あなたの丸眼鏡越しに見えるもの。

蒼井朱音

第1話 あなたの目に映るまで



「おはよう」



駅前の階段に腰掛けて、

彼は空を仰ぐように笑う。

普段から垂れ気味の目尻がくしゃっとなるのをまじまじと見続けてしまっていることに気付いた私は、ばっと顔を背けた。


き、気づかれて、ないよね…?


高校の最寄りで不思議な時間を過ごす彼を遠目に眺めるのが、いつしか私の日課になっていた。



きっと天然パーマであろう軽くて少し長い黒髪が揺れる。

絵の具で汚れたヨレヨレのシャツを着て、黒い細縁の丸眼鏡越しにスケッチブックと空を見る彼は、ボソボソと何かを呟いた後小さく笑ってその辺でもよく見る黒い2Bの鉛筆を走らせた。


彼の描いた絵はどんなものだろうか。

あの澄んだ青空?少し古びた民家の続く通り?それとも、あそこで日向ぼっこしてるまだら模様の子猫?


考え出したらキリがない。

毎日同じような考えのループだ。

だから想像はこの辺りで止めておかないとーーー…



「危ない!!!」







パーーーーーッ


とクラクションが鳴り響いた瞬間、ぐにゃりと視界が歪んだ。右半身への衝撃がオノマトペの様に鮮明に脳に伝わる。骨が軋む音、折れる音、外れる音。全身が体験したことのない感覚に襲われる。

私は悲鳴をあげた。それはそれは汚い、金切り声を。最後の最後まで女子らしい声って出ないもんなんだな、なんて馬鹿なことを考えながら。

痛い。痛い。痛い。

このまま私は死んでいくのか。

まだ、何もできてないのにーーー……


もうどこにも力が入らなくなって、うつ伏せの状態で目を瞑る。僅かな気力で感じられたのは、生暖かい何かが背中をつたい降りてくることだけだった。









ピッ、ピッ、ピッ、



規則正しいリズムに心地よさを覚えながら、私はゆっくりと目を開けた。

横には年不相応に泣き噦る母と、そんな彼女の肩を抱く父。さらに、言葉を発さず、ただ唇を噛みしめる医師がいた。


…なんで泣いてるんだろう

心音は安定してるし、もうとっくに意識を取り戻しているのに。


この現状に違和感を抱いた私は、周りをゆっくりと見回した。すると、



「ひっ!?」



突然変な浮遊感に襲われて勢いよく体がありえない方向に上昇した。まるでどこぞの遊園地のアトラクションにでも乗ったかの様な感覚に陥る。わたわたと手足を動かしてみれば、私は何故か下で包帯をぐるぐる巻きにされて眠っていた。


私が、2人?


…意味がわからない。難解だ。

どうして私がもう1人いて、しかも今私は宙に浮かんでいるのか。というか、なぜ私が浮いていることに関して誰も驚きを示さないのだろう。


手を母の方に伸ばす。どうにか下に降りることはできないかと試みた所、私は理解してしまった。


…私、死んでるんだ


かざした手が透けて、母の存在を捉えてしまった。聞こえていたあの規則正しい機械音も、隣に寝ている女の子のものだって、気づいてしまった。


だから、空を飛べて、誰も私に気付かないーーー…


実感が湧いた瞬間に、現実世界にはもう落ちることのない涙が零れた。体が震えて、ここにはいられない、そう感じて、



「ーーーっ!」



私は逃げたい一心で、飛んだ。







「…っはぁ、は、っく」



死んでも息切れはするんだな、とまた冷静に考えつつ、周りを見渡す。


ここは…駅…?


朝と違って静かで人が少ない。賑やかじゃないから耳から女子高生がどうのとかいう情報は入らないけれど、自分が死んだということは嫌という程伝わる現場だった。広がる血痕、潰れた街灯、あちこちに貼られた立ち入り禁止のテープ。もう痛みも感じないはずなのに、胸が、張り裂けそうに痛い。


本当に死んだんだ、私…


不意に、全身の力が抜けた。すり抜けられるはずの地面にへたり込む。


どうせなら地球の内部まですり抜けられたら良かったのに。まあ事実を誰かに伝える、なんてことはできないのかもしれないけど。


もう、笑うしかなかった。

この一瞬に衝撃が詰まりすぎて、訳がわからなくて、頭は結構冷静で色々考えられるのに、結局のところ死んだことしかわからないから。



「ははっ…」



渇いた笑いが空に消える。

これから、私はどこに行くんだろう。できるなら、天国のあったかい場所で過ごしたいなー…


なんて、思っていた時だった。




「こんばんは」




もしかするともうここは天国で、じつはこれも全部、都合のいい夢なのかもしれない。

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