第9話 呪いの恋文を貴方に(前)

白地のノートを真っ黒に染める。

貴方と、貴女に、私の心が届くように。

単語のひとつひとつに呪いを込めて、新品の鉛筆をナイフで削り落としながら、恨みつらみを書き殴る。

書き殴り、削り、書き殴り、削り、書き殴り、削り、書き殴り、削り――

全ての頁が言葉に埋め尽くされ。

ダースの鉛筆が木屑に変わる時。

何もかもが埋葬される。

この部屋に私は独り。白樺色の窓枠の向こう、月にすら見捨てられ。

視界を照らしてくれるのは電球が切れそうな卓上ランプだけ。

橙色の灯りを頼りに、やっとのことで世界に存在している。

黴臭い空気も、薄汚れた壁も、リフレインする暗い記憶も、脳内を支配する汚物みたいな言葉も、与えられた優しさに見出した希望も、過去を取り戻すために貼り付けた笑顔も、貴方の帰りを待ち続けた時間も、絶望に突き落とす最後の言葉も。


全部が私の選択した結果であり、

そんな選択しかできないのが私だ。


もう私の中に有る夢想は一つだけ。

最後の頁が真っ黒に染まったら、白封筒にいれて貴方の新居に贈る。

貴方と、貴女の顔が、どんな風に歪むのか。

その想像だけが私を生かしている。

他人はきっと、馬鹿げた行為だと哂うでしょう。

けれど、暗がりで蹲る私の眼には抗えないほど魅惑的だ。

復讐心と言う甘美な贈り物をくれた貴方へ。

祝いの呪いを、貴方と美しいその子の新しい門出に。

私の訃報と一緒に。

こんなにもみじめな気持ちなんだもの。

今更、みじめの上塗りくらいどうってことない。

自分の命の使い道。

こんな選択が私には相応しい。



――瞼の裏に投影される像。

――暗闇に橙の照明。曇天の夜。美しい文字で呪いが書き連ねられたノート。

――頬を伝う涙の感触。

――いつになったら涙は枯れ果てるの? 微かに呻くこの声は誰のものか。

――答えは知っているよ。

――僕さえ目覚めれば、君の涙は止まる。

――これは所詮、夢。

――亡者の記憶を視ているに過ぎないのだから。



蒸し暑さに、肌掛け布団から素足を逃がす。

板張りの天井はいつもと変わらず、カーテンの隙間から射し込む燦々たる朝日に照らされ影を深くする。

汗ばんだ額をぬぐいながら夢の残滓に思いを巡らせる。

この夢は何度目だったろうか。

手には鉛筆を握る感触。橙の照明。頭を巡る記憶の映像。頰を伝った涙。

――どこかの誰かによる回想。

僕が見る女性の文字は、見たことないほど洗練されていて美しかった。

まるで和紙に細筆で恋文を綴るような丁寧さで、彼女は愛しい思い出と裏切られた心情を淡々とした言葉でノートに連ねる。

どこかで見たことのあるようなストーリー。

八年間一緒にいた恋人が、ある日突然自分より九つも歳下の娘を選び、自分のもとを離れて行ってしまう。

気持ちの離れてしまった男と、まだ彼を愛してる女の話し合いは、どこまでいっても平行線。

圧倒的に有利なのは男の方。

全てを知っているのも、選択権を持っていたのも。

結果だけを突きつけられた女性は、夢から覚めた子供のように、ただ途方に暮れるしかなかった。

どこですれ違ったの。

自分の何が悪かったの。

どうしたら昔に戻れるの。

彼女は二人で同じ景色を見ていると信じていた。

それが彼の嘘と自分の盲信で創られた虚構だったと気付き、信じるべき足場を失った。

落ちた先は疑心暗鬼の渦。

彼の罪悪感からくる半端な優しさに期待し、愛されるための努力に苦心し、何でもないいつも通りの日常を演出し、神経を擦り切らせながら微笑み続け、時計の針を逆回転させるためのいろんなことを積み上げては、――彼の揺らがぬ決断に打ち崩される。

そして、彼と暮らした部屋に独り。

残ったのは抜け殻の身体と眩しい過去の記憶、それから山ほどの答えのない「何故」だけ。

空っぽの身体を埋め尽くす疑問符に溺れた彼女は、酸素を求めて、やがて全てをノートに吐き出し始める。



夢はいつも彼女がノートを書き続けるシーン。

彼女がノートを書ききったのか、それを彼に送ったのか、僕は知らない。

ただ何となく、やり遂げたのだろうと思っている。

彼女の中にいる僕には、本当にソレしかなかったから。

書いて書いて書いて書いて。

書くことが息をすることだった。

そして恐らく、ノートを文字で埋め尽くした後、もう彼女に鉛筆を動かすための肉体は必要なかっただろう。

――夢での自分を回想する。

彼女の目を通した途端、美しい文字は書き殴られた悪筆になり、淡々とした独白は身の毛のよだつような呪詛に変わった。

凛とした文字で飾られていくノートと、ドロドロとした心象世界のコントラストに、僕は目が離せなかった。

他人を正面から罵ることも、自分の都合を臆面もなく主張することも経験がなかった彼女が、初めて――それも唯一無二の人を呪う。

ズタズタになった精神で、自分を裏切った恋人に向けて吐瀉物みたいに書き殴った文章が。

精一杯の呪いの書が。

他人から見たら美しい文字のありふれた恋物語に見えるなんて。


『 どうして 』


声は――背後に。

首の後ろにひやりとしたものを感じて、反射的に振り返った。そこには何もなくいつも通りの部屋のように見えた。

けれども皮膚がざわつくような違和感。

異物を飲み込んでしまったような気持ち悪さに、段々と目に移る何もかもが疑わしく思えてくる。

襖の細い細い隙間に何か在るような気が。

いや、暗がりから匂い立つ黴臭さに何か。

古びた扇風機の羽の音の合間に何か、

畳の目の一目一目に、

布団の膨らみに、

窓枠の軋みに、

硝子の反射に、

遠くあの雲間にーー


『 いつになったら

涙は枯れ果てるの 』


耳元で幻聴が囁く。

呼吸が浅く、心音が喉元に響く。

枕元に黒い靄を見つけて、

僕はようやく、彼女の記憶に取り憑かれていたことに気付いた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る