二章(3)
2-3
だいたい、ディオという男は、人づき合いが苦手である。
人間が嫌いなわけではないと思う。嫌いなら、あのように、俺やジョクに懐いたりしないだろう。ただ、幼い頃に母親から引き離され、ずっと戦場という環境で独り暮らしを続けているから、慣れていないのだ。
それ故、恐ろしいほど無口で、無表情だ。まあ、メルゲン叔父の血もあるのだろう。
奴は、自分が一風変わっていると、ちゃんと承知している。だから、他人といると、ずいぶん気を遣う。無口なくせに、沈黙を嫌って喋ろうとするのだ。その結果、疲れてしまうらしい。(うーむ……。)
俺やジョクといる時も、三日もすると疲労して、口数が減ってくる。遂には黙り込んでしまう。すると、今度はそれを気に病むので、結局、独りで居たくなるらしかった。
世間では、こういう者を『莫迦』と呼ぶな。……呼んでもいいぞ。
こうした理由から、奴は、身近に
しかし、この日のディオは饒舌だった。ジョクが居たせいだろう。
俺達は、毎年、ナーダム(夏の祭り)の時期以外は会うことがない。今年は戦のせいでナーダムはなかったが、会うことが出来た。奴にしてみれば、祖父の葬儀が済んで、ホッとしたのもあるだろう。
ディオが荷物(着替えと食糧と馬頭琴)と馬を持ってきて、ジョクが夕食用に羊を一頭提供してくれたあたりから、話がおかしくなって来た。
ジョクにもよく見えるようにユルテ(移動式住居)の扉を開け放ち、表で羊を殺す作業は、ディオがやると言い張った。(本来は、主である俺の仕事なのだ。)
無駄な血を流さぬよう、肋骨と横隔膜のつけ根を切り開き、そこから手を挿し入れて心臓から出る太い血管を握りしめる。ディオの手際は見事だった。羊が絶命するまでの間、しみじみと俺を見て、こう切り出した。
「お前、太ったのではないか? トゥグス」
どき。
「そう見えるか?」
「ああ。昨夜は気づかなかったが……。また、ひとまわり大きくなった気がする」
どきどきどき……。
俺が黙っていると、ユルテの中から、ジョクが笑いながら口を挟んで来た。
「幸せ太りなんだよ、トゥグスは。何しろ、奥方が三人だ。なあ?」
「そうか、やっぱり。どうりで顔色がいいと思った。……羊より美味そうに見える」
どういう意味だ?
ディオは、脂でべとべとになった手で俺を指し示した。
「トゥグス。お前、ちょっとそこの棒を抱いて回ってろ」
「棒?」
「そうだ。
……あのな。
「嫌だよ、ディオ。トゥグスじゃあ、肉が硬そうだ」
「そうか? 俺よりはマシだろう?」
「……お前は、
「だろ。その点、こいつは、ほどよく脂がのっていそうだ。……まったく。どこをどうしたら、そこまですくすく大きくなれるんだ」
「…………」
褒められているのだろうか?
何だか酷い言われようだが、ディオも、他人のことは言えない。こいつは、ここ二年で頭一つ分背が伸びて、今では俺と並ぶのだ。草原の男は概ね大柄だが、特に俺は、大きい方
「トゥグス。鍋」
「おう」
「そうは言うが――」
話しながらもディオは手を休めず、羊の解体は順調に進んでいた。俺のさし出した鍋に、腸管と肝臓をのせる。心臓を天に捧げ、祈りながら切り開くと、溢れた血がデールに懸かったので、ディオは軽く舌打ちした。
「何度やっても上手くならないな、俺は……。トゥグス。お前の体重は、俺の倍はあるだろう。冗談抜きで、どうしたら、そんなに筋肉をつけることが出来るんだ?」
「何だ。太りたいのか、お前」
「ああ。……重騎兵に吹き飛ばされるのは、飽きたからな。もう少し重くならないと、やっていられない」
俺は、腸管に血を詰める作業を中断して、ディオを見た。
「……そんなことが、あったのか」
「ケレ(タイウルト部族の一派)に、一度。タァハルに、一度。二度目には頭を打って、三日分の記憶もすっとんだ。伯父貴に助けられたが。三度目には殺されそうな気がするな」
「そういうことを、どうして言わない?」
「言えば太れるのか」
ジョクが穏やかな笑い声をたてた。
内臓をさばき終えたディオは、羊の皮剥ぎにとりかかった。皮下の脂肪層に素手をさし入れ、力任せに裂きながら、自嘲気味に唇を歪めた。
「情けないぞ。アラルと一緒に苦労して作った囲みを、一瞬で突破されてみろ。本当に『トホホ……』だ。同じものを喰って、同じことをしていて、何故、こんなに違う?」
「それは――」
「腹の中に、虫でも飼っているのと違うか?」
「お前がまだ若いからだろう」 と俺が言うより先に、ジョクが言った。ディオの手が止まり、鋭い眼がまるく見開かれる。言い返す声に笑いが交じった。
「ジョク。言ってくれるな」
「確かに、そうかもしれんな。そうでなければ、素通りしているとしか思えん」
「トゥグス。悪かったな、大喰いで」
ディオは苦笑したが、瞳は明るく輝いていた。俺には、奴がはしゃいでいることが良く判った。
「さて。では、自己申告しろ。誰が、どこの肉を喰う? 言わなければ、全部、俺が貰うぞ」
そういうわけで、肉の分割と夕食が始まった。
胸と腹部の少ないが柔らかい肉は、ジョクに。肩や大腿、脚などの多いが硬めの肉は、俺とディオが貰った。血を詰めた腸と肝臓を塩茹でしたものは、三人で。あと、ジョクは何も言わなかったが、ディオが苦労して取り出した脳と脊髄も茹でて、ジョクの器に盛った。
顎が弱って強く噛むことの出来ないジョクの為に、奴の分の肉は、羊の乳で煮た。俺とディオの分は塩をつけ、簡単に焼き上げた。
料理をする間はくだらないことを話していたのだが、ユルテに入り、湯気ののぼる鍋を囲んで、口の周りと手を脂だらけにしながら肉に齧りつく段になると、途端に無口になったのは言うまでもないだろう。
馬乳酒を飲みかわし、ほどよく機嫌が良くなったところで、ディオが
細長い羊の
『
一休みして馬乳酒を口へ運ぶディオに、俺とジョクが拍手をすると、奴は、気恥ずかしそうに唇を舐めた。
「練習中なんだ、まだ。誰か、ヨーチン(小型の弦楽器)を弾いてくれると助かるんだが」
「いや、充分だ。また腕を上げたな、ディオ。おれとしては、ヨーチンよりも、オルティン・ドー(長声唱)が欲しいところだ。……トゥグス、出来ないか?」
「俺?」
ジョクの言葉に、俺は、自分を指さして絶句した。――俺に、歌えだと?
ディオは、咥えていた骨を折り、中の髄を吸っている。その瞳が面白そうに俺を映した。
「冗談だろう? 歌ったことなどないぞ、俺は」
「嘘をつけ。お前の体格なら、ホーミー(二重声唱)だって出来るだろう。……その胸は、何の為だ?」
酒の席と、仮にもジュチ(客人)であるジョクの要望だ。どうするべきか迷っていると、ディオがフッと哂った。
骨を捨て、無言で、モリン・フールを爪弾く。誰もが知っている『
小さな浅黄色の馬の歩みに、身体は酷く疲れさせられる……
(愛しいあの人の振る舞いに、心は酷く悩まされる)
低く滑らかな声で奴が歌うと、ジョクも、笑いながら唱和した。こうなると、俺も、歌わないわけにいかないではないか。
俺が歌いだすと、ディオは伴奏に専念した。続いて、『
恋人を見詰める美しい眼差しのように
アネモネが芽をだし微笑む
新しい草が芽を吹く
春の草原は 生まれたばかり
オルティン・ドーの調べのように
心はひろく澄みわたる
見渡すかぎり雲一つなく晴れわたり
夏の草原は 陽炎が立つ
太陽の暖かい光が
四方を照らしだす
緑は風に流れて
秋の草原は 黄金に染まる
白く清らかな心のように
雪の塩沢地を越えて行く
懐の熱を奪い取り
冬の草原は 真っ白になる……
俺とジョクが歓声をあげて互いの美声を賞賛する傍らで、ディオは苦笑し、だんだん速く曲を奏でた。
ボルド氏の民謡『
弾き終わる頃には、ディオのこめかみには汗が滲み、編んだ髪は肩をすべり落ちた。
「これで暮らしを立てた方が、良いのではないか? ディオ」
何より、愉しそうだ。俺が腕前を賞でると、ディオは、馬乳酒を口に運びながら、哂って首を横に振った。モリン・フールと弓を揃えて傍らに置く。
「そうすると、弾きたくない時でも、弾かなければならなくなるだろう。それは嫌だ。……こういう物は、女と一緒なんだ。抱きたい時に抱くのが、一番いい」
「成る程」
「それに。いくら好きでも、これで金を貰える程、上手くはないさ。……それくらい、判っている」
「そうか?」
俺には、充分上手いように聴こえたが――。
同意を求めてジョクを見たが、賢者は微笑んでいるだけだった。
ディオが馬乳酒を飲み終えるのを待って、ジョクは静かに声をかけた。
「土産話を、聞かせてくれないか?」
「…………?」
「カラ・ケルカン(黒の山)へ行った時の……。《星の子》とかいう巫女に、会ったのだろう?」
「ああ」
杯を膝へ置き、ディオは、思い出したように頷いた。俺も忘れていた。
カラ・ケルカンとは、我々遊牧民の信仰上の聖地の一つで、ニーナイ国とキイ国と草原の国境にそびえている山だ。本当の名はカイラスというが、我々はその名を口にすることを控え、ただ
国境と我々の動向を監視する役目を負った、神に仕える民が住んでいる。彼等は、もとは我々と同じ民族の血を引くが、今では周辺の国々との混血が進み、我々のような姿――黒目黒髪、黄色い肌をした者は少ないという。
代々のトグリーニ部族の盟主は、その座に就く際に、参拝することになっているのだ。
去年、ディオは『トグル』の名を継いだので、メルゲン叔父は息子を連れて、この山に赴いた。その際、最近かの地に降臨したという、《星の子》と呼ばれる巫女に会ったと聞いたのだが――。
ディオは、くいと唇の端を歪め、苦々しく呟いた。
「面白い処では、なかったぞ」
「それはそうかもしれないが。話してくれてもいいだろう? 《星の子》とは、どのような御仁だったのだ?」
「凄い美女だという噂だが?」
「……美女か」
俺が水を向けると、ディオは、単調に繰り返した。深緑色の瞳は暗いままだった。
「確かに。美しいことは認めるが、俺の好みではないな……。何だか、人間離れしている。そういう意味で、《星の子》と呼ぶのだろうが」
「…………?」
俺は、ジョクと顔を見合わせた。ディオの表情は、あからさまではないものの、不快なことを思い出した時のそれに近かった。それきり黙ってしまう。
俺は、奴の気をひきたてようと言ってみた。
「お前の方は、気に入られたらしいと聞いているが?」
「……アラルだな?」
やや上目遣いに俺を見て、ディオは尖った牙を見せた。長い前髪を掻き上げると、瞳に一瞬だけ明るい光が差した。
「そんなことを言うのは……。ああ、気に入られたことは、気に入られた。だが、何と言うべきか。彼女が気に入ったのは、俺や親父ではない。俺達を含む、もっと巨きな……漠然としたものを相手にしていたように思う」
「はあ?」
俺にはよく分からなかった。
「何があった?」
ジョクが真顔になった。首を傾げる俺を制し、真っ直ぐにディオを見た。
「何と言われたんだ? ディオ。差し支えなければ、教えてくれ」
「……別に」
それで、深刻になり過ぎたと思ったのだろう。ディオは肩をすくめて応えた。
「支障などない。親父が話をして、俺は聴いているだけだった。少し……あの女が、予言めいたことを言ったのだ。俺は一部しか聴いていないが、親父が気にしているので、引っかかっている」
「何だと?」
「……あの女は、この戦が起こることを予言した。祖父殿(バヤン)が死ぬことを。他にも、二、三……。その言葉どおりに事が運んだように思えるのが、気に懸かる」
俺はぞっとした。ジョクも、無言でディオを見詰める。
ディオは、もう一度、肩をすくめた。淡々とした口調は、決して虚勢を張っているようには聞こえなかった。
「だが、予言めいたことならば、俺もしょっちゅう口にしている。ジョク、お前もだ。それくらい当然わかっているはずの親父が、何を気にしていたのかが気になるのだ」
「お前には判らないのか?」
「全然」
「……今、話すようなことではなかったな」
ジョクが静かに言った。ディオは苦笑した。
「済まない、ディオ。せっかくの娯しみに、水を差したか」
「お前が謝ることではないさ。どうせ、意見を訊こうと思っていた。……いつかは、問題になっただろう」
「タァハル部族との戦いは、避けられそうにないか?」
杯から口を離して、ディオはジョクを見た。他人事のように応える。
「奴等が仕掛けた戦いだからな」
「…………」
「それに、祖父殿の遺言もある。長老達は納得するまい」
「そうだな……」
「ボルド
俺の問いに、二人は揃ってこちらを見た。鮮緑色の瞳と漆黒の瞳の怜悧さに、俺は内心ひるんだ。
「その……どうしても、避けられないのか? 俺達に、他意のないことを話しても?」
ジョクは、ディオの台詞を繰り返した。
「長老達は、納得するまい」
「仮に、和平の可能性があったとしても――」
ディオは素っ気なく応じながら、瞳で嘲っていた。
「それは俺の仕事ではない、トゥグス。俺達の……。その為に努力するのは、親父の仕事だ」
「そうか……そうだよな」
「まあ、お前も一枚かんではいるのだろうがな」
俺は溜め息を呑んだ。
ジョクが俺を見詰めている。二人に気を遣わせていると――こんなことではいけないと思っていても、駄目だった。不快さがこみ上げる。
俺は哀しかった。悔しくて、つい口走った。
「どうしてこうなるんだ……。どうすることも出来ないのか? そもそも、こんなことが許されていいのか」
「おい、トゥグス」
「だって、そうだろう、ジョク。氏族の権力争いで
俺の言葉を聞くと、ディオの表情が変わった。からかうような苦笑が消え、真顔になる。
ジョクを目だけでちらりと見遣り、ディオは、冴えた眼差しを俺に向けた。
「……面白い。何故そう思うのだ? トゥグス」
「ディオ――」
「いいから。お前の考えを教えてくれ。ここだけの話だ」
そう言うと、胡座を組んだ自分の膝に頬杖をついて、真っ直ぐ俺に向き直った。
ジョクも頷く。
年下だというのに、二人に尋問されている気がして、俺は柄にもなくどぎまぎした。
「だって、そうではないか? 考えてみろ。本来、草原の生活に、
「…………」
「羊と馬達に食べさせる草さえあれば、我々は、どこに居ても生きられる。氏族がなくとも、族長が居なくとも。隷民など、まして不要だ。そうは思わないか、ディオ」
「……何事も無ければな」
俺の問いに、ディオは、無表情に応じた。ジョクがその横顔を顧みる。
同意を得て、俺は少し励まされた気分になった。
「そうだ。何事も無ければ、俺達は、それだけで生きて行くことが出来る。飢えが無く、病にかからず……他民族から攻められなければ。ところが、そうはいかないから、助け合う必要がある」
「…………」
「連絡をとり合い、集まる必要ができる。他人が信用できないから、利が等しい血縁者が団結する。氏族が出来る。……多人数が集まり、意見を統一する長が必要となる。氏族同士の争いを防ぐために、同盟を結ぶ」
「…………」
「解るだろう? 族長とは、本来、民のために生まれた者だ。氏族とは……我々が生きる為に。なのに、その長が、己の権力を守るために法を作り、世襲する。挙句、民を使って戦うなど――殺し合うなど、あってはならないことだ。そうは思わないか?」
「…………」
「長は、民のために在ればよい。なのに……。
たどたどしい俺の話を、ディオは辛抱強く聴いてくれていた。また暗い気分になり、俺は項垂れた。己を省みると。
「尤も。事の誘引になった氏族長の家に生まれ……その恩恵を身に受けている俺などが、言うべきではないのかもしれないが」
「いや。俺は、そうは思わんよ」
ディオが呟き、俺は視線を上げた。奴は考え込んでいた。精悍な横顔から、その感情は窺えなかった。
俺は気遣った。
「ディオ」
「ユムグエー(何でもない)。俺は、そうは思わない。お前が言っていることは、親父の考えと同じだ。だが……そうだな、トゥグス」
独り言のようなディオの台詞は、何を言おうとしているのか、今ひとつ判らなかった。奴は俺を見た。ジョクを見て、それからもう一度俺に向けた瞳には、自嘲気味な嘲いが浮かんでいた。
「ボルド氏に、それが解っていれば。――たかが遺言一つで、殺し合わなければならないのだとすれば。長など、居ない方が良いのかもしれないな……」
ディオは囁き、杯を干した。それから、しばらくの間、黙っていた。
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