リルが笑う

@keroharima

第1話

アメリカ南部フロリダ州の小さな町に、とある新薬の研究所がありました。

そこでは新薬の臨床試験を行うために、多くの動物が飼われていました。


マウスからオランウータンまで大小様々な動物がいましたが、その中でも研究所の職員から、特にかわいがられていた1匹のメス猿がいました。


名前をリルといいました。


猿は人間の他に唯一笑うことのできる動物だそうです。


リルは本当によく笑いました。

リルの笑い声は皆を幸せにする力を持っていました。


ケージを見ます。

リルはいつものように笑っています。




研究所には一人の日本人職員がいました。


名前を浦和といいました。

若いながらも大変優秀で、兼ねてからの縁もあり職員として招かれたのでした。

そして、現在開発が進められている新薬の研究主任でした。



リルを被験体として開発が進められていたのは、知的障害の治療薬でした。


リルは重度の知的障害を負っていました。

脳に重大な欠陥があったのです。

脳に起因する症状の場合、外科手術を行う以外に治療法は考えられませんでした。

しかし15年前、浦和博士の父により開発された新薬により、ルリという少女が投薬による治療に成功したのでした。


ですが、ルリの成功後2度目の臨床試験の結果はひどいものでした。

3度目も、4度目も失敗に終わりました。



そして、今に至ります。



浦和博士は、父のあとを継ぐ形でこの研究に参加し、任されることとなりました。

その際、知人のブリーダーから1匹の知的障害を持った猿を引き取り、被験体とすることにしました。

名前は、第二のルリとなることを願い、リルと名づけました。



浦和博士はルリのことを思い出します。


新薬により、ルリの知能指数は驚異的なほどに上昇しました。

当時12歳であったルリは、同年代の彼らとは比ぶべくもないほどの知能を得たのでした。

常人のレベルを遙かに超え、異常とさえいえました。

それまでのルリとはまるで人が変わったようでさえありました。



いま、浦和博士は考えます。


(一般レベルの知能指数を得ることが目的ならば、やはりルリの例は失敗だった)


ルリのことを考えます。


(ルリはいつも何を考えていたのだろうか?何を思っていたのだろうか?)


知っているはずなのに、わからない、思いだせない。

浦和博士はいつも考えます。


(ルリは幸せだったのだろうか?不幸だったのだろうか?)


霞みがかったようなあの日の記憶。

しかし浦和博士にはそれがわかりませんでした。



浦和博士は悩んでいました。

見えないストレスにいつもさいなまれていました。


ケージを見ます。

リルが笑っています。


(ルリもよく笑った。私が最後に笑ったのはいつだったろうか……)


浦和博士は今日も悩む。明日も、明後日も、その次の日も……。


(私は、いつから私なのだろうか?本当の私は誰なのだろうか……)


この実験が成功すれば答えが見つかるのではないか。

そう考えて日夜研究に没頭しました。

ある意味で浦和博士の目的は、新薬の開発成功にはありませんでした。

あくまでも、あの頃のルリの気持ちを知ることにあったのでした。



そしてついに新薬が出来上がり、早速リルへの投与が開始されました。

同時にリルの知能検査も開始されました。


はじめはこれといった変化は見られませんでしたが、投与開始から6日後、わずかずつですが成績の上昇をみせました。

そして10日後を境に、驚異的なほどに知能指数は上昇していきました。


3週間後、リルの知能は人間の10歳児並にまでなりました。



その頃からリルの性格に変化がみられはじめました。



リルは笑わなくなりました。



いや、そもそもが異常なほどに笑っていたリルです。

これこそが通常ともいえるのですが。


しかし、このころからリルは、全く笑わなくなったのです。



そして、新薬の投与開始から41日が経ったときのことでした。


朝、大きな物音がするので浦和博士がリルのケージを見に行くと、そこには傷だらけになったリルの姿がありました。


リルが、自ら傷つけたのでした。


少し目を離すと、壁や床に体を打ちつけ、自らを傷つけようとします。

どうしてなのかはわかりませんでした。


それからは毎日のようにリルは自傷行為をつづけました。



薬の投与は中断されました。



投与を中断してまもなくの間はそれでも自傷行為を続けていたリルでしたが、3日ほどが過ぎた頃にはその行為もみられなくなりました。

しかし、すでに傷つけられた体までは元には戻りません。

弱りきった体には、新たな治療に耐えられるだけの体力も残されてはいませんでした。


少しずつ、しかし確実にリルは衰弱し、死が近づいているのは誰の目にも明らかでした。


その様な状態に陥りながらも、知能試験は続けられました。


結果はひどいものでした。

投与中断後から明らかに成績は下がり始め、7日後にはもう一般の猿以下の知能にまで落ち込んでしまったのです。



この時点で、新薬の実験は失敗となったのでした。


いや、リルが自傷行為を始めた時、薬の投与を中断せざるをえない事態に陥った時点で実験は失敗していたのですが……。


本来なら、実験が失敗した瞬間から、その原因を究明し、また新たな新薬への研究に着手するべきです。

繰り返される失敗の中で得られるのが成功です。

ここで立ち止まることは、決定的な実験の遅延を意味します。


しかし、浦和博士は立ち止まりました、振り返りました。

一切の研究を中断し、リルとともにいることを選びました。

それは、浦和博士の目的が、あの日のルリの記憶を取り戻すことにあったからなのかもしれません。



リルは……、

とても安らかな顔をしていました。

まるでこの世のすべての苦痛とは無縁であるかのように。

肉体的な面でいえば、あの時よりひどくなっているというのに。

 

そしてまた、よく笑うようになりました。

以前ほどの元気はありませんが、それはまぎれもなく、あの頃のリルの笑顔でした。

それから数日の間のリルは本当に幸せそうでした。

もうすぐ死にゆく体のはずなのに。

いや、もう自分が死にゆく運命だということも、わからなくなってしまったのでしょう。



そして、薬の投与中断から13日後、



1928年4月1日




リルはその短い命に幕を下ろしました。




浦和博士の落ち込みようはたいへんなものでした。

それはもちろんリルの死の影響なのでしょうが。

また、全く別の理由に起因するようにも思われました。


とにかく、リルの死以降浦和博士はあらゆる研究を中断してしまいました。

それは1年が経つころにも変わりませんでした。


心配した他の研究員は、なんとかして浦和博士を元気づける方法はないか考えました。

そして、リルが死んでちょうど1年が経つ日に、みんなでパーティーをやろうとひとりの研究員が言いました。


「浦和博士も、天国にいったリルも、大笑いできるような楽しいパーティーをやろう。」


それからは毎年のようにそのパーティーはおこなわれました。




リルの命日4月1日を、



エイプ・リル・フール・デイ

(おバカなおサルリルの日)



と名づけ、

みなで思いっきりバカ騒ぎする日としたのでした。



その日ばかりは、みな何も考えず、バカになり、ふざけあい、歌い、大いに笑います。

まるでみながリルになったように。



浦和博士も笑いました。

大いに笑いました。

何年ぶりのことでしょう、こんなにも笑ったのは。



あの笑顔はそう、まるで……










笑う、笑う、リルが笑う









本当のような、嘘のおはなし


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