000.6 亡霊(BOW-RAY)

 

 


 油膜のような薄雲が空を覆っている。隙間から満月が覗き込む。

 俺は踊っている。腕の中には真っ赤なドレスを着たテレサがいる。彼女の腰を抱いて、右手を取って俺たちは踊っている。足元には鏡面のように磨き上げられた舗装コンクリートのフロア。潮騒。音楽の代わりにまだ山下公園の喧噪が耳の回りをザワザワと這い回っている。俺はまだここにいる。けれど誰もこちらを見ない。月だけが出歯亀じみた執拗さで、俺がぎこちなく彼女の赤い靴を踏まないようステップするのを見ている。

「あなたの必要ないものは、みんな私が貰ってあげる」

 テレサは言う。そして微笑む。

 俺は彼女に何て言ったんだっけ? そうだ、「何もかも」と言ったんだ。俺は疲れ果てていて、まっとうなことが考え付くような状態じゃなかった。彼女はいつだってそういう時ばかり俺の前に現れる。そうか、なるほど、つまり彼女は悪魔の手先か、あるいはそれそのものか何かで、俺がついに参ってしまうのを待っていたのか。けれどその時は確かに本心だった。俺は俺自身の幸福のためにのみただ努力してきた。その先にあるものが不運にもなんらかの無作為から俺の住所氏名を騙った何者かの借金を背負うことで急に借家が差し押さえられたと同時に連絡しようとした実家に既に誰も住んでいないことを知り、一夜にして身内というものが何一ついなくなってしまったと狐につままれているうちに円高の煽りで倒産し本社から責任者の夜逃げした会社に残されたままの車のキーを取りに戻ることさえ出来ないまま当り屋に絡まれた挙句感情的な反論を罵倒とされ自分で呼んだ警察にしょっぴかれ厳重注意をされた挙句なぜか理由のよくわからない罰金をせびられることなのだとしてもだ。

「いや、本当は、もうちょっとうまくやれたかもしれない」

 いつだってそう思うのは、何もかもどうにもならなくなった後なのだ。あるいはそう信じ込んでしまった後。

「そうかしら」

 テレサは肯定も否定もしなかった。いったい俺はいつから彼女と踊っているんだろう?

 記憶があいまいだった。関内で降りたのは覚えている。その後は夢の中の道行を思い出そうとするようにあやふやだ。いつごろテレサに声を掛けられたのか? ……いや、そもそも彼女は何者だ? 美しいテレサ。真っ赤なくちびるを真一文字に結んだテレサ。少し不機嫌そうなテレサ。彫像のように白い肌のテレサ。月光を束ねたような金の髪のテレサ。

 俺はどうして彼女を知っているんだ。

「どうしてだと思う?」

 テレサは俺の心が呟いた一言をいたずらっぽく拾い上げた。

 そんなことはどうだっていい、俺がそう言ったら彼女は満足するだろう。テレサは俺に余計なことを考えてほしくないと思っている。俺が慣れないダンスにうまくついていこうとやっきになっていたときはもっと愉快そうな顔をしていたし、多分そうだろう。しかし、おそらくこの疑問に行き当たらない限り、俺はこのまま永遠に踊り続けることになっていたはずだ。そんな不可思議な確信があった。

「嫌なの、私と踊るのは?」

 いいや。それはない。

 記憶の齟齬に僅かながら煩悶しながらも、悩み始める前より握る手の感覚が確かになっていくのを感じる。冷たい手を取り、ウエストで強く結ばれたリボンの皺ごしに彼女の儚い半身を支える。そう、テレサは儚い。輪郭は俺の半分ぐらいしかなく、風よりも質量がなく、腰は俺の両手で覆えてしまうように感じるほど細い。握った指先は手と言うよりむしろ水に近い感触をしている。目を細めていないと見えなくなってしまいそうなぐらい儚い。振り払って目を覚ましたらそれこそ記憶ごと剥離して消えてしまうような気がする。

 それが――そちらのほうが正しいのだというのも分かった。彼女は存在するべきではないのだ。

 しかし、一瞬のような長い時間の中、ただひたすら付かず離れず踊っている間に、もはや何もかもがどうでもよくなっていた。彼女が何者なのか、ずっと昔に出会っていたのか、ついさっき俺の記憶の中に泡のように現れたのか、それすらどうでもいい。今目の前にいるテレサ、緑の瞳でこちらを見上げるテレサ、俺の左手に支えられてステップを踏む、そのたびにほんの僅かに笑ったり、悲しんだり、不機嫌になったりするテレサを、不思議と悪いように感じなかった。ずっと昔からここにいたように馴染んでいる。俺も彼女に……愛着があった。そうと以外にどうとも表現しようのない奇妙な感覚が。祭の終わりに感じるような、愛読書の最後の一行に感じるような、執着するほどではなくとも、手放すには惜しい、素晴らしい出会いだったと頷けるような何かが。

「おかしなこと言うのね」

「何も言ってないよ」

 テレサは微笑んだ。彼女は満足したようだった。

 俺は泣きそうになった。誰かが幸せそうに笑うのを初めて見たような気がした。彼女がここに居るのが、自分が独りでないのが不思議だった。いったいいつから俺は彼女と踊っているんだろう? ようやく決心して飛び降りようとしたのに、この世界から永遠に一人きりになるために。

 どうしたらいいのか分からず、ただ黙って踊っていればそれで良かったのに、そうしている訳にもいかず、自分の意思で足を踏み外した。テレサは俺の足につまずいて倒れ込んだ。俺は彼女を両手で抱き寄せた。袖が擦れただけで削れるほど彼女の背中は脆かった。足の止まったところから、フロアの床が崩れ落ちていく。どこから割れてどこへ落ちていくのかも分からない。無くなっていこうとしているのだけは分かる。

「ね、お願いを聞いて頂戴」

 テレサは怒らなかった。あるいは、それこそ俺が立ち留まってダンスホールを台無しにするのを待っていたのかもしれない。俺が決して断れないように。

「お家に帰りたくないの、私。どうぞ私を攫って頂戴。どこまでも連れて行って頂戴。あなたの必要ないものは、みんな私が貰ってあげる。その代わり、私の必要なものは、みんなあなたが探して頂戴」

 頷くことさえできなかった。そんな手順は必要ないのだ。

 俺はその場に転がり落ちた。朧満月の夜、山下公園の海べり。行く人や座り込んだ人が、まるで俺が急に空から降ってきたかのようにギョッとした顔でこっちを見ている。俺は息の吸い方を一瞬思い出せず、噎せた。たまらずネクタイを緩めたとき、首に巻き付いた腕に気が付いた。細く、夢の中から抜け出したみたいに希薄な腕。テレサは俺の背中に乗っていた。

 どうぞ私を攫って頂戴。

 記憶の中でそう言ったのか、耳元で囁いたのか、それすら判別がつかない。

 ええ、よろしい。

 どこまでも行きましょう。

 俺は美しい少女を背負ったまま、歩き方を忘れた膝を引き摺って、彼女の肩越しに指差すほうへと歩き出した。


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極彩月光列伝 カササギリョーノ @Return_mysanity

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