第6 アリの一歩とゾウの一歩

「なにこのミス。いい加減にして。ミスされる私の身にもなって」


 上司がペンで指摘しながら、私に容赦ない言葉を浴びせた。向けられたペンがみるみる伸びて、私の心臓を突き刺したのかと錯覚した。ミスはミス。私に責任がある。次は失敗できないというプレッシャーと失敗したらどうしようという不安が、負のスパイラルを形作り、私を泥沼へ呑みこもうとする。


「災難だったね。ミスは少ない方がいいけど、誰だってするもんよ」


 席に戻った私は隣席の女性、通称肝っ玉母ちゃんに慰められる。みんなが愛する肝っ玉母ちゃん。その温かさに、傷ついた私も癒されたのだ。


 その後なんとか仕事を終え、無事に帰宅した。その道中、私は近くのスーパーに寄り、1日のご褒美を購入する。たまにビール、同じ頻度で缶コーヒー、稀に抹茶アイスか抹茶ラテ。このローテーションである。今日は抹茶ラテ。クリーミーな甘みの中に、独特な苦味を感じる。このひとときがやめられない。


 抹茶ラテをたのしみながら、細々と流れる川を越え、道路に面したコンビニの横を通り過ぎ、街灯が多めの公園にたどり着いた。


 もちろん、ここは私の家ではない。私の家は少し先にある。小休憩とも言えるだろうか。近くのベンチに腰をおろし、背もたれに体を預けて上を向く。


「今日も1日疲れちゃったなー」


 小声で抑揚をつけて愚痴をこぼす。明日も仕事だ。憂鬱だ。けど今だけはゆっくり休もう。何も考えず、解放されよう。


 風が返事をするように、涼しげな空気を送ってくる。呼応するように木々もざわめき、少し賑やかになってきた。


「楽しそうでいいね」


 無意識に語りかけてしまったが、それに対する返事はなかった。まったく、冷たいんだから。


 ふと気配を感じ、周囲を確認する。特に不審な点は無かったが、何処からよじ登ったか、アリさんが一匹近づいていた。私は虫という存在があまり得意ではない。飛び退くようなリアクションをしたため、アリさんを驚かせただろうか。なんか変な声まで出ていた。


「アリさん、何用か。私は美味しくないぞー」


 アリさんは小さな足で地道に背もたれを登っていき、頂上にたどり着くと、じわじわと私の方へ迫ってきた。もう私はベンチに座ってはいないが、それでもアリさんの脅威から逃れられない気がした。


「来るならこい!」


 私もその気になってみた。アリさんのノリに付き合ってみた。適当に構えてみると、アリさんはそれを確認してか、頂点からぴょんと跳んでみせた。


 アリが跳ぶなど聞いたことがない。しかし実際に見たのだ。いや、風に飛ばされただけだったのか。けれど私にはそう見えた。アリが跳ぶように、そうみえた。


 帰宅してから、お風呂に浸かる。そこでも思い出すのはアリさんの大ジャンプ。どことなくカッコよくみえた。アリのジャンプ。アリのジャンプ。考えてもみなかった。アリもその気になれば出来るとでもいうのか。


「いつまで入ってるの!早く出なさい」


 母に怒鳴られた。お風呂の時間くらい自由に入らせてくれないものか。同じ家に住むのだから、毎回時間がかかっていることくらいわかるだろうに。


 仕方ないのでさっさと上がり、ご飯を済ませ、布団に潜り込んだ。明日も仕事だ。早く寝よう。今日はすんなり寝れそうだ。


 なんやかんやでお昼になった。寝坊したわけではない。怒られることもなく、特筆すべきことがなかっただけだ。


 隣席の肝っ玉母ちゃんが、私に声をかけてくれた。なんでも、昨日の夢が面白かったらしい。


「象がね、私の上を一歩で跨いでいくのよ。信じられないくらいでかいのよ」


 同じくらいでかい肝っ玉母ちゃんがなんか言ってる。いや言い過ぎか。


「私も昨日、面白いことがあって、アリさんのジャンプをみたんです」


「あら、アリとゾウなんて対照的でいいわね」


 不思議ねーなんて2人して言っていたが、私は何かあるんじゃないかと考えていた。まあ、特に答えも見つからず、記憶の彼方に消し去られるわけだが。


「アリの一歩もゾウの一歩も同じ一歩ってね」


「どういうことですか?」


「深い意味はないのよ、ただ、一歩の長さは他が決めるのであって、自分にとっては精一杯の一歩だからそれでいいんだ、って。私の祖父がよく言ってたわ」


 何気ない会話の一言は、私にとって、上司のペンよりも深く、奥深く刺さった気がした。ただ痛みはなく、不思議と心地よい。そんな気がした。

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一話完結小説群 KK_RICK @KK-RICK

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