track 2
誰もいない閑散とした自宅を出ると、そばに建つアパートの前で
近づくと、神妙な面持ちでこちらをまじまじと見つめてくる。
鏡子のそれはもはやいつものことなので、ぼくはとくに気に留めず挨拶を告げる。
「おはよう」
「…………」
鏡子はすぐには答えず、目を細め灰色の空をぼんやりと見上げる。
「……ええ。おはよう。今日も雨が降ってるみたいじゃない。かまち、傘ぐらい差しなさいよ」
これは鏡子のいつもの言だ。相変わらずおかしなことを言う。
「いやいや。鏡子も差してないじゃん。みんなだって差してないし。大丈夫だよ。風邪引くわけでもなし。みんなが差してるときは、一緒に差させてもらうよ」
「……そうね。けれど、あまり無理はしないで」
鏡子は心苦しそうに言うけれど。
仕方ないじゃないか。
世界は狂ってしまったんだ。誰も彼もが雨の中を、傘も差さずに過ごしている。何食わぬ顔で。素知らぬ顔で。だったら、ぼくらも我慢するしかないじゃないか。たとえ降り続ける雨を看過できなくても。傷ついてしまっても。堂々と傘を差して歩けば臆病者と笑われるだけだ。弱者だと、貶められるだけだ。
――そうだよ。だからぼくらには人知れず雨宿りをする場所が必要だったんじゃないか。
そんな風にあの場所のことを思うと、さっそく放課後が楽しみになってくる。ぼくは先に歩き始めた鏡子に並びながら尋ねる。
「鏡子は、今日は森に寄っていくの?」
「ええ。そのつもり。かまちは昨日も森へ行ったのよね」
「うん。
ぼくは自然と微笑んでいた。すると鏡子はずっと遠くを見るようにして、ぼくの目を見つめる。なぜだか、とても哀しそうだ。
「……わたしだけ仲間はずれ」
言いながら、鏡子はしゅんと肩をすぼめてみせた。冗談っぽく繕おうとしているのがありありとわかる。
けれど、どこからが繕いなのか、なにを隠そうとしているのかまではわからない。
やはり近頃の鏡子はおかしい。以前からぼくらにすら云えないなにかを抱えている風ではあったけれど、近頃の鏡子はまた一段と様子がおかしくなった気がする。
しかしこのまま考え込んでいたのではせっかくの鏡子の繕いを無碍にしてしまう。ぼくは沈痛な空気を振り払うように努めて破顔一笑し、鏡子の艶々とした濡れ髪をわしわしと撫でる。
「ははは。やっぱり鏡子は寂しがり屋さんだね」
少し、わざとらしかったか。「ははは」はないだろ。自分でもそのうさんくささについうんざりしてしまう。なんだよそれは。アニメの見過ぎかって。そもそも、鏡子は以前からして寂しがり屋という類のものではなかった。むしろ、仲間に対してすらいつも一歩引いた位置に立とうとしていた。だからだろう。寂しげな孤高さはいつも立ち香らせていたけれど。
しかしそんなぼくの自己批判とは裏腹に、鏡子は珍しく気持ちの良いツッコミを返してくれた。
「もう! 寂しがり屋は由梨ちゃんでしょ! それに手! わたしまでお子様あつかいしないの!」
そう、寂しがり屋は由梨ちゃんだ。ぼくに頭をわしわしされる役回りも。
けれどツンっとそっぽを向いてみせる鏡子の肩はどことなく楽しそうだ。きっと、心は笑っているのだろう。それがあくまで繕いの上でだとしても。
――ぼくは無理にでもそう想った。
そうこうしているうちに、ぼくらは河合由梨の家の前まで差し掛かる。そしてしばし家の方を眺めてから互いに顔を見合わせる。
「……う~ん。置いてこっか」
「……そうね」
ぼくらはそのまま歩き出した。
「ふぉ~い! 待て~~っ」
後方から声が聞こえる。
「ま、たん、か~~~い!!」
なにやら怨嗟を含んだ必死な声が近づいてくる。けたたましい足音も。
「これ、ちみぃ」
肩を掴まれた。怖い。
「ちみぃ、なんで置いていくんだ……」
懇願するような震えを、冗談じみた怒りに包み隠している。少しやり過ぎたかもしれない。けれど冗談を続ければ、由梨ちゃんはすぐに安心してくれる。心で笑ってくれる。由梨ちゃんはほんとうに揺れ動きやすい。その様子はとても尊いものを見ているようで、いつも心に光を灯してくれる。優しいぼくをくれる。
「だって、さっきはなんだかドタドタうるさかったから。お取り込み中なのかなって」
「ち、が、う、だろ~! ちょうど家出るところだったんだ。ちみの頭はいったいどうなっているのだね?」
「いやあ、近頃物忘れが酷くってね」
「か、ん、け、い、な、い、だろ~!」
「ありゃ、バレちゃった? 由梨ちゃんも、少しはお利口さんになったみたいじゃん。えらいえらい」
わしわし、と由梨ちゃんの小さな頭を撫で回す。
「ちゃん、言うな! それに手!!」
ぱしっと手を払われる。
由梨ちゃんは自身がお子様扱いされたことにいつものように憤然としてみせている。両方の頬をぷっくりと膨らませて、まるでリスみたいだ。
「まるでリスみたいだ、じゃな~~い!」
殴られた。グーで。
「あ、あれ? もしかしてぼく、声に出してた?」
「って、ほんとに思ってたんかよ!」
また殴られた。ていうか、ああ、カマを掛けられていたのね。て、おいおい。ボロ出す前に人のこと殴ってんじゃねえよ!
今度は実際に口に出してみることにした。
「おいおい。ボロ――」
「う、る、さ、い~~」
凄まれた。なんだこの子は。暴力少女か。おじさんはこんな子に育てた覚えはないぞ。いや、そもそも育てた事実自体存在しないのだが。
ともあれ、すっかり楽しんでいただけたようでなによりだ。そんな由梨ちゃんの幼げな煌めきに、朝からの不安も少しずつ遠ざかっていく。
「もう……早く行くわよ。それと、おはよう。由梨」
事態を静観していた鏡子が、嘆息と共に涼やかに告げてみせる。まただ。鏡子はむりやり楽しそうにしてくれている。鏡子はどうしても目に浮かんでしまう哀しい色を、必死で隠そうとしている。近頃の鏡子は、由梨ちゃんやたんぼさんの姿を見るたびにこんな様子になる。
「……うん、おはよう。鏡子ちゃん」
言いながら、由梨ちゃんはもじもじとして顔をうつむける。
「……どうしたの? 由梨」
「鏡子ちゃん、下向いて……くれる?」
おどおどとした、掠れ声で由梨ちゃんは言う。いったいどうしたのだろう。
「え……ええ。これでいいかしら?」
由梨ちゃんは背伸びしてくんくんと鏡子の頭の匂いを嗅ぐ。今度は犬みたいだ。
「……うぅ……うぅ……やっぱりだ。めずらしく鏡子ちゃんの髪が乱れてるから怪しいと思ったんだ」
由梨ちゃんはがっくりと肩を落とす。そしてう~う~と唸りながら先に歩き出した。どうやらあまり深刻なことではなかったようだけど、やっぱり少し心が痛む。
そして耳元では稚気を含んだ甘い声が鳴る。鼓膜をふうわりとくすぐるように。
「ほら、わたしのことまでお子様扱いするからよ」
鏡子の声。思わず、どきっとしてしまう。そんな風に艶っぽく、なじるように言われたら。
けれど今朝のそれはやはり演技じみていて、微かな震えすら帯びていた。近頃の鏡子は、ずっと無理をしてぼくらのいつもに付き合ってくれている。
――やっぱりそれは堪らなく哀しいことに思えた。
「おはよう。どうしたのかしら、由梨。ゾンビみたいよ」
合流した
「……かまちの淫乱性」
ぽそっと、鏡子がつぶやく。あまりに酷い言いようだ。
「あらまあ。おさかんなことだわ……」
たんぼさんはふわわぁ……とあくび交じりに言う。まったく、優雅なお人だ。
たんぼさんは鏡子をちらりと一瞥してからさらに稚気を重ねる。
「かまちのえっち……」
目に涙を浮かべ、濡れた声を上目遣いに投げかけてきた。大人の色香漂うたんぼさんがこれをすると効果は抜群だ。つい、身体の一部に体積的な問題を発生させてしまう。世の男性の多くが日々悩まされる「テント症」というやつだ。それを察知したのか、由梨ちゃんが怨嗟を込めてつぶやく。
「かまちのばか……」
なんだこの展開は。踏んだり蹴ったりじゃないか。たんぼさんはひとりだけやたらとニコニコしているし。怖い人だよ、ほんと。恨みを買った覚えも、これから買う覚えもないわけじゃないから余計だ――
やぶへびだったか。
迂闊な思考が、つい忘れようとしていたことまで思い出させる。
前者はともかく、後者のほうはこんな稚気では絶対に済まされない。
そんなどうしようもない確信が堪らなく頭をもたげてくる。心がまた、灰色に突き落とされそうになる。
ぼくは、むりやりに笑った。
たとえ、鏡子やたんぼさんがそれを容易く看破しようとも。
それでも彼女たちはいつだってぼくの意向を汲んでくれた。
ぼくらの目標は、最終的には常にただ一点に向けられていた。
――由梨ちゃんの幸せ、ただその一点に。
それがぼくらのなかで、唯一のルールだった。
ぼくが取り決めた、グループ結成以来絶対不可侵の盟約。
ぼくらを繋ぐたったひとつの理由。
ぼくらはそれを守り続けた。
けれど、それがずっと続く保証などない。そんなことは、イヤになるほどわかりきっていることだった。
そのまま、ぼくらは学校までの道のりを連れ立って歩いた。途中、田んぼ道で由梨ちゃんの頭をわしわししてあげると、由梨ちゃんは憤然としてみせながらも心で笑っていた。ぼくはそれがうれしかった。うれしくてうれしくて、堪らなかった。
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