第8話 奇縁は既に始まっていた
強い負の感情は死後も現世に残留する。
後悔、嫉妬、憎悪、孤独、執念――それらは肉体から切り離されて尚、場所や人にこびり憑く負の波長。
感知できるのはごく一部の人間。
視る能力を持つ者の多くは遺伝。稀に死の体験などを機に突然、感覚器官が目覚めることもある。
一ノ瀬の家には、そういう者達が自衛の術を学ぶために集まっていた。
異変には、まず嗅覚と聴覚で気付く。妙に存在感のある、しかし目の前にある物質に由来していない匂いや音。
死者の記憶による残り香と残響。
僕らはそれを幽霊、或いは霊と呼ぶ。
幽霊はしばしば生者に取り憑く。
生者には憑かれやすい者と憑かれにくい者がいるらしい。
僕は憑かれやすい――即ち、幽霊の負の波長に感化されやすい体質だった。
幼い頃は今以上に過敏で、本家の結界を一歩出るたび、誰にも理解されない音と匂いに脅かされた。
最も多いのは鉄臭さ、それから重たいものがぶつかる音。
助けを呼ぶ声に誘われて暗い路地に行ったら、其処には誰も居らず、ただ深い黒の靄が蹲った人の形で壁にこびりついていたこともあった。
おーぉいと声だけが虚空に反響する。
見回してもコンクリートの壁しかなく。
人型の黒い靄が焦げ跡のように。
口の辺りをぱくぱくさせる。
おーぉい。
おーぉい。
残響のリフレイン。
薄気味悪さが胃の底から込み上げてくる。
人でないものが人の形をしているというのは、こんなにも臓腑を震わせるものか。
誰かを呼び続けたまま逝った其れは。
誰にも届かずとも――
ただ呼び続けるためだけに有る。
恐ろしくて母に話すと、彼女は困った顔をして「他所の人には言ってはだめよ」と静かに諭した。
僕は母の言い付けを守りたかったけれど、どこまでが他人と共有できるもので、どこからが僕にしか知りえないものなのか、まるで区別がつかなかった。
三つの頃に修行が始まり、僕は音と匂いが現世のものか否か視分ける術を身に着けた。
けれども、亡者の音や匂いを遮断できるようにはならない。
普通の人の世界は、僕にはお伽話だった。
小学生の頃、僕は幽霊が人に取り憑くことを知った。
はじめのきっかけは、幽霊の気配――強烈な匂いや騒々しい音――の有る場所で、情緒不安定になる人がいると発見したことだ。
何も無いのに突然、怒り出し、泣き出し、絶望する。
亡者の記憶は、視えない人間の感情を負の側に引っ張るのだと知った。
やがてその場所を離れても影響され続ける人がいることにも気付いた。
僕自身もそうだった。
一度負の感情の沼に嵌ったら、音と匂いはどこまでも僕を追ってきた。
耳元で叫び、嗅覚を奪い、まるで自分を視てと訴えるかのように――
家の結界に飛び込んで、やっと僕は解放された。
一度幽霊に波長を合わせると、其れは何処までも纏わりついてくる。
――いや、少し違う。
自分が無意識に其れと共感し、其れの記憶を自分のものとし同調してしまうと言う方が正しいかもしれない。
幽霊の波長に惹かれやすい人間は、自我が不安定だったり心が弱っていたりすることが多いようだ。
当然、其れらにまるで感化されない人間もいる。
そしてどうやら、幽霊の気配そのものを掻き消してしまう程、堅牢で強烈な自我を発する人間も。
「イチ、俺は雨の日が好かん」
この男は近頃僕の傍に入り浸っている。
「空から水が降っているというだけで、どいつもこいつも辛気臭い顔をする」
「不便だからだろ」
教室の窓際席。明日の予習をしながら、片手間に返事する。
神田は僕の前の席を占領し、雨粒が当たる窓を背に、だらしなく座りながら大欠伸をする。
僕の前席の主は、昼休みごと神田に快く席を譲ることが習慣となりつつあった。そして、何やら神田に席を譲るという行為に一種の特権のようなものを感じているらしい。
彼とはこれまで雑談など一度だってしたことがなかったのに、最近は毎朝にやけ顔で「今日も来るのかな、神田のやつ」と話しかけられるようになり、僕は戸惑った。
彼は声にも目にも期待がこもっており、今のポジションを喜んでいることが窺い知れた。
神田は無駄にカリスマ性のある奴だ。
自由奔放な言動も行動も、この男が行うと羨望の的になる。
「生きるのは不便の連続だろ」神田は感情の読み取りにくい顔で言う。「俺は二足歩行だって不便だ。かといって歩くたびに仏頂面をするつもりはない。人間の身体じゃ空は飛べないし、空間転送装置もまだ発明されていない。二足歩行はやむを得ない以上、嫌だ嫌だと言っても仕方がない」
「なにが言いたい」
「いいか、一年のうち約三分の一は雨だ。つまり、雨の日に辛気臭い顔をするということは、人生の三分の一を辛気臭く生きるってことなんだ」
神田はさほど頓着した様子もなく語る。「俺はな、雨の日が故の辛気臭い顔を見ると、たかが天気にモチベーションを左右されやがってと、こっちまで辛気臭い気分になるんだ」
二度目の大欠伸。まぁ、間の抜けた顔ではあるが、辛気臭いとは違う気がする。
この男はどこまでが本音でどこからが冗談なのか、全く掴めない。
「その点、イチ。お前は一年中辛気臭い顔だな」
「放っとけ」
「ははは、いいぞ。ある意味徹底してて、清々しい」
君が僕を認知したのはつい数週間前だろう。喉元まで出かかった指摘をすんでで飲み込んだ。
神田は、腕を組んで昼寝を始める。
寝るなら自分の席に帰れば良いのに。
そう思いながらも、神田の傍が僕にとって快適である事実は否定できなかった。
聞こえてくるのは窓を叩く雨の音、ノートを滑るシャープペン、遠いクラスメイト達の談笑。湿気の匂いに、洗い立てのシャツの匂いが混ざる。
寝息を聞きながら、僕は目の前の問題集に集中する。
結界の外に居ながら、雑音も異臭もない。
それはどうやら神田のおかげらしかった。
「破魔の人よ、その彼」
真夜中の十五分間、いつもの散歩。
茉莉花は今日もセーラー服で、僕はもう寝巻きだった。
白い月光が明るく、長い黒髪を鈍く光らせる。
彼女は語る。
「破魔の人が背負うのは絶大な運気と波乱の人生。否応もなく他人を自分の運命に巻き込む。一生の間に高々と功績を築き上げる代わりに、常に転落のリスクも抱える。成功も破滅も小さくはまとまらない。――その人は黄金。陰陽の陽に偏り過ぎているから、陰である霊気を掻き消してしまうの」
普段は凛としている少女の声――夜道でだけはひそやかで、くすぐったい心地がする。
「孤独な人だわ。バランスを欠いた人間は、総じて孤独なの」
でも、と。茉莉花は躊躇いがちに言った。
「――いちにぃはその人と一緒にいると普通でいられる。悪いものも弱いものも彼を前では存在を保てないの。だから寄り付かない。だから、彼の側はとても静かで、芳しい」
「静けさとは無縁な、よく喋る喧しいやつだよ」
茉莉花は細い眉を八の字に下げる。
「そのらしくない反応が憎らしい」悪態に、いろんな感情が混ざっているように聞こえた。「私の言う意味、わかってるんでしょ?」
肩を竦めて答えると、少女は溜息を落として若枝のような腕を僕の腕に絡めた。
ひややかな体温。
頼りない四肢。
彼女の言う意味はわかっていた。
神田と言う男の側は――
いつも現実の音と匂いに満たされている。
僕が望んでいた、普通の世界。
「望もうと望まざるともこの縁は途切れない。きっと貴方は度々独りを選ぼうとするけれど、離れようとする行為に意味はない。偏り過ぎてる者同士、ピースがしっかり嵌ってしまったの。――この縁が、いちにぃのためのなるか否か、私には計り知れない」
静けさに溶け出しそうな声音だった。
彼女は、真夜中に僕の隣を歩く時だけ、心細そさをのぞかせる。
彼女の本当は、この顔なのだろうか。
過去も今も未来も視えてしまう稀代の霊能力者。
たった独り違う世界に迷い込んだ、誰とも同じ世界を分かち合えない迷い子。
羨望も嫉妬も一身に受けて、期待も下心も一瞬で視抜いて――その眼には、一体どんな景色が視えているのだろう。
過去しか視えない僕には想像もつかなかった。
孤独というなら。
この少女こそだ。
いつだって堂々たる彼女、その結界がほんの少し弱まる真夜中の十五分間。
僕はいつも見て見ぬふりをする。
「茉莉花にもわからないことがあるんだね」
「たくさんあるわ。この世界で私がわかることは、小指の先にも満たない」
だとしたら、茉莉花以外の僕らは、きっと蜘蛛の糸幅ほどもわからない。
いつもの終着点。茉莉花は「おやすみなさい」と囁いて、僕の腕を離す。
籠に帰れば、毅然とした彼女に戻るのだろう。
雨音が聞こえる。
窓を叩く粒が小さくなっていき、厚い雲間が解けつつある。
きっと帰る頃には陽が射すだろう。
この縁は永く不可避だと茉莉花は言うけれど、僕はあまりピンときていない。
僕の側に居続ける奇妙な人間は、父と茉莉花以外に知らないのだから。
「前言撤回だ」
唐突に声がして、驚き顔を上げた。
神田はいつの間にか目を開けて、こちらをじっと見ていた。
「イチは、雨の日は少し機嫌がいい」
「そうだろうか」
「そうだ」神田はふふ、と笑う。「俺は気付いているぞ」
なにが嬉しいのか、神田は不思議と得意げだった。
「雨はいいな、地球が潤う」
「さっきは嫌いだと言ってた」
男はふん、と鼻を鳴らし、いけしゃあしゃあと言い放つ。
「さっきはさっきだろ。好きになる理由が見つかったのだから、素晴らしいじゃないか」
理由って?と聞いたら、神田は「なんだろうな、分からんが気分が良い」と鼻歌交じりに言った。
釈然としないが、機嫌の良い神田を見るのは悪くなかった。
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