13-3
シェイラは叫ぶように言葉を続けた。
「そんなに都合よく素敵な結婚相手を紹介してもらえるものですか! お金持ちでも、物凄く性格が悪かったら、どうするんですか? 愛人がいっぱいいるとか、毎日暴力を振るうとか、むちゃくちゃ不潔とかだったら? そんな人でも、結婚しろって言うんですか?」
「それは……」
ナイトリー先生は呆気にとられて、それ以上言えなくなっていた。シェイラはさらに続けた。
「わたしは、そんな危ない橋は渡りたくないんです。だいたい、自分の未来は自分で考えますから……! それで、一生懸命勉強して、教師になることにしました。先生だって、いつか言ったじゃないですか。家族がいなくても、知識や学問が味方してくれるって」
それは間違いなく、過去に彼が言った言葉なので、否定できないことは分かっていた。
「ああ、確かに、そんなようなことを言いましたね……」
ナイトリー先生は困り果てて、情けない声で答えた。その様子が可愛らしいので、シェイラは思わず破顔する。
「だからもう……あなたはお金を理由に断ることは出来ません。私が卒業して、教師になって、もっとお金持ちになるまでに、他の理由を考えておいてくださいね……」
どうかわたしを受け入れて……祈りながら、シェイラは彼を見つめ続けた。
うろたえていたナイトリー先生が、ふっと我に返るのが分かった。彼は落ち着いて凛とした、いつもの彼らしい顔つきを取り戻したかと思うと、不意に、感極まったように、きゅっと顔を中心に寄せた。彼はそのまま泣き出すかに見えたが、なんとか押しとどめて、口を開いた。
「シェイラ……あなたは凄い人だ。わたしは自分が恥ずかしい。わたしはこの九か月間、あなたのことを諦めようと努力するばかりで、問題を解決する努力をしようとしなかった。本当はそうするべきだったのに、怖くて出来なかったんだ」
言葉を発するごとに両目が充血して、声が鼻にかかり、震え出す。シェイラの方も、もう涙を抑えきれなかった。
「今からでも、間に合うだろうか?」
彼がそう言った瞬間に、シェイラは二人の未来を確信した。シェイラは恋人に飛びつき、その頭を、肩を、両腕で抱きしめた。涙が、勝手に頬を伝い落ちて行く。
「もちろんよ……」
温もりを感じて、他にはもう、言葉も何もいらなかった。離しはしないとばかりに、シェイラは恋人の顔や身体に腕を回し、愛撫を繰り返した。彼もまた抱き返して、優しく撫でてくれた。
そうして気が済むまで抱きしめ合ったのちに、次第に周囲の人の目が気になり始めて、シェイラは身体を引き離し、人の少ない場所に移動しないかと提案した。白い肌を紅潮させたナイトリー先生が、それでさらに赤くなって恥ずかしそうに、くしゃっと笑った。
二人はホテルのロビーに移動した。隅のソファーにシェイラが先に座り、隣にナイトリー先生が腰を下ろしたところをシェイラが飛びついたから、すぐにまた恥ずかしいような姿になってしまった。こうなるとドレス姿を綺麗に見せるためのコルセットや腰当ては邪魔以外の何物でもない。シェイラは後ろ向きに身体をねじって座り、恋人の首に腕を回した。その華奢な身体を、ナイトリー先生がそっと抱きしめる。背中を撫でてくれる感触が気持ちよくて、シェイラは身をよじりそうになった。
「わたし……あなたに謝らなければならないことがあるわ」
瞳を見上げながら、彼の頬を撫でてそう言った。やけに甘い声を出していることに、自分で驚いてしまう。
「なんですか?」
ナイトリー先生は微笑みながら、指の背でシェイラの頬を撫でていた。
「会いに来るのが遅くなってしまったから。もっと早く来ればよかったのに……」
「あなたが謝ることなど何もありません。わたしの方こそ、あなたに多くの許しを請わなければ……」
「どんな許しを?」
「まずは……あなたと別れてしまったことを。本当のあなたを理解せずに、あなたの気持ちを無視して、自分にとって安易な道を選んでしまった」
「まったくだわ!」
思わずそう言って、すぐに笑顔になる。
「でももういいの。こうしてまた会えたから」
「それから、あなたが初めての環境に飛び込んで、苦労している時に、傍にいなかったことを」
「それならお互い様だわ。わたしもあなたの傍にいなかった」
ナイトリー先生は首を横に振った。
「あなたが一人で寄宿学校に入って、とても寂しい思いをしている時に、わたしは何もしてあげられなかった。男子校で恐い思いをした時も、あなたを守れなかった。初めての試験の時も、勉強を教えてあげられなかった。ルームメイトのことで困っている時も、相談に乗れなかった……」
話すうちに、彼の眼に涙が滲んでくるのが分かった。吸い込まれるように、シェイラはその眼を見つめる。
「よく知っているのね」
「ええ、ハートさんから聞いていますから」
シェイラもまた、涙が込み上げた。
「もういいの、今、独りじゃなかったって分かったから。わたしがあなたのことを想っていた時に、あなたもわたしのことを考えていてくれた。もう寂しくないわ」
ナイトリー先生は微笑んで、また口を開いた。
「それから、勇気を出すことも努力することもせずに、時間を無駄にしてしまったことを。あなたがお金を貯めようと頑張っている時に、わたしがしていたことと言えば、あなたを忘れようともがいていただけ。どうしたって、そんなことは出来ないのに、かといって、他に何もしなかった」
「時間なら、これからたくさんあるわ」
ナイトリー先生はそこで背筋を伸ばし、座りなおした。シェイラはソファーから下りて、彼の前に立つ。彼は両手で、シェイラの両手を取った。真剣な眼差しが、シェイラを見上げた。
「もし……あなたが許してくれるなら、これからの時間はあなたとともに生きたい。あなたとの時間を取り戻して、そして、あなたに相応しい男になれるように努力したい。わたしに、あなたの傍にいて、あなたを支え、あなたを守らせてください……もし、許してもらえるなら」
「許すわ! 許すに決まっているじゃない……」
嬉しくて、嬉しくて、また涙がこぼれてしまう。ナイトリー先生は微笑んだけれど、その眼にもやはり涙が滲んでいた。
その日、一気に進んだかに見えた二人の関係は、後日うそのように逆戻りして、見た目は九か月前と変わらない段階に戻った。土曜日に会うようになった二人は、触れ合うのは腕を組んで歩くときと、段差で手を借りる時だけという、未婚の男女の模範たるような交際を続けた。
シェイラは早く関係を進めたかったけれど、一向にその気がないようなナイトリー先生を見ていて、諦めることにした。会えるだけで充分幸せであり、たとえ進展がなくても、二人はこの先ずっと一緒なのだから、焦る必要はないのである。
そんな中でも、ナイトリー先生がときどき腕を掴むシェイラの手の上に、優しく反対側の手を重ねてくれたり、馬車を下りる時に預けた手を、握ったまま暫く離さなかったりする度に、シェイラは悦びに胸を震わせた。
一月からまた理事会が開催されて、ハート氏が学院を訪れるようになった。パメラは滑稽なくらい頑張っているが、無駄な努力だとシェイラは知っている。ハート氏には想いを寄せる女性がいて、将来は彼女との結婚を考えているらしいと、ナイトリー先生が教えてくれた。これで財産目当てのパメラの手に落ちる危険はないだろうと、シェイラは胸を撫で下ろした。
やがて冬が終わり、シェイラの入学から一年となる春が来た。
恒例の五月祭は今年も快晴の空の下で行われた。女生徒たちの出し物を見物に来てくれたナイトリー先生を、シェイラは友人たちに紹介した。
シャーロットもクレアも、アレクシアもエリザベスも、みなシェイラの期待通りの反応をした。まずは皆、想像以上の美男子を前にして目を見張る。それから、シャーロットは恥ずかしそうに俯き、クレアは興奮してお喋りになり、アレクシアは吸い寄せられるように握手を求め、そしてエリザベスは鋭い目つきであら探しを始めた。シェイラはその様子を見ていて、爽快な気分にならずにはいられなかった。
メイポールダンスが終わり、パレードが終わるや否や、シェイラは春の妖精の衣装のまま抜け出した。ナイトリー先生の手を引いて、地域の催しに沸く広場を横切り、駅前の街道を通り過ぎて、グレートハーモニー川に出た。うららかな川岸を歩きながら、ナイトリー先生がシェイラを見つめる。広々とした青空を背景にして、彼の髪は明るく輝き、淡い水色の瞳がさらに透き通って見えた。
「シェイラ、今日は良い知らせがあります」
そう言って、彼は微笑んだ。
「なんですか?」
「借金が、なくなりました」
「借金って……、学費の!」
「そう、学費の。先日、完済しました」
「まあ、そうなのね! 良かった! おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
二人は互いに微笑み合った。
そこでシェイラは、あることを思い付いて立ち止まった。
「あの、それなら……、記念……というか、お祝い……というか、ご褒美……なんて言ったら、おこがましいですけど……」
シェイラはしどろもどろにそう言って、誤魔化すように笑った。ナイトリー先生が不思議そうな顔をする。
「記念……、お祝い……、ご褒美……?」
謎解きをするように、そう繰り返した。シェイラは思い切って、こう言った。
「キスをしませんか?」
ナイトリー先生は一瞬うろたえたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「はい」
そっと身体を寄せて、彼はシェイラを抱きしめた。それだけで、シェイラはもう立っていられない心地になる。そして彼は身を屈めて、腕の中の少女に、優しく唇を重ね合わせた。新緑の香りを含んだ風が二人を取り巻いて、川面へと吹き抜けてゆく。穏やかな川の流れはキラキラと輝きながら、どこまでも続いていた。
おわり
天使たちの恋愛論 唯村岬 @tadamura
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