第10話 呪いの恋文を貴方に(中)

日が暮れて、玄関の戸が二度叩かれた。

返事をする間もなくドアノブが回り、戸は開けられた。

訪れてきた人物は予想がついている。

長い黒髪に猫のような大きな瞳。

セーラー服に赤いスカーフ。

陶器の白肌に華奢な四肢。

稀代の霊能力者。

僕の親戚。

そこに茉莉花まつりかがいた。

少女は三和土に踏み入れもせず、四畳半の部屋を冷めた眼差しで見つめ、言った。

「――あらまぁ、お見事」

「茉莉花」

「おじさまと私の結界の中に呼び込んでしまうなんて」

あからさまな皮肉にどんな顔をしてよいかわからず、居心地の悪さを誤魔化すためにお茶を淹れることにした。

部屋の隅には黒い靄が蹲っている。茉莉花は一瞥すると細い眉を寄せ、靴も脱がず、やかんを火にかけようとする僕を止めた。

「お茶は結構よ。此処は私には毒だもの」

「ああ――そうだね」

幽霊の傍は多かれ少なかれ生者の精神に影響を与える。

生きている者は、その負の氣にのだ。

「行きましょう」

「……はい」

何やら情けない心地でやかんを置き、くたびれたスニーカーをはく。

彼女は既に背中を向けて歩き始めている。

行先はわかっていた。

僕と彼女がはじめて出逢った場所。




負の氣。

不安、疑心、嫉妬、恐怖、無力、憤怒。

負に囚われた生者の心はやがて、自分の内側か外側を攻撃し始める。

だから僕ら視える者は家に結界を張り彼らを遠ざける。

そうしないと、我が身を滅ぼすことになるからだ。

かつて先祖の一人に幽霊と共に暮らすため一族と縁を切った人間がいたらしい。力の強かった彼にとって、自分の物語を生きているという点で、生きている者も死んでいる者も大差なかった。

誠実で心優しい、春のような青年だっという。

彼は、死んだ者の記憶を慰めることがと考えたらしい。

祓うことを生業とした一族の中、彼だけは、幽霊に寄り添い、言葉を交わし、辛抱強く浄化を助けていたという。

やがて強力な結界で幽霊を敷地から排除する家のやり方に疑問を覚えた彼は、とうとう家を出て山の奥深くに自分と幽霊のための小屋を建てた。

そうして彼の音信は途絶えた。

三年が経った頃、彼の安否を気がかりにしていた母親が、居所を占い、信頼できる三人の供だけを連れて彼を訪れた。

虫の知らせと言うのだろうか。

母親は嫌な気配が我が子を覆っていると直感で悟っていた。

長い旅路の末に占いで示された山に辿り着き、人の噂を頼りに三日探し続けたところ、やっと母親は目的の場所を見つけ出した。

其処には朽ち果て蔦を這わせた小屋があった。

扉は崩れかけ、窓硝子は全て割れていて、まるで嵐にでもあったかの様相だった。

供の制止を振り払い、母親が小屋の中へ飛び込んでいくと。

真っ暗闇。

多くの靄にまみれて。

春のような青年は、痩せ衰えた廃人に変わっていた。

その土地は一族が買い取り、以来、近隣住民の立ち入りを一切禁じて、何代にも渡り時間をかけて祓いを続けたという。

青年は一命をとりとめたものの、以後、二度と生者と会話することはなかった。

どんな生活を送っていたのか、知らずにいられなかった母親は吐き気をもよおすほど負に満ちた小屋の中で彼の痕跡を探した。

答えとなる足がかりはすぐに見つかった。

小屋に残されていた彼の手記に、日々の暮らしが丁寧に記録されていたのだ。

几帳面な性格だったらしい。手帳には、家を出た後、約三年分の日記が書かれていた。

近くの村を巡り、自作の薬と簡単な祓いのお礼に、食料などを貰い受けて暮らしていたこと。

その道中で死者の記憶を拾っては小屋に連れ帰り、対話していたこと。

堂々巡りの記憶に一縷の光を与え浄化させることができた日は我が事のように喜び、悲惨な記憶を持つ幽霊を見つけた夜は一晩中泣き明かしたこと。

ある村の住人から向けられた不信の眼に心を痛めたこと。

そんな日々の青年の胸の内が、素直な文章で記録されていた。

やがて連れ帰る数に浄化の数が追い付かなくなる。

二年も経つ頃、多くの死者の記憶を抱え込んだ小屋は傾き始めていた。

強大な悪霊に憑かれたわけではない。

一つ一つは普通の死者の記憶だった。

しかし、

日々の食事に毒を盛られたかのように。

青年の手記が、負の感情に塗れていく。

――一族の記録に残っているのはここまで。

我が子の手記に囚われていく母親に危惧を抱いた父親は、彼女から手帳を取り上げ、焚き上げを行った。

最後の一年間、青年がどんな様子だったかは一切記録されていない。

その頃にはもう、死者すらも愛した心美しい青年は、完全に壊れていたのだった。



夜風から湿った匂いがするから、明日は雨が降るかもしれない。

不揃いな石段を軽やかに上っていく少女の後ろ、僕はやや息切れ気味についていく。

長い階段の横には深緑の常用樹が鬱蒼と茂り、木肌の匂いを漂わせている。

遠く上に佇む朱色の鳥居の向こう――今宵は満月だった。

茉莉花と初めて出逢った夜も月が大きかった。

青白い光に透かされ、雲が濃紺に染まる。

この場所で、彼女以外の人間にあったことがない――誰も知らない聖域。

「いちにぃ、はやく」

「待って」

「遅い」

鳥居の前に立った少女は月光を背負い、一層浮世離れして見えた。

待たせることは憚られ、僕は上る速度を上げる。

最後の石段を踏むと、石畳の向こうに木造りの社が見える。

いつの時代のものか、誰が管理しているのか、僕は何も知らない。

ただいつなん時も清い空気に満ちていて、心地よかった。

「茉莉花」

「私が、あの場で祓っていたほうがずっと早かったのよ。知っている?」

少女は社を横目に森のけもの道へ向かって歩き始める。月と星の明かりしかなくても、足取りが躊躇うことはなかった。

僕は彼女の後をついていく。

自分が前を歩ける人間だったらと、少しだけ足が重くなる。

「ごめん」

「謝らないで」

「うん――手伝ってほしい」

声は力強く、記憶に刻みつけようとするかのようだった。

彼女は振り返らない。

「勿論、当然、当たり前――これは絶対よ」

歩くたび紺色のスカートがふわりと広がり、仄白い膝の裏が光る。

凛と美しい後ろ姿。迷いのない歩み。揺らがない姿勢。

ジャスミンの花の香り。

「私があなたを護る――あなたの願いも、未来も、何もかも」

「僕にそんな価値があるかな」

「あるわ」

何故、この少女は断言できるのだろう。

「口に出して。そうすれば、百夜をかけて語ってあげる」

見透かされ、僕は口を噤んだ。

その先を言わないでほしいと願えば、彼女が沈黙してくれることを知っていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゴーストスコープ 亜月 @atsuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ