯定することができた。ぼくは初めての友人をつくることに決めた。怯えがまったくなかったわけじゃないけれど。
ぼくは生い茂る夏草を踏み分けて、静かに由梨ちゃんのそばに近づいた。正面に立っても、由梨ちゃんは気づかない。こんなときはたぶん静かに見守るしかない。ぼくは、となりに並んだブランコに腰掛けて、ずっと由梨ちゃんの目覚めを待ち続けた。
正午もとうに過ぎ、陽がゆったりと傾き始めてからようやく由梨ちゃんは言葉を発した。
「……なに、してたの?」
ぼくは淡々と答える。
「ん。ブランコ、乗ってた」
「なんで?」
「さあ。でも楽しかったよ、ブランコ」
「嘘つき。ぜんぜん漕いでなかったじゃん」
吐き棄てるような、物言い。
由梨ちゃんの心はどうしようもなくささくれ立っていた。虚偽や狡猾さに、哀しすぎるくらい敏感になっていた。ぼくは、自らへの不安や疑心を抑え込んで正直に話すことにした。なるべく優しい自分になりきって。
「……ごめん。確かに嘘だよ。きみとともだちになりたいんだ。だからきみを待っていた」
由梨ちゃんは目を丸くする。突然の意外な申し出に頭がついていかないのか、しばし怪訝そうな顔をしていた。
ぼくはさらに言葉を紡いだ。
「あれからずっと見ていなかったから、寂しかったんだ。きみ、様子がおかしかったから心配だったし」
由梨ちゃんはますます目を丸くさせた。けれど、途端に目の色を重く翳らせる。
「……あたしなんか……そんなこと言われる資格ない」
ぼそっと吐き棄てられた言葉は、あまりに重い響きを伴って黒い土の上に墜ちた。
ぼくは、さらに覚悟を決めて由梨ちゃんの正面にしゃがみ込む。
「なんで……やさしいの?」
苛立ちを募らせた、震える声。
「それって、理由が要るものなのかな」
包み込むような発声を心がけた。ちょうどそんな訓練にのめり込んでいた時期だったけれど、普段のそれ以上に上手くできた。
「あたしは……最低だから」
だからなんなのかは聴くまでもなかった。その声はあどけなく痩せ細って、刺々しさの向こうに切なる甘えが容易に透けて見えた。彼女は誰かに赦して欲しいのだ。けれど、それを思考に上げることや、まして言葉にすることなどできるべくもないのだろう。そう思った。
「……なにが、あったの?」
ぼくは神妙な眼差しで、由梨ちゃんの震える瞳を見つめた。なるべく穏やかな雰囲気で包み込もうとしながら。
由梨ちゃんは訥々と言葉を洩らす。
「……あの子、死んじゃったって」
「……飛び降りた子、かな」
「……うん。飛び降りて、病院に運ばれたけれど。しばらくして死んじゃったって」
「……そっか。あのときは、まだ生きていたんだね」
「……うん」
「おなじ、クラスだったの?」
「……うん」
「……いじめられていたの?」
つい、聞くまでもないことを訊いてしまった。由梨ちゃんは声を荒げる。
「そうだ! あたしはなんにもしなかった! 血生臭いクラスの争いから、ずっと目を背け続けた! ランクがどうとか! 誰が上とか下とか! ウザいとか! キモいとか! 気持ち悪くて逃げ続けた! あの子がいじめられていたのも、知っていたのに……」
声を発しても、安すぎる言葉しかひねり出せそうになかった。ぼくはただ、伏し目がちになって由梨ちゃんの次の言葉を待った。
「わかってる! こんなこと言っているあたしは偽善者だ! 死んだあの子を笑ったあいつらよりも、もっと最低で醜い! あいつらの言うとおりなんだ!」
あいつらの言うとおり。その不可解な言葉を聴いて、迂闊にもぼくは由梨ちゃんの制服の乱れを見落としていたことに気がついた。
ぼくは安直にも由梨ちゃんを抱きすくめていた。この仔には世界は汚すぎる。ぼくは初めて本気で世界を憎んだ。そして、初めて人を、大切にしたいと想った。
由梨ちゃんはしばらく呆けていたけれど、やがて声を荒げて身体をバタつかせた。
「やめろ! やめろ! そんなものいらない!」
けれど、その声はあまりに痛切で。激しすぎる頑なさが反って逆の意味を物語っているのはあまりに明白だった。
だからぼくは、頬を引っ掻かれても、肘打ちを喰らっても、変態と罵られても、ただ穏やかな表情で由梨ちゃんを抱き続けた。絶対に、不穏な空気ひとつ感じさせてはならない。完璧に、この仔を受け入れてみせなくては。ぼくはそう確信し、それを完遂させた。
しばらくして疲れ切ったのか、だらんと全身を弛緩させた由梨ちゃんは諦めたように薄く笑った。
「……ばか……ばか……」
やがてうわ言のように何度もつぶやきながら、由梨ちゃんはさめざめと泣き始めた。そして、いつからかぼくにしがみつき、きゅうきゅうとぼくの背中を締め付けていた。
それがすべての始まりだった。
なにも出来ないぼくは、せめて由梨ちゃんのために安らげる居場所をつくろうと思った。
ちょうど懲りずにちょっかいを掛けてくる先輩と、声を掛ければ一緒につるんでくれるだろう同級生が居た。ぼくは由梨ちゃんのためにも、自ら遠ざけていた彼女たちを仲間に引き入れることにした。少しでも賑やかなほうが彼女も気が紛れるだろう。そう、思ったからだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。