第三章 盟主の覚悟
三章(1)
3-1
トグリーニ部族は、狼の末裔を自称している。
ハン・テングリ山の霊獣インカリアイとアルタイ山の黒狼が、我々の祖先だ。だからというわけではないが、俺達は、戦いの合図に狼の遠吠えを利用している。
言葉より遠くまで響き、狼煙より細かな情報を伝えられるので、便利なのだ。
今回吼えたのは、俺の親父だった。(また、怒られるな……)『敵襲!』と、
「親父!」
「トゥグス、この愚か者! 一体、どこに行っておった?」
やっぱり、怒られた。
俺達を見つけて、親父も馬を近づけてきた。ディオが、冷静に声をかける。
「
「おう、ディオ。良かった、探していたのだ。今までどこに?」
「それは、もういいでしょう。敵は、どこから来たのです? タァハルですか、タイウルトですか?」
「判らん。西から来たのは確かだが……。今、テディンが応戦している。奴等、ナフサ(火炎瓶)を使っておるのだ」
「ナフサ……」
やばいな。俺は舌打ちして、ディオを振り向いた。
大地から湧く燃える水を素焼きの土瓶に詰めた
『決して、夏には用いぬこと』
羊と馬が肥えなければならない季節に草原を焼くことは、冬に餓死することを意味している。
たとえ一冬をのりこえられても、太陽の光を充分うけられなかった草の根は枯れ、翌春めばえなくなり、草原を砂漠に変えてしまう。
遊牧民なら決して犯してはならない禁忌であるのに、何を考えているのか……。
ディオの答えは明快だった。
「我々を、餓死させるつもりだろう。つまり、本気ということだ」
「ディオ」
「急ぐぞ、トゥグス」
「ラー(了解)」
俺達が馬に鞭を当てようとしていると、もう一騎、こちらへ駆けて来た。
「長!」
ディオの眼が、すっと細くなる。俺にも聞きおぼえのある声だった。
「……ジョルメか」
「ラー! 若長、トグル・ディオ・バガトル。トゥグス様と
乗って来た馬が不釣りあいに大きかったので、最初、相手の姿が見えなかった。ジョルメは、トグル氏族の
ディオよりは年上だが、アラルほど離れているわけではない。精悍な眼差しのこの少年を、俺とディオは気に入っていた。こういう奴が居る限り、我々もまだ棄てたものではないと思えてくる。
ジョルメは、馬の首に抱きつくようにして駆けつけ、慌てて臣下の礼をとろうとした。ディオは、鷹揚に遮った。
「よい。そのまま話せ。どうした?」
「は、騎乗にて失礼します。テディン・ミンガンからの伝言です。――敵は、タァハル! タァハル部族の一派オルタイトと名乗る氏族を中心に、その数五百。後続もあるようですが、そちらは不明です。先鋒は軽騎兵。
俺とディオは、顔を見合わせた。こうまでジョクの予言が当るのは、不気味だった。
ジョルメは肩で息を継ぎ、叩きつけるように続けた。
「それから、盟主メルゲン・バガトルにも、お報せしなければならないのです。ボルド氏族の姿が、
「ボルドが!」
親父が、忌々しげに唸った。俺も苦虫を噛み潰したが、ディオの反応は違っていた。
「……面白い」
低い呟きに驚いて振り返ると、奴は
「タァハルを盾として、自分の庭(放牧地のこと)に戻ったわけだ。カザックを差し向けて、この俺に、ナフサで勝負を挑むとは。そうこなくては、殺し甲斐がないな」
「若長……」
「ジョルメ。親父に報告は不要だ。この程度のことは知っている。スブタイに伝えろ」
「お止めすればいいのですか?」
「そうだ。いや、お前は俺と来い。トゥグス!」
俺は息を呑んだ。ディオの瞳は、緑柱石さながら輝いていた。
「何だ?」
「トゥグス、伯父貴。テディンとスブタイと共にオルドウを包囲し、敵を一騎もなかへ入れないでくれ。俺達が戻るまで、重騎兵は盾となり、カザックを射落せ。タァハルは、俺達が追う。命に代えても、イリを燃やさせるな」
「判った」
「俺達が邪魔になるようなら、射落していいぞ、トゥグス。ジョルメ、来い!」
「ラー!」
ディオは、後半の台詞を嘲いながら言ってのけ、俺は苦笑した。――莫迦野郎。お前の冗談は、冗談になっていないんだ。
一陣の疾風となって駆け去る二人を見送り、俺は息をついた。
親父が、ほれぼれと言う。
「血筋だのう。あの馬の走らせ方など、バヤン殿の若い頃にそっくりだ」
「親父……」
この短時間に判断を下し、的確な指示を出せる者は、そういない。ディオはその点、父であるメルゲン・バガトルよりも高い評価を受けていた。猛将であった祖父を継ぐのは、彼しかいないと。
祖父の猛々しさと、父の聡明さ。二つを見事に受け継いだのが、ディオなのだ。しかし――
「親父」
「判っておる、トゥグス。我々の役割は、部族を守ることだ。心得ちがいをしている者に、それを教えてやろう」
◆◆◆
自分のいない場所で起きた出来事を語るのは、難しい。しかし、大事なことなので、タオやジョクから聴いた内容をもとに記録しよう。多少ぎこちないところは、ご容赦願いたい。
――敵襲の合図を聞くと、男達は日頃の仕事を放りだし、馬を連れて駆けだした。ユルテ(移動式住居)から、
羊を、女を、子ども達を後に残し、武器を手に走りだす。それらを守る為に。
無駄口をたたく者は、一人もいなかった。警戒と決起を喚びかける声の下、ある者は無言で……ある者は、唱和しながら馬を走らせる。やがて、草原に
その声を、シルカス・ジョク・ビルゲは、親友のユルテのなかで聴いていた。寝台の上に胡座をくんだ姿勢で。
瞬きもせずに宙を見据え、病人である為にうなじの辺りで切りそろえられた黒髪の下の耳に、意識を集中させる。動けないが故に鋭くなった彼の聴覚と想像力は、外の光景を、脳裏に鮮やかに描きだしていた。
男達の怒声がきこえる。子供の泣き声も。おし寄せる馬蹄の響きのあいだに、擦れあう剣の音を聴きとることが出来た。
悲鳴……何かが倒れる、重い音。くりかえす狼の唄が、次第に悲愴さをおびた。矢が、空を切る……。味方のものか、敵のものか、断末魔の叫び声。
それらが次第に近づいていると察し、ジョクは、周囲をみまわした。
彼は、独りだった。友とくつろぐ為に、従者を退けていたのだ。しかし、身を守らなければならないという切羽詰った不安はなかった。草を求めて移動をくりかえす遊牧民が、旅立つ前に忘れ物がないかを確かめる慎重さで、ゆっくり部屋のなかを眺めた。
忘れ物は……あった。
ジョクはまず、枕の下から書の束を取りだした。それから、ディオの剣――昨夜あずかった剣を手にとると、かすかに
片手に剣を、もう片方の手に書を持ち、再び視線をめぐらせた彼は、ディオの
「…………」
小鳥さながら首を傾げ、少し、悩む。彼の身体では、それらを全て持って行くのは難しい。
ジョクは、ひょいと肩をすくめると、残念そうに――いとおしむように羊皮紙の書をなで、それを枕の下に戻した。
ディオの剣を腋に抱え、両手で自分の脚を寝台から下ろす作業をしていると、扉が、乱暴な音をたてて開かれた。
「兄上! 御無事か? シルカスの兄上!」
「……何だ。お前か、タオ」
びくりと顔を上げたジョクは、息を弾ませながら柱につかまる少女を見て、表情を和ませた。
男達の流れに、時に逆らい、時に押し流されて来たタオは、疲れ、暫くは何も言えなかった。やがて、這うように彼へ近づいた。
「兄上、御無事か?」
「ああ、見ての通りだが……。お前こそ、大丈夫か。ディオはどうした?」
「トゥグス兄者と一緒に、戦いに行かれた。タァハルが、カザックどもを連れて攻めて来たのだ」
「そうか……」
「しかし、兄上。安心して下され!」
「それは困ったな。この剣をどうしよう?」 と、言いかけたジョクを遮り、タオは大声をあげた。ジョクは、目を丸くした。
先刻までへとへとだった彼女は、立ち上がり、威勢よく己の胸を叩いた。
「私が来たからには、大丈夫! 兄上にも言いつかっている。シルカスの兄上の御身は、私が守る! 安心して、任せて下され」
「……はあ」
安心もなにも。最初から不安など感じていなかったジョクは、きょとんとタオを見上げた。予想していなかった反応に、少女は鼻白んだ。
ジョクは、微笑んだ。鈴を転がすような笑声が、喉から漏れた。
タオが、ぷくっと頬を膨らませる。
「兄上?」
「ああ、ごめん。それは頼もしいが、困ったな……。ディオは、そういう意味で言ったわけではないと思うんだが」
「…………?」
「気を悪くしないでくれ。だが、お前が剣を択らなければならなくなったら、トグリーニは終わりだろう。おれも……そうさせないくらいの力は、あるつもりだ」
「兄上」
「だから、下がっておいで。お前が手を汚すことを、ディオも、喜びはしないだろう――」
途中から、タオは息を呑んでジョクを見詰め、一・二歩後退した。ジョクが、おもむろに立ち上がろうとしていたからだ。
剣を支えに、痩せた手を傍らの戸棚に置き、腕の力だけで衰えた身を引き起こそうとする。懸命なその表情に、少女は、手を貸すことも忘れた。
「あ、兄上」
「タオ。悪いが、枕の下の、おれの書を取ってくれ。それと、ディオのモリン・フールを」
「…………」
「一度立てたら、何とかなるんだよ」
立ち上がり、戸棚から手を離したジョクは、絶句している少女を見下ろして、にっこりと微笑んだ。
タオは初めて、ジョクの背が自分よりずっと高いことに気づいた。痩せているのと、いつも寝ている姿しか見ていないので、小柄だと思い込んでいたのだ。
軽く、打ちのめされる。
ジョクは既に疲労しはじめていたが、澄んだ黒曜石の瞳がこの上なく高貴に見えて、タオは呼吸を止めた。
「タオ、書を」
「あ、はい。兄上、どうなさるおつもりだ?」
タオは、慌てて書を抱えた。ジョクが剣を杖に歩き出そうとしていたので、さらに驚いた。
ジョクは、やや困惑したように彼女を見た。
「ユルテを出る。ディオやトゥグスが敗れるとは思わないが、敵は、火を用いているのだろう? ユルテごと焼き殺されるのは、御免だからな」
そう言うと、両足を引きずり、よたよたと歩き出した。
タオは、言葉を呑んだ。『手をかす』と――或いは、『手伝う』という言葉が、この場合、適切かどうか判断できなかったのだ。
ジョクは、少女の戸惑いすら理解し、こう促した。
「それを持って来てくれ、タオ。おれの後ろについて……。おれは、転ぶと起き上がれないのが、一番恐いんだ」
「はい!」
タオは迷いを捨て、彼について行った。ジョクは、一歩一歩、慎重に進んでいく。
不自由が当然のごとく淡々としている鳩子の横顔を見ていると、タオは、なぜ兄が彼を好きなのか解るような気がした。気難しい兄やトゥグスが彼をしたう理由が、解ったように思った。
「……ああ」
ユルテの戸口に着き、一歩踏み出したジョクは、溜め息をついた。タオも息を呑む。
男達の怒声と喚声にくわえ、燃えるユルテの煙が、すぐちかくまで迫っていた。
ジョクが咳き込んだので、タオは、彼を外に出さない方が良いのではないかと思ったが、すぐに考え直した。
『ユルテごと焼き殺されるのは、御免だ』 迅速に逃げられないジョクにとっては、留まる方が危険だった。一刻も早く、安全な場所へ避難しなければならない。
しかし、ジョクは剣を支えに立ち、すぐには動こうとしなかった。魅入られたように、煙に包まれた戦場を見詰めている。
タオは、はらはらした。
「兄上」
「族長!」
タオの声に重なって、男の声が響いた。二人は首を巡らせた。
「族長! シルカス様。ご無事でしたか」
シルカス族の者らしい三人の男達が、二人の前に駆けつけ、跪いた。
煤と血に汚れた彼等を見て、ジョクは、悪戯っぽい苦笑を血の気のない唇に閃かせた。
「遅いぞ、お前達。タオが来てくれたから良かったものの、おれが蒸し焼きにされたら、どうしてくれるつもりだったんだ?」
「申し訳ありません。すぐに馬を連れて参りますので、どうかお待ちを――」
「いや、いい。冗談だ、気にするな。それどころではないのは、判っている。……おれは良いから、お前達は、戦列に戻れ。ディオとアラルを助けてやれ」
タオは、目を瞠った。男達も、うろたえる。
「しかし、族長――」
「命令だ、下がれ。おれにかまうな。この非常時に、するべきことを忘れたわけではあるまい? それとも、シルカス族は自力で動ける者にまとわりついて、老人や負傷者を見殺しにしたと、末代まで
「…………!」
男達は、はっとして顔を見合わせた。それから、深々と一礼して駆け去った。
彼らを見送るジョクの誇らしげな横顔を、タオは、半ば呆れて見詰めた。それは、この鳩子に対する、畏怖に近い感情だった。
「……行こうか、タオ」
ジョクは再び咳きこみ、にがい声で言った。
「蒸し焼きは免れたが、燻製にされそうだ」
「ラー」
二人が歩き始めた時、傍らを飛んで来た火矢が、トゥグスのユルテ(移動式住居)に命中した。炎は、あっという間にユルテをつつんで燃えあがり、黒煙を巻き上げた。
「…………」
「…………」
タオとジョクは顔を見合わせたが、もはや成す術がなかった。幸いなことに、オルドウ内でもユルテどうしは離れているので、よほど風が強くなければ、近隣に燃え拡がることはない。
かくなるうえは、窒息せぬうちにこの場を離れるのが賢明だった。
二人は、オルドウの中心へ向かって、ゆっくり歩を進めた。荷物は、ジョクの書と、ディオの剣と馬頭琴だけだ。
風になびく煙を横切り、倒れたユルテの柱と
『盟主?』
濃紺の
ジョクは、彼の眼差しの厳しさに戸惑い、声をかけるのを躊躇した。
「どうなされたのだ? 兄上」
「ああ。いや――」
タオに声をかけられて、ジョクは諦めた。少女は、父に気づいていない。
『逃げるつもりなら、とうに逃げているだろう。
こんな所で何をしているのか不思議だったが、今は自分と少女の身の安全を確保するのが先決だった。
ジョクは、タオを促して歩きだした。去り際に、もう一度メルゲンを観たジョクは――盟主の痩身が、煙にまかれて消えてしまいそうな錯覚に襲われた。
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