怪談実話 公衆トレイ
真夜中文庫
怪談実話 公衆トイレ
夏の夜、十一時を回っていた。
ファミリーレストランを出た長井君は、同じ大学の広瀬君と家に向かって歩いていた。
二人は先ほどまでファミリーレストランにドリンクバーとポテト一皿で、夕方から居座っていた。
携帯ゲームの通信プレイに興じていたが、気が付くと他の客はいなくなっていて、さすがに粘りすぎたと思い、速足で店を出た。
二人は実家住まいで、お互いの家も目と鼻の先、「今日はおひらきにするか」と話しながら歩いていた。
人気のない住宅街、片田舎なので辺りの家の大半は、電気が消えていた。
「……あのさ、広瀬、俺……腹痛いかも」
長井君はパンパンに張った腹を手のひらで一なでしてから言った。
「当たり前じゃん、ドリンクバー何杯飲んだんだよ」
広瀬君が笑いながら応じる。
「……十五はいってないと思う。十二か、十三かな……」
そうこうしているうちに、お腹の痛みは強さをました。
『この辺じゃコンビニもないし、家まではあと二十分近くある。絶対間に合わない』
「大丈夫か?」
腹を抱えながら、前かがみに歩く長井君の姿を見て、広瀬君が言う。
「ダメかも……」
その時、長井君はある事を思い出した。
『帰り道からは少し逸れるけど、小さい公園があったな』
鉄棒とブランコくらいしかない、ひっそりとした公園だが、そこに公衆トイレがあったはずだ。
長井君は広瀬君にわけを話し、公園に向かった。
車止めが二つ並んだ入り口を、外灯が照らしていた。
その奥は闇、鉄棒もブランコも、どこにあるのかわからなかったが、奥の方に薄らと明かりの漏れる建物があった。
「じゃあ、ちょっと行って来るよ」
長井君はゲーム機の入ったトートバッグを車止めのそばに置いた。
「わかった。俺はここにいるから」
広瀬君が車止めに腰を預ける。
「急げ急げ急げ……」
腹を押さえながら、小走りでトイレを目指す。
入り口の上部には、こしの強そうな蜘蛛の巣がはっていた。
天井に一つついた電球は、家庭用のトイレに使うものではないかと思うくらい、暗かった。
トイレは男女別にはわかれておらず、小便器が一つと、その反対側に個室が二つ並んでいた。入り口側に近い手前の個室に入ろうと、木でできたドアを押し開けようとした時、目を疑った。
使用中かどうかを示す銀色の金具の真ん中が、赤くなっていた。
『えっ……だれか、使ってる』
ドアはきっちり閉まっている。
この薄い木でできた扉の向こうに、誰かがいるようだ。
『十一時過ぎているのに……』
気味が悪かったが、腹の具合は家まで持ちそうにない。
奥の個室が空いていることを確認すると、中に入った。
ドアを閉じると個室の中は夜のように暗くなった。
和式便器の上に屈みながら、耳を澄ます。
すぐ後ろ、おそらく一メートルも離れていないところに、誰かがいる。
それをまったく感じさせないほど、静かだ。
もしかすると、後ろの便器は壊れていて、公園の管理者があえて鍵をかけたままにしたのかもしれない。
用を済ませて個室を出ようとした時、不意に背後から何かを引っ掻く様な音が聞こえた。
カリッ
カリッ
ゆっくりと、振り向いた。
クリーム色の壁が見える。
この壁が、この個室と向こうの個室を区切っている。
べニアを貼り合わせて作ったような壁は、思い切り殴れば穴が開いてしまいそうな作りだった。
音はその壁の、下の方から聞こえる。
カリッ カリッ ガッ リッ
長井君は壁に指を数本あてて、下に向かって動かしてみた。
ガリッ ガガリッ
音に合わせて、壁が震えているのがわかった。
『誰かが、壁を引っ掻いている』
動物かもしれない。
犬やネズミの仕業かもしれない。
しかし、ドアが施錠されているのが気になる。
偶然なのか。
ガリィイィィィィ
不気味な音は続いている。
『例えば、夕方に年老いた人がここに入って、鍵をかけた。その時に脳梗塞だとか病気の発作を起こして、立ち上がれずにいて、自分の気配を感じて、必死に音を立てて助けを求めてるのじゃないか』
長井君は、そう考えた。
『だったら、このまま帰るわけにはいかない』
長井君は公園の入り口まで走ると、広瀬君に事情を話した。
「そりゃまずいな」
広瀬君は、真面目な顔で応えた。
小走りで公衆トイレに駆け込み、手前の個室の前に立った。
鍵はかかったままだ。
カリッ カリッ
『聞こえるだろ?』
音を聞いた後、長井君は目で広瀬君に訴えた。
広瀬君は、こくりと肯いた。
「あ、あの、すみません」
長井君がそう言うと、音が止まった。
「大丈夫ですか? 調子が悪いとか、えーと」
ガリッ ガリッッ
問いかけを無視するように、再び木を削る様な音がトイレに響いた。
「喋れないから、ああやって助けを求めてるんじゃないか?」
広瀬君が冷静に言う。
考えてみれば確かにそうだ。
「い、いま、開けますね!」
木でできたくたびれたドアだ。
男二人で蹴れば3分もかからずに破ることができる。
長井君はドアを思い切り蹴ったつもりだったが、ドアは蹴り破れなかった。
『ダメだ……力が入らない』
膝が、上下に震えている。
「もっと力を込めて蹴らないと」
広瀬君もそう助言するものの、自分は中々ドアを蹴ろうとしない。
ガリッ ガガガガッリ
『怖い……』
当然だ。
このドアの向こうにいる人は、今どんな状態なのだろうか。
吐血を繰り返し、床一面、血まみれかもしれない。
あるいは、転倒して、頭がざっくり割れ、顔の皮が剥がれているかもしれない。
『怖いけど、早くドアを開けてやらないと』
繰り返し、長井君はドアを蹴った。
きゃしゃに見えるドアが、石のように堅く感じた。
蹴っても蹴っても、亀裂の一つも入らない。
「お、おれもやるよ」
広瀬君もドアを蹴る。
ドンッ、ドンッという音が、二人が交互にドアを蹴るたび、狭い公衆トイレの中で響いた。
しかし、広瀬君も腰がすっかり引けていて、長井君の蹴りとさして変わりがない。
「ちょ、ちょっと待って、これじゃダメだ。一緒に蹴ろう」
長井君が言う。
「わ、わかった。いくぞ、せーの」
そう言った時だった。
長井君が右足を上げ、膝を腹の方まで引いて、蹴り出そうとすると、突然ドーンという大きな音がトイレに響いた。
「えっ……」
それは紛れもなく、個室の中から聞こえた。
そして、その音は、二人がドアを蹴った時と、まったく同じ音だったのだ。
二人は言葉を失い、目を見合わせた。
『誰かが、ドアを叩いた』
それも、二人よりもずっと力強く、ドアを叩いた。
急病でも、怪我でもなかったのか。
『あんなに呼びかけたのに、なんで……?』
長井君はドアの中央にある金具に目をやった。
長方形の銀色の金具の真ん中は、赤くなっている。
「ど、どうする……」
長井君が広瀬君に問いかけた瞬間だった。
ガチッと金属がぶつかる音がして、金具の中央の赤色が、青に変わった。
言葉を失った。
『急病じゃなかった……こんな狭くて暗くて、暑い所で、何を引っ掻いていたんだ……』
個室に閉じこもっていた人間が、今、自分の前に姿を現そうとしている。
すぐにでも逃げたかったが、足が固まり、動けない。
二人はドアを見つめた。
ドアを叩いた音からすると、腕の太い、大柄な男が想像された。
『おかしいやつだったら、殴り飛ばされるかもしれない』
「おかしいやつだったら」この仮定が馬鹿らしいことは、長井君もわかっていた。
ドアから出てくるのは、普通ではないやつに違いない。
刑が執行されるのを待つ、そんな気持だった。
『……開かない』
沈黙のまま、10秒近く過ぎた。
二人は今一度、目を見合わせた。
ドアはピクリとも動かない。
広瀬君が不意に目を逸らし、出口を見た。
『出るか?』そう言っているようだった。
怖かった。
今すぐにでも逃げ出したかった。
だが、それ以上に、気になった。
このドアの向こうに、何がいるのか。
『ここで確かめなかったら、きっと十年後も二十年後も、この日のことを思い出すだろう』そう思った。
長井君は人差し指で、そっとドアを押した。
キィィィィっと音を立てながら、ドアは個室の内側に折れていった。
個室の真ん中に和式の便器が一つあるだけだった。
「嘘だろ……」
広瀬君の声は震えていた。
長井君が個室をのぞきこむと、先ほど長井君が入った個室とを隔てる壁の下半分が、変色していた。
「あ、あれ」
長井君が指をさす。
クリーム色の塗装がはがれ、木の下地がむき出しになっていた。
万を超えるであろう、おびただしい直線的な引っ掻き傷が、幾重にも折り重なって、壁の半分をうめていた。
そして、壁と便器の間に、鉛筆の削りかすの様なものが、大量に落ちていた。
「なんだよ……これ……」
広瀬君は、今にも泣き出しそうな声をしていた。
どちらが先に公衆トイレを出たのか、憶えていない。
ただ、湿った空気の中を、必死で走った。
走りながら、『爪じゃ無理だ。木のドアを爪で削るなんて、不可能だ。何か道具を使って……』と考えた記憶がある。そしてすぐ後に『違うんだ。……あの中には、誰もいなかった』と取り消した。
長井君の足はさらに速くなった。
それにつられて広瀬君の足も、一層早く動いた。
人気のない住宅街に、二人の足音がこだました。
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