夜に堕ちる
双子椅子
夜に堕ちる 前編
――本当に悪いことばかりで、思い通りにならない人生でした。 かしこ
「『敬具』のほうがいいかな……」
「どうだろ。修正液ならあるけど使う?」
瀬奈が鞄の中身をぶちまけそうになったので、わたしは慌てて止めた。
「やっぱりいいよ。何度も書き直したって思われると、怖がってるみたいに見えるし」
遺書くらいは一筆書きでズバッと決めたい。本当は書くつもりがなかったけど、事故で落ちたおっちょこちょいに見られるのは嫌だった。
「本当に、瀬奈はいいの」
一緒に、と口に出すのは怖かった。錆びた手すりを持ったまま、瀬奈は体を反らしてわたしに振り返る。昼間はヒヨコのような色の長い金髪も、夕暮れを透かして大人びた深い金色を帯びていた。
「んー。まぁ、いいんじゃない?」
逆さ顔で髪をだらりと垂らして、事もなげに言う。
「そんな簡単に決めていいことじゃないでしょ」
「唯花がそう思うだけじゃん。唯花だって、受験が辛いから死ぬんでしょ? って分かった風に全部決めつけられると嫌じゃんか。あたしにはあたしの悩みもあるし、考えもあるよー」
塾をサボるのとはわけが違うのに、マイペースな調子は初めて会った時と変わらない。春から半年近い付き合いの中で、わたしが秘かに羨んでいる彼女の長所だ。わたしは何かほっとして、話題を変えた。
「さっきはすごかったね。瀬奈、プロの泥棒みたいにあっさり鍵を開けちゃったし」
瀬奈はにこっと微笑んで、それから少し照れくさそうに肩をすくめた。
「実は前から練習してたんだ。親の部屋とか、学校の用具倉庫とかで」
きっかけはSNSで流れてきたドアの鍵が解錠される断面図の動画だったそうだ。唯花もドラマや漫画で針金二本でガチャガチャするのを見たことがあったが、演出と思って気にしていなかった。筒状のシリンダー錠と呼ぶ鍵穴は、何本かのピストンの高さを調整すると簡単にロックが開く仕組みらしい。古い建物の、古い鍵穴ならなおさらだ。
「唯花もこっち来なって。そろそろ見えなくなるから」
誘われた瞬間、待ってと口に出しそうになって、瀬奈が景色のことを指しているのだと気がついた。顔を上げると、鉄が冷めるように、細い夕日を浴びていた雲が黒く染まりつつあった。
街を見下ろすことができる、ぼろぼろの展望台。遠目には何の特色もない、窓の少ない白壁の直方体だったが、その白壁も塗装の剥げた面との割合がぎりぎり勝っているだけで、お世辞にも美しい構造物とは言えない。
際立って高いわけでもないが、屋上まで登ってみると四階はゆうに超えている。気味が悪いくらい鳴いていた虫の声も、時おり山へ吹き抜ける冷たい風にかき消されていた。
今夜、わたしたちはここから飛び降りる。
瀬奈の隣に並んで、わたしは二度と見ることのない街並みを暗くなるまで見つめ続けた。
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