星の生る木

緑茶

星の生る木

 ある時戦争が起きて、たくさんの人間が死んだ。私の恋人も、犠牲者のリストに名を連ねた。

しばらくの時が流れてから、私は疎開から戻ってきた。恋人が死んだ土地へ。


 枯れ草が一面を覆う台地の上に、まばらな建物たち。その奥には一面に広がる浜辺。私の家はそんな場所にあって、粗末な木造づくりのテラスからいつも海を見渡すことが出来た。

 一日の仕事が終わって、夕方には自宅に戻る。その道中、舗装の行き届いていない街路には人影も多くなく、空を見上げれば薄い橙と水色が全面に敷かれている。そしてその向こう側から、ゆったりとした波の音が聞こえてくる。

 いつもと変わらぬ、この土地の風景。私はそんな凪のような眺めを見ながらテラスに出て、グラスに紅茶を淹れる。それから、視線を浜辺に向ける。氷の溶ける鈴のような音色の狭間に、西陽を受けてきらきらと砂粒を光らせる浜辺が見える。サーフィンの客も、散歩する者も居ない。ただ波音だけがそこにある、静かな魔法の時。


 かつてそこでは大勢の兵士が死んだ。最も激しい戦闘のうち一つが、目の前の浜辺で行われたという。恋人も、その戦いに参加して――死んだ。


 浜辺を見ていると、その砂の上に、一つの影が浮かび上がってくる。それは私の幻視に違いない。やがて佇むのは、恋人の姿だ。

 私の未練が実存となってそこに浮かび上がり、砂の上で蜃気楼のようにまたたく。彼はどこも見ていない。人形のごとく突っ立っているだけだ。手を伸ばしても、声をかけても、届くことはない。私が生み出した、夕暮れのまどろみのように消える幻に過ぎない。

 分かっている、分かっているのに――私はその場所に目をやることを、やめられないのだった。


 ある時、いつものように夕暮れの中の潮騒へと耳を澄ませていると、浜の一角に奇妙なものを見出した。

 波打ち際から少し離れた、僅かに下草のある場所に、一本の長い棒のようなものが屹立している。そのそばには、痩せて背の高い、黒衣の老人が居る。

 昨日まではなかった光景だ。どうにも気にかかったので、その男のもとへ赴いた。


 老人は海風に長い裾をはためかせながら、やや斜めに傾いた長い棒を見上げている。


「何をしてるんですか?」


 彼はゆったりとした所作で顔をこちらに向けてくる。塩辛い風が強く拭いて、私は髪の毛を抑えつけた。


「わたしはね。星を植えているのですよ」


 そんなことを言った。意味をはかりかねて、聞き返す。


「星を、植えて……?」


「そう。夜空に浮かべるためのね」


 彼はそう言って、指を指す。見ると、棒は先端部分から枝分かれしていて、その先に幾つもの小さな黒い石がぶら下がっているのがわかった。


「これが……星、ですか?」


 とてもそうは見えない。


「ええ。そうですとも」


「何故、ここで植えるんですか」


 すると彼は一呼吸置いてから答えた。


「星の木はね。大勢の人間が死んだ場所でよく育つんです。どういうわけかは、わたしにも分かりません」


 一瞬脳裏に、見たこともない激しい戦闘の様子がよぎって、その中で何人もの人間が倒れていった。そこには恋人も含まれていて、私は死という言葉に対する抗力を失っていた。

 そのまま少し後ずさって、呼吸を整える。彼は私の様子を見てから、にこりとして言った。


「だから私はこの仕事についてからずっと、大勢の人間が死んだ場所に行って星を植えてきたのですよ。ここは、よく育つ」


 彼は満足そうに幹を撫でていた。そのような仕事をずっと続けてきたということは一体彼に何をもたらすのか。あまりにもスケールの大きなことを何でもないように語る彼の底が知れず、そして同時に……私は強い違和を抱え、嫌な気持ちを孕みつつあった。


「よく育つって、どういうことなんですか」


 私は拳を握って、彼に問う。

 老人はまた笑い、答える。


「沢山の思いが込められた死があればあるほど、星はその思いを吸い取って一層輝くのですよ。ここで大勢死んだのは悲しいが、彼らは皆、きっと……何かを思いながら死んだのでしょう。それは、残酷な運命の中にある、少しだけの希望と言えるかもしれませんな」


 私は言葉を聞いて、しばしその意味を考えた。導き出された返答は、ひとつだった。


「そんなこと……ありません」


 私は恋人を思い出していた。そのすべてとともにあったのに、ある時急に、全てから引き剥がされた。


「死は、何も生みません。あるのは私の未練だけです。私はここで恋人を失ってから地獄に居ます。それがきれいな星になんて、なるわけがない。死はどこまでも救いがなくて……私を、私達をこの地上に貼り付けて、何もかもを奪い続ける……」


 私は俯いて、暫くの間目から雫が垂れることにじっと耐えていた。砂粒の一部が濃くなるのが見えた。老人は黙っていた。風の音が聞こえて、かもめの声が響いた。波は、私の揺れ動きを意に介することなく、おなじ音色を奏で続けている。


「本当に」


 老人はようやく口を開く。


「本当に、そうでしょうか」


「え……?」


「私には、そう思えない。どうでしょう。今夜にはもう、星を打ち上げることが出来ます。あなたは、窓を開けて見ていただけませんか。その様子を。あなたの中で、何かが変わるかもしれない」


 彼は言って、枝の先の星を少し弄んだ。

 混乱するばかりの私をよそに、老人は帽子をとって会釈し、私に背を向ける。それから、いずこかへ去っていく。

 砂浜に足跡だけが残り、私は取り残される。海の音だけが聞こえる。


 日が落ちた暗い部屋の中で、私は時計の音を聞いている。そして、その静寂の中に流れる自分の過去を感じ取る。

 恋人と出会い、愛し合った日々。それから突然やってきた別れ。あまりにも唐突で脈絡がないままに。挨拶すらなく、彼は行ってしまった。彼のことを私は愛していたから、悲しかった。しかし今となっては、それ以上に憎んでいた。彼のことを。


「私はもう……忘れられないじゃない」


 机に突っ伏して涙を流しても、何も変わることはない。そのまま暗闇に埋もれて、眠ってしまおう。私はそうしようとした。


 その時。視界の端に、小さな光がひらめいて消えた。重い頭を上げると、窓のほうから薄いきらめきが漏れていた。薄明かりの中に橙色の帯。私は吸い寄せられるように窓辺へと向かう。そして、外に広がる光景を見た。


 浜辺の幹には幾つもの光の粒が重なりあっていて、それらが今まばゆい光芒を放っていたのだった。それは少し小高い場所である私の家からでもよく見えて、まるで蛍の光のように感じられた。幹のそばには老人も居て、慈しむように顔を上に上げて光を見ていた。


「あれは……」


 私が思わず声を漏らす。幹の枝についたものは、紛れもなく星だった。感嘆のうちに、またぞろ変化が起きた。光が、枝からぷつり、ぷつりと離れていく。そのまま、ゆっくりと上空へと浮かび上がっていく。


 そこからの光景は、夜の浜辺をまるで違うものへと変えた。光の粒はまるで流れるようにして、上空へと上昇。長い長い帯を中空に描きながら、藍色の空へと向かっていく。光が枝から離れれば、新たな光が生まれる。そしてまた、空へ、空へ。

 光は同じ方向へ飛ぶのではなく、視界いっぱいに広がる夜すべてに拡散していく。まるで打ち上げ花火のように光がまたたいていく。窓辺が彩りに染まって、室内には幾つものプリズムが差し込んでくる。その強い光が、浜を照らし、海面に模様のパターンを作り出し、家々の壁面をも染め上げていく。

 音などありはしないが、それは本当に日の花が盛大に上空へと咲き乱れるさまだった。


 光が上っていく。上りきった先で、大空に貼り付く。そして更に強い輝きを下界へと放射する。

 私は光景から目を背ける事ができない。何故だろう。その理由を考えた。あの老人が言っていた言葉の意味を考える。

 今私は何を見ているのだろう。何故、見続けているのだろう。私は今天へと上っていくこの光たちを見て、何を考えているのだろう。

 答えは、すぐに見えてきた。


 光のうちひとつが、私の目に留まった。他のすべてと何も変わらないはずだったのに、それだけが目についた。最初はわからなかったが、間もなく大いなる悟りの瞬間がやってきた。


「……あぁ」


 私は気付き、後ずさる。それから喉を震わせて、口元を手でおさえた。視界が涙で滲んで、止めどない滂沱がやってきた。なんということだ。こんなことがあるのか。

 

 その光の中に、恋人が居た。どういうことかはわからない。だが、確かにそういえた。その光は私が愛した人そのものだった。星になって、天へと上っていくのだ。


「ああ、どうして――そこにいるのは、あなたなの」


 街路を歩く人々は上を見上げ、日々の営みを終えようとしている人々は窓を開けて、その流星の群れを見ているようだった。

 街の灯は乏しいもので、暗い夜を明るくするほどには決してならない。しかし今宵は違っていた。空に咲く花々が、海辺の街全てを明るく照らし出していたのである。 それはどこまでも明るかったが、同時に、どこまでも柔らかかった。まるで、母のぬくもりのように。父の腕のように。あるいは、子供の微笑みのように。遠く離れた場所で光っているのに、ごく身近に感じられる光。

 そうだ――誰もが皆、きっと感じている。この光のひとつひとつに宿っているものを。


「あなたなの――そこにいるのは、あなたなの。死んだはずの、」


『そう、僕だ。――ずっと君に、わかれを告げようと思っていた』


 遠くに輝く流星から、声が聞こえたようだった。

 柔らかで低い、聞き馴染みのある声。誰よりも大切で、永遠の時を共に過ごしたいと願った存在の声。

 私はよろめきながら窓に手をかけて、星に言葉を叫んだ。


「あなたとずっと一緒に居たかった! それがかなわないなら、せめてあなたの死に目に逢いたかった――それさえ不可能になって、今私はここに居る! お願い、私も連れてって!! じゃなきゃ、私、呪われたままになる!!」


 すると光は、私の視界を飛び越えて、認識の部分に訴えかけた。すぐそばまでやって来て、私に向かって微笑んだ。彼そのものの笑顔で。


『そばにいてやれなくて、ごめん。でも、これからはずっと一緒だ』


「一緒じゃないじゃない、あなたはもう私のそばには――」


『寂しくなれば、空を見上げて。そうすれば、僕はそこにいる』


 呆然としたまま、言われるがままにした。夜空を見ると、そこにすべてがあった。


 光のカーテンが、藍色の上を覆い尽くして頭上に広がっていた。その光の一つ一つを、今や私ははっきりと認識することが出来ていた。

 すべては、かつて生きていた人々の姿をしていた。誰もが皆、軍服を着ていたが――もはや汚れも地もなく、存在していた時の姿そのものだった。皆、誰かの方を向いて、何かを語りかけていた。

 下を見れば、夜空を見ているすべての人々が、光とふれあい、もつれ合い、やがて別れあっていくのが見えた。

 そうか――私はようやく理解する。私の中から、何かが急激に洗い流されていく。


 皆、そこに居た。


 生きては居なかった。だが、かつてここに居た。そして今は、そこにいる。頭上に在って、私達それぞれと出会い、別れの挨拶を繰り返している。彼らはもはや心の奥底にこびりついた幻影などではなかった。現実の記録と記憶の中に、しっかりと記された『存在』だった。

 老人のやったことは、死を踏みにじることではなかった。生と死、その二つの事象に、そう大きな境界線は横たわっていないということを、今ここに在る全てに、理屈ではなく実感として教えたのだ。


 彼らは、恋人は、死んだ。しかしそれ以上に生きていた。そして、そこに在り続けていた。肉体は消え失せても、その輝きがある限り、私達は彼らがそこにいたことを決して忘れないのだ。今この輝きとともに、私たちは生き続ける。


 私は家を飛び出して、星を追いかけた。浜辺を裸足で駆けて、遠ざかっていく星を追いかけた。涙は流れ続けていたが、いつしか口の端に微笑みが出来ていた。何もかもが急におかしくなって、思いっきり笑ってみようと感じたのだ。どうせなら、裸になったってかまわない気持ちになっていた。


『忘れないで。――僕は、ここに居た。そして今は、そこに居る』


「忘れないわ! 私は絶対に忘れない! そして生きる、生きてみせる――!!」


 星は間もなく夜空に出迎えられた。しっかりと広がる藍色に抱きしめられて、そこを動かなくなった。恋人は、共に戦った仲間たちに歓迎されていた。

 追いかけてからしばらくして、私は彼の居場所を見失った。星空のなかの一つに過ぎなくなったのだ。

 しかし私は彼が傍に居ることを感じていた。立ち止まって後ろを振り返ると、砂の上に足跡が刻まれている。これまで私が過ごしてきた時間が、私のこれからを作り上げる。記録と記憶が、存在を形作るのだ。

 もう、心細さを感じることもなかった。

 私の時間は再び動き出して、未来へと歩みを進み始めた。

 満天の星空が、頭上に広がっている――。


 次の日からもう、浜辺に恋人を幻視することはなくなった。

 それと同時に、あの老人も姿を消した。またどこかに、星を育てに行くのだろう。

 死の世界でもがき続ける多くの命を救済して、生きている者達を前へと進ませるために。

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