夜に堕ちる 後編


「……なんで、こんなに人がいるの」

 月のない夜。思わずわたしは呟いて、冷たくなってきた手すりを掴んだ。ざらざらと錆が落ちるのも構わず、強く握りしめる。

「今日って何かお祭りでもあった? 盆踊り?」

 しゃがみこんだ瀬奈が声をひそめて訊いてくる。

「お盆は先月。でも、今日って祝日でも何でもないただの週末だよ? それにこんな暗い寂れた場所に人が来るのもおかしいよ」

「あたしたちが言っても説得力がないね」乾いた笑みを作っていた瀬奈が真顔になる。「……ここにいる人、みんな幽霊とか」

「ゆっ――」

 はじめはカップルがデートでたまたま歩いているだけだと思った。彼らが広場の隅に止めた車が走り去るまで、見つからないように屋上の真ん中に二人して隠れた。だが、時間が経つほどに、親子連れに老若男女と公園内に続々と人が集まり始めている。

 わたしたちは揃って姿勢を低くして、這うように手すりの前から離れた。

 展望台の庭先である広場に、首をもたげた街灯がぽつぽつと辺りを照らし始めた。大きな電気スタンドの作りをしているので、下向きの明かりを受ける彼らにわたしたちの存在は見えていない。

 死者はあんなに楽しそうに語らったり、車や自転車で広場に乗り付けてこない。

ここで飛び降りれば、ただの目立ちたがりのバカか、彼らの集まりに便乗して建物に不法侵入した挙句、足を踏み外したドジにしか見えない。

 今日は諦める? そんな生半可な気持ちでここまでやった来たわけじゃない。最期くらい地味な恰好をやめようと、服もファッションのわかる瀬奈に選んでもらった。

 彼らがいなくなるまで待つ? ちらりと視線を広場に下ろすと、敷地内には三十人を越ええていた。ああ、今度はジョギング中だったおじさんまで。

 ぎぃと扉を開ける音に振り返ると、いつの間にかいなくなっていた瀬奈がスマホのライトを付けて戻ってきた。ブルーライトの明かりが彼女の金髪をより光らせている。

「あぶなー。まさかと思って入口に鍵をかけに行ったら、超ぎりぎりで中学生っぽい子たちが開けようとしてきたよ。……唯花?」

 諦めるか、もう少し待つか。焦りと迷いが胸と頭の中を巡り始めていると、地上から歓声があがった。

 そろそろと手すりに近づき、格子の間から地上を覗くと何人かがこちらを指さした、ように見えた。彼らの指先は、わたしのいる屋上よりも後ろの山に向かって高く、大きく顔を上げていた。

 頭上にはいつもの夜空が広がっていた。ぼんやりとした視界で目を凝らすと、光度の高い恒星がいくつかが滲んで見える。天体が大きく滲むたびに地上の人たちが声を上げているような気がして、わたしは手探りで鞄を漁り、眼鏡かけて顔を上げた。

「あ」

 呆然とするわたしの言葉を引き継いで、瀬奈がつぶやいた。

「流れ星……」

 きらめいた星が一本の尾を曳いて落ちていくと、追いかけて二本三本と続く。視界に収まりきらない空から同時に流れて、銀色の流線が月のいない闇夜を縦に斜めに描いていく。わたしは瞬きするのを忘れていた。

「きれい」

 ただ塵が燃え尽きて、地上に堕ちていくだけなのに。

 やがて流星雨と呼べるほど絶え間なく降りはじめた天体のシャワーに、広場にいた誰一人としてもう声を上げなかった。流星を数えていた男の子も、一つ一つに感動して言葉を交わしていたカップルも、妻に星座を語り聞かせていた老人も。等しくみんな心を奪われていた。

 はあっ、と感嘆の吐息が目の前に白く浮き上がる。

 気がつくとわたしは息を止めていた。息苦しくてどきどきする胸をおさえながら、喘いでいた。

 朽ちかけの屋上の真ん中で、胸をおさえながら星空と向かい合っているうちに、自然と足がその先端へ向いた。

「あ、ちょ、ちょっと唯花」

 上擦った彼女の声を聞いたのは初めてだった。

 ほとんど見えない手すりから身を乗り出す。眼下には、摩擦で燃え尽きるには近すぎる地上が広がっている。

 わたしにも、あの輝きが出せるだろうか。瀬奈が選んでくれたテールスカートも、この暗闇ではワインレッドの深い赤もくすんでいた。あの星空を前にして、自分と比べることすら馬鹿らしくて、それ以上は前に進むことができなくなっていた。

 隣に並んだ瀬奈がそっと訊ねた。

「飛び降り、やめる気になった?」

 最初に実行日と場所を提案したのは彼女だった。

「嘘つき、裏切り者」

「そんなに拗ねないでよ」

 これ以上、口を開いたら子供っぽい拗ねた言葉しか出てこない気がして、もう一度わたしは星の雨を振り仰いだ。

 これから先、途方もない数の夜空を見たとしても、わたしを魅せたこの夜に遠く及ばないだろう。

 でも、そのたびに振り返るのも、案外悪くないかもしれない。

 この次の流星群は――。

 訊ねようと思って、結局やめた。今はただ、眺めていたかった。


 最後の星のひとしずくが、夜に堕ちるまで。




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