二章(4)
2-4
「兄者、シルカスの兄上。起きて下され。
「…………?」
「兄上!」
翌朝、俺達は、タオのきんきん響く声に起された。正確には、俺とディオの二人が。
ジョクは日の出とともに目を醒まし、寝台に起きあがって書を読んでいた。明け方まで飲みつづけ、絨毯に転がって眠っていた俺とディオが、被害に遭った。
そう言えば、この娘のことを、俺達はすっかり忘れていた。タオにしてみれば、葬儀を終えて穢れを祓った父達がみな
夜が明けるのを待ちわびて、俺のユルテ(移動式住居)にとんで来た。案の定、そこに兄が寝ていたというわけだ。
「兄上! やはり、ここにおられたな。心配していた。怪我などしておられぬな? お帰りなさい! 長城はどうであった?」
「何だ? いったい――」
不運なのは、ディオの方だろう。寝不足のところを叩き起こされ、わけが判らないでいるうちに金切り声でまくしたてられ、目を白黒させた。
「タオ?」
「そうとも、私だ! 寝ぼけておられるのか? 妹の顔を見忘れたか? 私は忘れてなどおらぬぞ。お帰りなさい、兄上! 何故、顔を見せに来て下さらぬのだ?」
「…………」
「母上と伯父上も、待ちわびていたのだぞ。私も! ……どうなされたのだ、一体。不思議そうな顔をして」
元気いっぱいのタオに圧倒されて、ディオはずるずると後退し、寝台に背中をぶつけた。抱きつかんばかりに迫ってくる妹を、目を丸くして見上げている。
ジョクが、声をあげて笑いだした。俺も、思わず笑みをこぼした。
タオが、ぷくっと頬を膨らませる。
「何がおかしいのだ? シルカスの兄上」
お前が可笑しいんだよ、お前が。
「ああ。いや、ごめん。それくらいで止めておけ、タオ。ディオが怯えている」
「失敬な! 誰が怯えていると……。そうなのか? 兄上」
ディオはまだ驚いている様子で、息を殺して妹を見詰めるばかりだった。(この辺になると、いい加減、悪ふざけもあろうが。)
タオはうろたえ、本当に泣きだしそうになった。
「そんなに驚かれたのか? 何か、気に障ることを申し上げたか?」
「…………」
「私はどうすれば良いのだ。正気にかえって下され。お願いだから、何とか言って下され!」
ここまで来ると、流石のディオも我慢できなくなったらしい。肩をふるわせて笑い始めた。なめらかでよく通る声が、ユルテの天窓を突き抜けて響いた。
眼尻に涙をうかべて笑う兄を、タオは呆然と見守った。
「兄上?」
「……ああ、参ったな。すっかり目が醒めてしまった。昼過ぎまで寝ているつもりだったのに。トゥグス」
「何だ?」
「もう一度寝なおすのは、勿体無い。遠乗りしないか? オルドウを外から眺めるのも、悪くない」
「いいとも」
「遠乗り?」
立ち上がる俺達を見て、タオも瞳を輝かせた。ディオのことだから、きっと妹の気持ちを思い遣った提案なのだろうが、そんなことを素直に表現する奴ではない。
ディオは、妹に対しては、いつもかなり素っ気なかった。
「出掛けるのか? 兄上。私も一緒に行っていいか?」
「勝手にしろ。ついて来られるのならな」
「あん! もう、待って下され。兄上!」
俺達を、ジョクは微笑んで見送っていた。
*
「兄上、トゥグス兄者! 待って下され!」
『
一点の曇りもなく晴れた蒼天を仰いで、俺はそんなことを考えた。
ユルテの外に馬を繋いでいた俺達とは違い、愛馬を連れて来なければならなかったタオは出遅れたが、すぐに叫びながら追って来た。口調は乱暴だが、笑っている。
少女の馬は、小さな窪地をいくつか跳び越えて、あっと言う間に俺達に追いついた。
俺とディオは顔を見合わせると、
タオは、ひっきりなしに高い笑声をあげている。
「待って下され、兄上! ……兄者、置いて行くぞ!」
ディオが本気になると、体重が倍ちかい俺を乗せた馬では、追いつけない。やむなく速度を落とした俺達のかたわらを駆け抜けて、タオは兄に並んだ。そのまま、一緒に駆けて行く。どんどん速く、飛ぶように……。
いつか、真夏の草原を渡る風のように馳せる二人と二頭を、俺は、眼を細めて眺めていた。
美しいと思った。感動している自分に気づき、驚いた。
どこまでも、どーんと広い草原の鮮やかな緑に、空の青が反射する。光が、風と一緒になって、草の上を滑って行く。その上の、わずかに透明な風の神の庭園で、二頭の獣が駆けている。
自在に馬を操り、跳ねまわる二人は、それぞれが一頭の獣のようだった。草原に染まったような緑の瞳を輝かせ、艶やかな黒髪をなびかせて……。
本当に美しい兄妹だった。タオもディオも、今が盛りの若い生命力に満ちていた。
――などと、盛りを過ぎた男が一人で感傷に浸っていると。草原をぐるりと一周して、二人は俺のところへ戻って来た。
馬たちもすっかり息を切らせ、汗びっしょりになっている。
「はあっはあっ、兄上……少し、休もう」
「……そうだな。流石に、寝起きは辛い。トゥグス?」
「あ?」
「何やっているんだ? お前。こんな所で」
「いや、ちょっと……。月日は無情だなあ、と思って」
「はあ?」
馬から降り、両手を膝にあてて呼吸をととのえていたディオは、怪訝そうに俺を見た。顔にかかる辮髪を煩そうに肩に放りあげる奴に、俺は、水の入った革袋を手渡した。
「そのうち、お前にも解るようになる」
「何のことだ。なにを『じじむさい』ことを言っているんだ、お前」
「…………」
話題をかえよう。
「ずいぶん速く走れるようになったなあ、タオ」
「そうか? 兄者に褒められると、嬉しい。だが、私の技が上達したのではなく、コアイが良い馬なのだ」
「コアイ?」
栗毛の馬の首を抱いて、得意げに微笑するタオ。ディオに訊かれて、さらに瞳を輝かせた。
「父上にお願いして、いただいた。ジュべ(メルゲン・バガトルの馬。後のトグルのジュべの父馬)の弟にあたる。私が育てたのだぞ、兄上」
「……ふうん」
ディオは、大して感銘を受けた風もなく聴いていたが、タオが声を弾ませて言った次の台詞には、驚いた。
「コアイと一緒なら、私も、兄上と共に戦えるかな?」
「…………」
「まだ、ボルテ(ディオの馬)について走るだけで精一杯だが。私がもう少し大きくなったら、父上は許可して下さるだろうか?」
「……何?」
ディオの眼が、糸のように細められた。低い声が呆れて囁く。
俺も、咄嗟に何と言おうか考えた。
「おい、タオ。何を言っているんだ?」
「私も、兄上と一緒に戦いたいのだ」
「…………」
「父上と共に、戦場に出て戦いたい。我々をおびやかす敵を、この手で倒したい。
『良いだろう?』などと言われても……どこから、そんな発想が生まれたことやら。
俺とディオは、呆然と顔を見合わせた。
「……お前、そんなことを、父上に申し上げるつもりか?」
「いけないのか? 兄上とて、従軍したのは八つの時だろう? 私はもう十一だ。早すぎるということはあるまい」
「…………」
ディオは首を横に振り、苦虫を噛み潰した。我々を置いて、歩き出す。無理もない……赤ん坊だったタオは、兄が幼くして従軍することになった理由を知らないのだ。(誰も教えてはいないし……一体、誰が教えられる?)
頭ごなしに否定しなかったのは、奴なりの思い遣りだったろうか。
「兄上?」
タオは不安になったらしく、
「兄者。兄上は、どうなされたのだ? 私は、何か気に障ることを申し上げたのだろうか?」
「多分、お前のことが心配なんだろう」
俺は、こう言ってなだめることにした。
「心配?」
「そうだ、タオ。お前は、ディオのたった一人の妹だ。そのお前が従軍して、傷を負ったり、万一命を落すようなことになったら、と、考えるのは当然だろう?」
タオは首を傾げた。納得はしていないらしい。――ならば、ディオやメルゲン叔父は、タオにとってどうだと言いたかったのだろう。
だが、実際の戦場が、タオや女達が想像するほど生易しい処ではないことも、事実だった。
自分の行動が妹を傷つけたと思ったのだろう。ディオは足を止め、俺達が追いつくのを待ってくれていた。些か決まり悪そうに、口元を拭っている。
俺はディオに肩をすくめてみせると、タオの背を軽く叩いて促した。人の好いタオは、それ以上こだわる様子を見せず、嬉しげに兄に駆け寄った。
「兄上!」
「……そろそろ帰って食事にしよう。タオ、トゥグス。……ジョクが待っている」
「そうだな」
ディオに手綱を渡そうとした俺は、人の声に気づいて動きを止めた。タオも、そちらを向く。
俺達と同じように、朝の空気を吸いに来たのか。一団の男達が、
俺達と違うのは、連中は馬を連れず、全員徒歩ということだった。人数は、倍以上。女はおらず、みな俺より年上に見えたが、老人ではない。メルゲン叔父と同年代くらいだろう。時折、鐘が割れるような声で
その声と口調から、全員が酔っていると俺は気づいた。
「兄上。あれ――」
不安げなタオの声に、ディオも、ちらりとそちらを見遣った。うすい唇を歪め、囁く。
「邪魔をすると、悪い。帰ろう」
俺とタオは、顔を見合わせた。
おそらく、兵士達だ。従軍の任を解かれ、
あまりの下品さに、タオは眉根を寄せた。
「まったく、やってられねえよな。親父を殺された途端に、尻尾を巻いて逃げ出すとは。
「奴は、以前からそうだろう? 二度も女を寝とられて、泣き寝入りしたって言うじゃないか」
「あーあ! お陰で俺達は、いつまで経っても、安心して酒が飲めない。いつまでこんなことが続くんだ?」
「ずっとだろうよ。バヤンが死んで、近隣諸族は、ここぞとばかりにイリを狙っている。メルゲンの臆病者に、抑えきれるものか」
「息子が居るだろう?」
「誰の息子か判るもんか! 本当に、メルゲンの子供なのか? 奴はタイウルトの血だと、専らの噂だぜ。いざとなれば、イリを奴等に売って逃げ出すかもしれん」
「まだ子供だからな」
「おうよ! 親子揃って臆病者に率いられるようじゃ、トグリーニは終わりだ。いっそ、
「しーっ! 声がでかいぞ、おい」
……ディオは無表情のまま、連中に構わず歩き出した。酔っ払いの言うことを、いちいち真に受けるのは、莫迦莫迦しい。
俺は、背筋が凍る心地がした。男達の服装と訛りから、俺の氏族の者だと判ったのだ。
タオは、明らかにムッとしている。兄が相手にしていないので、不満げな表情でついて行った。俺も――きっと後でとっちめてやる、とは思ったが。
奴らは俺達に気づいていなかったので、そのまま放っておけば、何事も起こらなかっただろう。
「あーあ! やっていられない。どうして俺達ばかり、苦労しなけりゃならないんだ?」
「部族を守る為だろう?」
「その部族だ。本当に、守るほどのものか? 女・子供はともかく、役に立たない連中が多過ぎやしないか」
「どういう意味だ?」
「病人だよ、病人。それと年寄り! あの無駄飯ぐらいの連中の為に、どうして俺達が苦労しなくちゃならないんだ」
「仕方がないだろう。産まれちまったものは」
「昔は、殺していたぜ。足手纏いだからな。どうしてこんなに増えたんだ? もう、部族の半分ちかくになるんじゃないか」
「仕様がないだろ、族長からしてそうなんだ。……シルカス族長が生きている限りは、何を言っても無駄だと思うぜ」
ディオの足が止まった。表情は変わらなかったが、凍ったように立ち尽くす。
俺は、ぞっとした。ディオにではなく、男達の言葉に含まれた、悪意に。
「やっぱりそうか? メルゲンの女房もだよな。まったく、どうかしているぜ。半分死んでいるような連中の為に、なんで俺達が、あくせくしなきゃならないんだ」
「早く死んで欲しいよな。どうせ死ぬんだから。役に立たなくなった連中は、邪魔になる前にくたばって欲しい」
「くたばる前に、少しは役に立てよ」
「どうするんだ? オルドウから放り出して、長城のように敵の前に並べるか?」
「それがいい!」
下卑た嘲笑が辺りに響き、タオは、怒りに青ざめた。
「兄上」
「……先に行け」
ディオは、低く言い捨てて歩き出した。男達の方へ。
「おい、ディオ」
俺が止める間もあらばこそ。ディオは、一直線に男達の前にすすみ出た。
「何だ? 貴様」
酔っ払いどもも、ディオに気づいて立ち止まった。兄に駆け寄ろうとするタオを、俺は引き止めた。
無表情に男達を見わたし、ディオは、圧し殺した声で訊ねた。
「……今、話していたのは誰だ?」
「何だ? 小僧」
「質問に答えろ。今、話していたのは、誰だ」
「何だよ。文句でもあるのか?」
「兄上!」と、叫ぼうとしたタオの口を、俺は塞がなくてはならなかった。さらに、俺の背に隠す。
酒の匂いをぷんぷんさせながらディオに詰め寄った男達だったが、若いと見た相手が、自分達と同等かそれ以上に大柄なことに気づいて、鼻白んだ。
「貴様、何者だ?」
ディオは、連中の反応には構わずに、涼しい視線を中央の一人にあてた。
「……お前か?」
「喧嘩売ってやがるのか、小僧」
「お前か。確かに言ったんだな。……そうか」
「…………!」
「ディオ!」
俺が止める暇は無かった。――誰にも出来なかっただろう。
言うが早いか、ディオは、すっと身を沈め、男の懐に跳び込んでいた。そのまま、右手の拳を相手の顎に叩きつける。声も立てずにすっ飛びかけた男の左脚を、右足で器用にすくうと、外向きに捻って力任せに地面に叩きつけた。
トラン(古代拳法*)の名手であるディオにとっては他愛もない技だったが、男は悲鳴を上げた。ディオの足の下で、男の左脚は鈍い音をたて、あっさり折れた。
「ぎゃあっ!」
「貴様! 何をする!」
掴みかかった別の男の顔面に、ディオは肘をめり込ませたので、相手は成す術なく吹き飛んだ。地面に倒れ、血まみれの顔を覆ってのたうちまわる男を、ディオは平然と見下ろした。
他の男達は恐れをなし、近づこうとはしなくなった。
俺は生唾を飲み込んだ。――いかん。目が据わっている……。仮面のような顔で口調も静かなのだが、こんな時のディオは誰よりも恐ろしいということを、俺は知っていた。
ディオは、倒れた男の折れた脚を、容赦なく踏みつけた。
「ぎゃああ!」
「……もう一度、言ってみろ」
「…………」
「さあ。先刻話していたことを、もう一度言え。お前の右脚を、折ってやる」
「…………」
「それから、右腕、左腕だ。シルカス族長のように両手両足を失って、それでも同じ事が言えるなら、お前の言い分を認めてやる」
「…………」
「どうした。言えないのか? そんな覚悟もないくせに、ジョクの名を辱めたのか。……ならば、二度と話せぬよう腐ったその口を潰されても、文句はないな」
言うもなにも。痛みと恐ろしさに蒼白になって震えている男に、口を利くなど出来ないことは、一目瞭然だった。
タオも震えていた。おそらく、初めて目にしたのだろう、兄が本気で怒った姿に、怯えている。
俺は、止めなければならなかった。男の脚は(おそらく、血管を傷つけたのだろう)どす黒く腫れあがり、放っておけば治らなくなるかもしれなかった。このままでは、ディオが殺しかねない……。
その悲劇だけは、避けなければならなかった。
俺は、口の中いっぱいにひろがった苦汁を呑み、声をかけた。
「ディオ。そのくらいで止めておけ。そいつも判ったろう。……充分だ。お前がそこまでする必要はない」
「…………」
「止めるんだ、ディオ。ジョクは、かえって悲しむぞ。お前が本気で相手をしてやる値打ちなど、ない相手だ」
「…………」
「……『ディオ』?」
男達が気づいた。恐れ、遠巻きにして囁き合う。俺の顔を思い出した者もいた。
俺は、ますます居た堪れない気持ちになった。
「『トグル・ディオ・バガトル』?」
「若長?」
「……おゆるしを」
脚を折られた男が、震えながら囁いた。先刻までの勢いはすっかり失せ、掠れた声で乞う。
ディオの頬が、わずかに動いた。
「どうか、救けてくれ……」
眼を細めて男を見下ろしたディオは、踏んでいた足を外し、ゆっくり後退した。一歩、二歩……。疲れたように、溜め息をつく。
「ディオ」
俺がホッとして呼びかけると、奴は首を振り、踵を返して歩きはじめた。道をあける男達の間を通り過ぎ、俺とタオの前を横切る。
一度も俺達を振りかえらず、速度を上げて走り去った。
俺は溜め息を呑んだ。
倒れている男に視線を戻した俺は――こみあげる不快感に、唾を吐きかけてやりたい気持ちになったが、我慢して命じた。
「連れて行け。さっさと、オルドウへ帰れ! 戦は、まだ終わってはいないんだ」
仲間の男たちは、大急ぎで負傷者をたすけ起こすと、逃げるように去って行った。
俺は、心配げに兄の去った方角を観ているタオに、声をかけた。
「タオ」
「ラー」
馬に乗りながら、俺は、自分の言葉が己自身を傷つけるのを感じた。――そうだ。
『戦は、まだ終わらない』 ジョクが言っていたではないか。
今に始まったことではないと……。
*
ディオは、そう遠くへは行っていなかった。俺達は、低い丘を一つ越えたところで、奴の馬を見つけた。
日差しの中で、ボルテはゆっくり草を食んでいた。その傍らに座り込み、ディオは
馬から降りて近づいたものの、俺達は、何と言えばよいか判らず、顔を見合わせた。
しかし、いつまでも放っておくわけにはいかない。タオが躊躇いつつ声をかけた。
「兄上」
「…………」
「兄上……。オルドウへ、帰ろう。シルカスの兄上が、待っている」
「…………」
「兄上?」
「ディオ」
タオの呼びかけにディオは応えず、俺が呼ぶと、ますます深く顔を埋めてしまった。
俺とタオは、奴の両側に腰を下ろした。
「……済まない」
ディオは眉間に皺を刻み、美しい瞳を悲しげに曇らせていた。低い声で囁く。
「迷惑を、かけた。済まない」
「いや……」
「あんなことを、するつもりではなかったのだ。必要は、なかった。判っていたのに。自分で自分が、止められなかった」
「お前のせいじゃないさ」
俺は努めて明るい口調で言って、ディオの背に掌をあてた。
「お前が悪いんじゃない、ディオ。お前が行かなければ、きっと、俺が奴等を殴っていた。だから、気にするな」
「……嘘をつけ」
ディオは、やっと弱々しい苦笑を浮かべてくれた。溜め息まじりに応える。
「お前はしないさ、絶対に。何を言われようと、トゥグスが、あんなことをするはずがない」
俺は片方の眉を持ち上げた。
「どうして、そう言える?」
「お前には、子供が居る」
「…………」
「女が居る……。守る者がいる奴は、他人を、ああは扱わない」
「それはどうかな。お前にも、守る者がいるだろう?」
タオが、ジョクが……。だから、連中の言葉に本気で怒ったのだろう?
ディオは、ゆっくり首を横に振った。再び溜め息をつく。俺は、かける言葉を失った。
「ディオ」
「解っている、トゥグス。お前の言いたいことは。……ラーシャム(有難う)。だが、自分がしでかした事がどんな事かぐらい、承知している。俺が悪い。あんなことを、するべきではなかった」
「…………」
「言わせておいてやればよかった。ジョクの面前で言ったわけでなし、あれでも気を遣っていたのだろうからな。……偽らざる気持ちだろう。酔わなければ言えないことを俺が咎めては、奴等は不満のやり場をなくす。鬱積した感情は、かえって良くない結果を招く」
「…………」
「奴等の言い分も、正しいのだ」
俺は、何も言えなかった。ディオが賢いことは知っていたが、優しいことを忘れていた。
ディオは、優しかった。時として、自分自身を傷つける程。
両手で顔を覆い、ディオは、独語のように続けた。
「奴等が正しい……。族長は、所詮、民の所有物でしかないのだから。役に立たなければ、棄てられて道理だ。そうでなければ、生き残れない……。いったい誰が、必要のない者の為に狩りをし、獲物を捕らえ、羊を養うのだ。そんな余裕が、どこにある。戦場では、己を守るだけでもやっとなのに」
「ディオ」
「だが、ジョクは、本当に何の役にも立っていないのか? 老人達は、我々のために戦って来た者たちではなかったのか。病者は――奴等が居なければ、いったい誰が、俺達のして来たことの正当性を証明するのだ。あの子供らを支えに生きている母親達は……。ジョクが居なければ、誰があの者達を支え、勇気づけてやれるのだ」
「ディオ」
「誰が、俺を支えてくれる……親父を。戦場で命を落とした者達を、誰が弔ってやれるのだ――」
「もういい、わかったから。……黙れ。もう考えるな。悪かった」
「…………」
「悪かった。お前を混乱させるようなことを言って。あんな連中を出したのは、俺の監督不ゆきとどきだ」
俺が肩を抱いて揺さぶっても、ディオは眼を閉じ、溜め息を繰り返すばかりだった。無言で首を横に振る。
俺は、昨夜あんな話をしたことを、心底後悔していた。自分に腹を立てていた。――あの男達に。
それすらディオを悲しませると、俺は知っていた。
奴は、微かに嘲って言った。
「お前のせいじゃない、トゥグス。お前は、一所懸命やっている。連中が腹の中でどう思っていようと、お前の知る由のないことだ。俺も……知りたくもない」
「…………」
「それより、俺が脚を折った男に、向こう一年間の兵役を免除してやってくれ。傷が癒えるまで……。俺の羊を、欲しがるだけ償ってやってくれ。家族が困るだろう」
「いや、それは多すぎるな」
奴が
笑って応じるくらいのことは、俺にも出来た。
「あれは立派な不敬罪だし、お前は剣を帯びていない。ただの喧嘩には、羊五頭で充分だ。それ以上やると、つけ上がる。……いや、あの野郎には、三頭でも多いくらいだ。俺が許す。三頭でいいぞ、ディオ」
「こいつ……」
俺のおどけた口調に、ディオは、唇を歪めて嗤った。ホッとしているタオの頭に右手を載せ、軽く叩く。
珍しい兄の愛撫に少女は瞳を輝かせたが、ディオは、すぐに止めてしまった。
ディオは、俺達から視線を逸らし、表情を消して考えこんだ。奴が振りかえり、何事かを言いかけた時、風に乗って狼の唄が聞えた。
戦いの合図だ。オルドウの方角からだった。
「……まったく。次から次へと」
俺は舌打ちをした。
ディオは、息だけでフッと嘲い、真顔に戻った。ボルテの手綱を引き寄せ、みじかく言った。
「仕事だな、トゥグス」
「ああ」
「タオ」
「はい?」
「お前は、ジョクの許へ行け。すぐに。奴に報せるのだ」
「ラー(了解)!」
「行くぞ、トゥグス」
俺達は、各々の馬にとび乗ると、オルドウへ向かって駆け出した。
*作者注:『トラン』=古代拳法。現ウズベキスタン共和国の国技『サンボ』のルーツの一つ。カンフーのような動きが特徴。
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