奇妙な果実

あしゃり

『奇妙な果実』

     

      



      手で触った感触は所々が起伏に激しく、

      塊や瘤といった物が点在しているのが特徴的だった――



 ええ、霧が強い日でしたよ……思えばそれは前触れだったのかもしれませんね。

 濃霧っていうんですか、ちょっとした先も見えない薄ぐらい木々の中、必死でした。

 

 夕暮れ時だったから時間ごとに危機感が増していくんですよ。今だから笑い話に聞こえるかもしれませんが、山中で食料も水もろくに持たず迷う心細さは、ええ言葉にし難い切迫感があります。

 

 最初は良いんです、まだ余裕があって自分が迷ったなんて事も認めずに少し道からそれた、……なんて甘い考えを保っていられますから。


 でもね、水が無くなりはじめた頃かなぁ、胃の辺りをギュッと掴まれたような痛痒じみた自覚症状が出るんですよ。

 

 心臓もね、柔らかな手で押し潰されて行く様に鼓動がどんどん激しくなって、せっかくの非常食であるビスケットを戻してしまいそうになった時分。

 風に揺れる大きな山鳴らしが目に留まりまして、何とはなしにその幹に寄り掛かって落ち着けば妙案が浮かぶんじゃないか、と現実逃避半ばにへたり込んでしまいました。

 

 ハハ、もうその頃には山間の何処だとか、どう動けば良いとかは曖昧でして。ぐるぐると頭の中を嫌なことが巡るのを抑え付けるので精一杯、

 お恥ずかしながら半ベソかいちゃいましたよ、三十過ぎの良い男がね、心細くて鼻すすってたんです。


 ――そんな時でした。ぺちゃぺちゃり岩陰の上で水っぽい音がしたんです。

  

 最初は、鳥が果実か何かをついばんだのかとおもいましたよ、でも音が重なって響いてるのを理解して、疑問符を抱いたまま反射的に後ろを見上げたんです。

 

 ……ええ、予想通り生き物が居ました。

 

 白っぽい体毛、剥き出しで黄褐色の牙、浅黒くというよりも薄汚れた鼻。

 ああ、何よりも印象的だったのは眼が無い所でしたよ。

 言葉にすればそれだけなんですけどね。猿の様な不確かな生物が集って、輪を作りながら果実の様な物をむさぼっていたっていう……。

 

 ええ、仰る事も解ります、こんな有耶無耶な説明じゃ共感しろってのも難しいです。

 ……でもね先生。あれは言葉じゃ伝わらない無機質なモノですよ。

 圧とでも言うのですかね、実物を見ないと、とてもじゃないが理解できない緊張感でした。

 

 言葉を失って。あまりの事に呼吸も忘れて。それから――動いたんです。

 あの無数の顔面が一斉に此方へ角度を固定したんです。

 私は、悲鳴すら喉元に上がりませんでした。何故こんな事になってしまったのだろうと発作みたいに呼吸が乱れて、見上げたまま首がってしまいそうな中、ただただ必死で固まりました。

 

 此方は少しでも刺激したくない、ただその一念だったのですが、あいつ等は揺れることなく眼の無い顔で咀嚼音をさせていました。

 ……嫌な音でしたよ。すする様な、水分を果肉と共に嚥下えんげするそんな風な音だけが耳に届き続けるんです。

 もう私はただただ祈るしかありません、どうか早く喰べ終わってくれと、状況がどうにか好転してくれと、お経なんかを心の中で何遍なんべんも唱えて待ちました。

 

 ――すると今度は前触れも無く、風に乗って酷く甘い匂いが届いたんです。


 反射でした。自意識的な行動ではないと断言できます、そう釣られたんです。

 その不思議と甘ったるい芳香ほうこうに、アレほど震えていた私の脚はふらふらと動き立ち上がってしまったんですよ。


 困惑と驚愕の最中さなか、慌てて足元へ視線を向けて、何が起きたのか理解できないまま悲鳴を漏らして振り向けば……ええ。

 そう、何も居なくなっていました……。


 私は茫然としてしまいましてね。しばらくの間、動く事すら考えられず口を開いたままへたり込んでました。

 もう辺りを見渡すとか逃げるとか、全て忘れてぼぉっとしてたんです。恐怖からの現実逃避なんでしょうが、遭難から始まって、連続したあまりの事に呆けたところで誰が批難できるって言うんです?

 

 すみません……お恥ずかしい、少し熱くなってしまって、いえ、違います…ただ先生には正確に現状を消化して頂きたいだけなんですよ。

 ああ、はい続けますね、ええ勿論、本筋はそれではありません。

 

 えー…時間にしてどれくらいだったでしょうかね。夕暮れももう終わりという頃合いだったと思います。

 私は、ふと気が付いたんです。自分の空腹の音と、先程の香ばしい匂いを思い出したと言うべきでしょうか。

  

 今思い返すと正気とは呼べない状態だったんでしょうね。今の私なら間違い無くその場を離れたというのに、あの時の私はゆっくりと引き寄せられていたのか、香源こうげんへと足を運んだんです。


 はい、お察しの通りです。アレが囲んでいた中心には、窪地くぼちに座する御神木といった体裁の物がありました。

 それはそれで立派な木だったんですが、圧倒的に私の眼を引いたのは、太い枝先から垂れ下がる、奇妙な果実でした。


 手で触った感触は所々が起伏に激しく、枝先から垂れた直後に二股から一枝へと伸び、塊や瘤といった物が点在しているのが特徴的ながらも三叉フォーク状で、中心の最後が太く短い果肉部位を露出しながら、反面、左右の枝はどちらも細長い――そんな奇妙な果実でした。


 青白いようで浅黒い皮は手触りは悪いものの、果肉を守る様に柳の枝葉の如く中心から垂れ下がった黒く細長い穂先は、ごくりと喉を鳴らすほど甘く芳しい、とろけそうな臭気を放っていて。その黒い合間から見える露出した果肉は高純度の発色剤でも使用したような、とても自然産とは信じられない、宝石の様なピンク色をしていました。


 無意識の内、私は自分の両手を指先から静かに果肉へと沈め、そのあまりにも素晴らしい、濃厚過ぎる香気をすくい取ると、口元に運んだのです。

 眼球から鼻腔から、摂取欲を刺激されるほどの蠱惑然とした半透明のそれを思わずすすろうと、ほんの少しこうべを垂れた所で、また耳が捉えました。

 

 

 ぺちゃぺちゃりと周囲の木々の上から、あの水っぽい音がした事を――


 

 私は、恐怖で狂いそうな頭で、頭を下げたまま、少しだけ右を向くと、彼らの方へと視線を向けました。

 すると先程とは変わって姿は遠く、彼らは離れた場所から、身を隠す様に幹や枝葉の陰から影を見せているだけでした。

 けれど、いえ……だからこそ私は気付けたんです。

 明らかに気付ける筈もない、遠方からの視線や音を感じ取れた理由を……。


 あれは、あいつらは笑っていたんです。

 じっと観察して嘲笑って、そして試していたんです。

 あの奇妙な果実を、私が喰べるのかどうかを。


 それからの事は……良く覚えていません。

 ただ絶叫をあげながら情けなく喚き散らして、辺りを無我夢中で駆け回り続けたのだけは覚えていますよ。

 ええ、後は先生もご存知の通り、幸運にも明け方に山岳救助隊に拾って頂きまして。こうして何週間もたった今現在、先生のもとでカウンセリングを受けている訳です。

 

 ――え? どうして私がわざわざカウンセリングを受診しているか?

 先生……それは無いんじゃないですか、私のこの話は現実にしろ妄想にしろ十分トラウマと呼ぶに相応しい事件でしょう?少なくとも原因としては充分過ぎるほどじゃありませんか。


 では何故自主的に、も妻を同伴して来院したのか、ですか、

 それ…、それは……――フフっ。

 やっぱり気付かれていたんですね、先生。

 いえ、もうやめましょう、もう正直にお話しします。

 あのね先生、今日も私は妻から肩を借りながら来たんですけどね……。

 そうでもしなきゃ、もう我慢できないんですよ。

 

 解りますか――この涎。

 

 するんですよ、あの香りが。

 妻の髪から、ずっと。

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奇妙な果実 あしゃり @Ashari-umai

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