光の女神

「ジュワジュワジュワジュワ……」

「うぅ……暑い……」

 ツヨシは、騒がしい蝉の声と、息の詰まるような蒸し暑さで目が覚めた。そこは二十一世紀、ニッポンの真夏の朝だった。


「そうか、オレ、帰ってきたんだ……しかし、同じ蝉の声でも、こっちだと暑苦しく聞こえるなあ……」


 彼は床に敷いた布団の上にむっくりと起き上がり、寝ぼけ眼でリモコンを探し、スイッチをオンにした。かすかに埃臭い風が、ゴゴゴという小さな音と共に吐き出され、亜熱帯の密林のような蒸し暑さは、徐々に薄らいだ。


 彼は昨日までの未来の事を思い出していた。彼は『デュテートス』に乗り込み、『クルーム』を使ってそれを操縦した。そして細かい日時や住所まで指示し、あの夜の公園に戻ってきた。

「そうそう思い出してきた。クルームは、現代に持ち帰ると、ややこしいので、このまま宮殿へ持って帰れと指示して、デュテートスの中に置いてきたんだ」


 彼は、埃っぽいエアコンの空気にくしゃみをした。

「それから、当初の予定通り、ビールを買いにコンビニへ行った。帰って飲んだら、眠くて、すぐに寝てしまったんだな……時間旅行は体力を消耗する……確かに」

 彼は、顎にモサっと生えた無精髭を撫でた。それは確かに月日の経過を物語っていた。

「確かにヒゲは伸びたけど、なんか、実感ないなあ……」


 ふと左手を見る。その薬指には、未来へ行った証拠の品、ニッキーから貰った指輪があった。その左手は、彼女の手の感触をまだ覚えていた。彼女とはずっと一緒にいた。彼女が面白がって、彼の無精髭をジョリジョリと触りまくった感触も思い出した。そして彼女が、彼の首や腰に回した腕の感触も、さっきまで二人で一緒にいたかのように覚えている……。彼女と暮らした日々が蘇り、胸がきゅんとなった。


「ニッキー、いい子だったな……本当は連れて帰りたかったのに……でも……」

 悔やんでも仕方がない。現実的に考えて、現代の日本は、超未来人にとって不便この上ないし、戸籍どころか住民票も健康保険もパスポートもない彼女が、この日本で安心して暮らすのは難しい。

「やっぱり無理だよな……」


 気を取り直してテレビを付けると、見たこともないバラエティ番組が流れていた。

「あれ? こんな番組、いつの間に始まったんだろう……見たことないぞ。それに、出演者も知らない人ばかりだ」


 見慣れないバラエティ番組をぼうっと見ていると、突然、テレビからピッピッと電子音が流れ、ニュース速報が流れた。テロ組織の主要メンバーが逮捕されたという。

「なんか嫌な世の中だなあ」

 ツヨシは眉をしかめてつぶやいた。


 キナ臭いニュースとは無関係に、バラエティ番組は進む。そして画面には、必要以上に大きなテロップが流れた。

『さてこの後、彼に起きたとんでもない事態とは? 続きはCMのあとで!』

 そして、画面は食品メーカーのCMに変わった。旨そうな湯気を見て、ツヨシは、ふと空腹を感じて冷蔵庫を開けた。だが残念ながら、これと言って食べるものは無かったので、コンビニかファーストフード店にでも行くことにした。


 ツヨシは家を出てドアの鍵を閉め、ふと違和感を感じて、その原因がどこにあるのかを探した。

「あれ? あそこって駐車場だっけ? たしか一軒家が建っていたはずだが」

 彼の家はワンルームマンションの三階で、家を出ると、目の前に二階建ての一軒家が見えていたはずだが、そこにあったのは駐車場だった。ワンボックスカーが、ぽつんと一台だけ停まっていた。


「確か、あそこのお宅には、小学生ぐらいの女の子がいて、たびたび、ピアノの練習が聴こえてきてたはず……いつも同じ曲を、同じ部分ばかり、繰り返し弾いていたような……。たしか『エリーゼのために』だったかな? それとも、あれは、ここへ引っ越してくる前、エリと一緒に住んでいたときのことだったか?」


 しかし空腹には勝てず、考えるのはやめにした。そして、諦めてエレベーターを待っていると、背後に人の気配を感じた。同じフロアの住人だろうと、振り返って挨拶しようとした……次の瞬間。


「ドスッ」


 ツヨシの頭に、何か重たいものが鈍い音を立ててぶつかってきた。ツヨシは勢いよくその場に倒れ、そのまま動かなくなってしまった。


 ***


 薄暗く、そしてジメジメと湿っぽい、窓の無い部屋……。ここは地下室だろうか?


 ツヨシは目を覚ました。腕は体の前で組んだ状態で動かせない。拘束服のようなものを着せられていた。暴れる囚人を押さえつけるため、体の自由を奪う服。その服ごと椅子に縛り付けられ、そこに座らされているのだった。なんでこんな事に!?


「やっと目が覚めたようだな、ツヨシくん」

 目の前には、口ひげを生やし、アゴのしゃくれた男がいた。誰だこいつは?

「ところでお目覚めのところ、いきなりで申し訳ないんだが、聞きたいことがある」男はツヨシの肩に手を置き、顔を近づけ、しゃがれた、小さい声ながらも強い口調でたずねた「お前……なぜ……待ち合わせの場所に来なかった?」

「えっ?……何のことですか?」

 ツヨシは全く理解できなかった。


「とぼけるな!」

 その男は肩から手を放し、ふたたび辺りをウロウロと歩き始め、話を続けた

「お前は組織を裏切ったんだよ。『イーグル・アイ』を」

 

ツヨシはその名前に聞き覚えがあった。さっきニュース速報で流れた、あのテロ未遂事件を起こした、犯罪集団だ。彼は、何かとんでもない事に巻き込まれたらしいことを、やっと理解した。

「お前は裏切った。あれだけ綿密に計画をしたのに、昨日、運転手のお前が決められた場所に車を停めて待っているはずだったのに、お前はそこに来なかった。だから、計画がすべて水の泡になったのだ」


 男は歩き回るのをやめ、立ち止まってツヨシを睨みつけた。

「説明はこのくらいでいいだろう。今からお前をここのリーダーにしてやる。そう、主犯格はお前だ。だが計画は失敗した。だからそれを思い悩み、ここで自殺するんだ」

 男の頬に笑みがこぼれた。

「お前は全ての秘密を握っていた。だが死んだ。捜査はそこで終わるんだ。本来のお前は下っ端の運転手だったが、そんなことはどうでもいい。奴らは知らんし、もしあとで気付いたとしても、その頃、俺たちは捜査の手が届かない外国にいる」

「死ぬって……そんな……」

「そうだ、死ぬんだ。お前は今から、自らの意思で自殺するんだよ。だから、死に方ぐらい、選ばせてやるよ」

 男は、ニタニタと笑みを浮かべ、選択肢を四つ伝えた。どれも耳を塞ぎたくなるような、むごたらしいものだった。


「いいか、三分間だけ時間をやる。その間に決めておけ」

 男のニタニタ笑いは消えていた。そしてドアを乱暴に閉めて立ち去った。


 きぃーんとした耳鳴りのあと、静寂が立ちこめた。

「選べるかそんなもん」

 ツヨシは小さな声で力なく呟いた。

「なんでこんなことになってしまったのだろう?」


 だが、思い当たるふしが無いわけではない。見た事の無いテレビ番組、見た事の無いタレント、あったはずの家が無く、その代わりに駐車場……もしかするとここは……。

「パラレルワールド?」

 そう、パラレルワールド……ある世界と、殆ど同じだが、微妙に異なるもう一つの世界があり、二つの世界は、お互い交わらずに並行して時間が進んでいる……。それぐらいしか思いつかなかったが、でも、そうとしか考えられなかった。

「時間軸を移動した時に、何かの手違いで、もう一つの世界へ来てしまった……その世界には、オレと同じ名前、同じ顔をした、もう一人の人間がいて、何やら悪事に関わっているらしい……」


 ツヨシはがっくりとうなだれた。

「こんなことになると分かっていたら、こっちへ来るんじゃなかった。ニッキーと幸せに暮らしていれば良かったんだ……せめてもう一度、会いたいなあ……」

 ツヨシは、ふと、ニッキーに貰った指輪のことを思い出した。代々伝わるお守りだと言ってたな。


「幸運のお守りとやら、どうか助けてくれ……お願いだ……」

 だが何も起きない。無理だったか……。


 しかし、しばらくすると、蛍のような光の粒が現れた。それは、ふわふわと飛んでいた。すると、その光の粒は、ひとつ、またひとつ、と徐々に数を増やしていた。

「なんだこれは……?」

 それは、拘束服の下から、ぽろり、ぽろりと、漏れ出ているようだった。こぼれ落ちた光は次第に集まって、七色に輝く光の筋へと、そして、オーロラのように揺れ動く光の布となった。光の布は幾重にも重なり、天女の羽衣になり、その中心に光り輝く人の姿が現れた。ニッキーだった。オーロラの羽衣をまとい、神々しく輝くその姿は、まるで光の女神だ。


「ニッキー、助けてくれ。頼む!」

 ツヨシは懇願する。

「わかった、どうにかする。任せて」

 ニッキーは頼もしかった。


 すると光の女神は、よりいっそう強い光を放った。やがて目を開けていられないほど眩しくなり、ツヨシは思わず瞼を閉じたが、それでもなお眩しい光にめまいを覚え、やがて、どこまでも落ちて行くような感覚とともに、気が遠くなった。気のせいだろうか、意識を失う寸前、体がばらばらになるような感覚が、そして拘束服をすり抜けたような感覚があった。


 ***


 どれほど時間が経っただろうか。


 眩しかった光が徐々に引いて行くと、草原が現れた。かぐわしい、色とりどりの花が咲き乱れ、そよ風に揺れていた。しかしどういうわけか、草花はいずれも巨大で、身の丈ほどもあった。花から花へと飛び回る蝶も、ミツバチも、また巨大だった。花畑はどこまでも続くように思えた。

「なんでこんなところにいるのだろう?」


 花に見とれながら歩いていると、やがて川に辿り着いた。

 川の向こうには、にぎやかな繁華街が見えた。あれは歌舞伎町か、はたまた心斎橋か? とにかく楽しそうだった……向こうへ行きたい……だが、その川を渡ってしまうと、なにか不吉な事があるような気がした。理由は無いが、直感的になんとなく……そこで川を渡るのはやめ、川沿いを下流へ向かって歩く。


 どれほど歩いただろうか、ふと、誰かに呼ばれた気がした。声のする方へ歩いて行くと、海岸に出た。草原の先に砂浜があり、波の音が聞こえる。寄せては返すその音はまるで音楽だ。

「ゴゴゴ……ザザーン……ザザ……ザザーン……ゴゴゴ……ザザザザァーーン……」

 心地よさに目を閉じる。波の音に心が洗われるようだった。


 しばらく目を閉じていると、ふと柔らかい感触と人肌のぬくもりを感じた……目を開ける……どうやら彼は、さっきまで夢を見ていて、ニッキーの膝枕で目覚めたらしい。良かった、本当に良かった……助かった。そして、ニッキーに頭を撫でられ、安堵のため息をついた。だがその瞬間、何か様子がおかしいことに気付く。なぜなら、思わず口からこぼれた、彼のため息は、こんな感じだったからだ。


「くぅーん」


 彼は自分の声に驚き、ガバッと立ち上がったが、そうしたところで、目に映る風景は、たいして、高くならなかった。風景はくすんだモノトーンだったが、その代わり、目は顔の両サイドに付いているので、顔を動かさなくても、斜め後ろまで見えた。その広い視界の端に、大きな姿見が見えた。

 その姿見に映る自分の姿は、なんと、全身をふさふさの白い毛に覆われた小型犬だった!


「くぅーん」


 彼は首をうなだれ、悲しみを言葉にしたかったが、そうとしか言えなかった。すると、うつむいた彼の鼻先の床に指輪が落ちているのに気付いた。ニッキーもそれに気付き、しゃがんでそれを拾い上げると、自分の左手薬指に嵌めた。そして、しゃがんだまま、彼の頭を撫でた。

「今度は……どこへも行かないでね」

「ワン! ワン!」

 彼は尻尾をちぎれんばかりに振って答えた。


 ニッキーは再び左手の指輪を見つめた。その、白金色の美しい光沢を放つ指輪には、ウミガメを模した象形文字のような図柄が彫られていた。

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海亀 姶良守兎 @cozy-plasoto

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