夜十時のエスケープ
――あの日は、あまり調子が良くなかった。
お世話になっているお屋敷へ、頼まれていたのと違う花を持っていってしまったのだ。「これも綺麗だから、気にしなくていいよ。」と、ご主人は仰って下さった。それでも、気にせずにはいられなかった。
午後もそれを引きずってか、細かいミスを重ねてしまった。とにかく、乗っていなかった。
けれど、人生で何度とない、楽しい日でもあった。
昔、ある町に、一人の花屋が居ました。
その日、失敗が続いていた花屋の男は、気分転換に散歩に行くことにしました。
夜の十時。すっかり暗くなった世界に、月が静かな光をおとします。満月のその日は特別に明るく、街灯の明かりはいっそ邪魔に感じられる程でした。
"いつもより月が大きい気がするな" そう、思わずつぶやいてしまうほど、明るい夜です。実際に、年に何回か月が大きくなるというのは、聞いたことがありました。しかし、男には小さくなっている自分の心が、そう見せているように感じたことでしょう。
町には、
しばらく歩いていると、川の柵に手をかけて月を眺めている、一人の女性に気づきました。
その人は、有名なお金持ちの商人のところのお嬢様でした。彼女とは、お屋敷に花を届けた時の露ほどの面識がある程度です。それでも、彼女の美しさは、見間違えようがありませんでした。
しばらく見とれていた彼は、"話しかけようか。いや、一人では無いのかもしれない。やはり話しかけようか" ひとしきり悩んだ後、
"こんばんは。女性の夜歩きは危ないですよ"
そう、声を掛けたのです。彼女は驚いた様子でしたが、嬉しいことに、顔を覚えていてくれました。
"こんばんは。……お花屋さん?"
"はい。覚えていて下さったんですね"
"はい。いつも、とても綺麗なお花を持ってきて下さるので"
"このような時間にお一人ですか?"
"怒らないでちょうだい。お勉強が嫌で抜け出してきてしまいましたの" なんだか、彼女は楽しそうでした。
"私も仕事の途中で来たので、なにも言えませんよ。……あの、" よろしければ。男のその言葉にかぶせるように彼女は言った。
"よろしければ、少しお話に付き合ってください。
"あっ……ええ。はい。喜んで"
石畳と月明かりに満たされた静寂の夜に、男女の笑い声だけが響いていました。
「えー。もうおわり?やっぱり前のといっしょだよ!」
本を閉じると、孫娘が不満そうに聞いてきた。
「少し詳しくなったじゃないか。男の気持ちとか。」
「それだけじゃん!ねーおじいちゃん。この時にもうおはなやさんは女の人が好きだったの?」
最初にこのお話を聞かせてから、3年。孫娘も11歳になった。このお話を気に入った彼女は、たまに読み聞かせるよう頼んでくる。最近は恋愛に興味が出てきたのか、こういったおませな事を聞いてくるようになった。
「いや、最初は綺麗な人だなという位の気持ちだったんじゃないかな。」
「そうなの?」
実際そうだったと思う。彼らはそれまであくまでも、仕事でたまに出会う程度だった。あの時は、不審者の目撃談があったりして危なかったのだ。
そんな話をしていると、ドアがノックされた。
「親父、お客さん。アリス、レリアさんが来られたよ。」
ドアを開けたのは息子だった。アリスというのが孫娘の名前になる。今時の可愛らしい名前だ。
「レリアおばちゃんが来たの?!おじいちゃん、早く行こ!」
「こら、走ると危ないよ。」
レリアというのは、私の古い友人のことだ。アリスは彼女に凄く懐いていて、彼女が来る度にああやってはしゃいでいる。私も、早く行くとしよう。
「やあ、レリア。いらっしゃい。どうしたんだい、突然じゃないか。」
下に降りると、玄関でレリアが待っていた。彼女はいつも、突然なのだ。
三本の薔薇物語 山石神楽 @Shichika
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