第7話 孤独な終演は畳の上
教室の窓際、前から五列目の席。
見える景色は校庭と街路樹、全部同じに見える住宅の屋根。
梅雨前だというのにやけに太陽が燦々としていて、時折吹く涼やかな風が心地よい。
昼食を早々に終えたエネルギー有り余る生徒達が校庭でにぎやかにボールを追いかける。
その声を聴きながら、一人静かに予習復習をするのが僕の日課。
――だったのだが。
「おい、イチ。学校にテロリストが立てこもりを始めたら、お前はどうする」
窓枠にだらしなく凭れ掛かって尚見栄えの良い長身。
着崩した学ランとは裏腹に、短くきちんと整えられた黒髪。
欠伸交じりの癖に、爛々と鋭く光る双眸。
あの突然の襲来以降、神田は気付くと前の席を占領している。
そう、僕の平和で孤独な学校生活は現在進行形で脅かされていた。
「どうって……なに」
「決まっているだろ。抗うのか、従うのか。お前はどうする」
僕は他人のコミュニケーション能力についてどうこう言える身分ではないが、少なくとも、これが知り合って数日の他人にふる話題でないことくらいは解る。
というか、この男は、二日目にはもうこんな話題だったぞ。
神田はここ連日、昼休みになると弁当持参でやってきては前の席を陣取る。食事中こそ無言なものの、食べ終えた途端、ふってくる話題はやれ「バイオハザードで人類のゾンビ化が起こった時、立てこもるべきはホームセンターかAM〇ZON配送センターか」だの、「過去からのタイムトラベラーに出逢ったら、一番最初に何を食べさせてやるべきか」だの――
正直に言う。僕の育ってきた環境はだいぶ世間一般からずれていたが。
僕は神田以上の変人に会ったことはない。
「おい、イチ、聞いてるのか」
「イチと呼ぶな。勉強中だ、邪魔しないでくれ」
「勉強? 馬鹿か! いまは昼休みだぞ」
馬鹿かとはなんだ。勉学は学生の本分だぞ。
学校で勉強して何が悪い。
「家に持ち帰りたくないんだ」
「お前はサラリーマンか。じゃあ、家に帰ったら何するんだよ」
「何って――」僕は一瞬言葉に詰まる。「……夕飯を食べて、寝るんだよ」
嘘はついていない。バイトのことを言わなかっただけだ。
それでも何となく後ろめたい気持ちになるのは、僕が極端に小心者なせいだろう。
怪しまれていないか、神田の顔色を窺う。
精悍な顔がこちらをじっと見ていて息が詰まった。
しかし幸いなことに、神田の表情を一言で表すならきょとんだろう。
彼が黙った途端、校庭の賑やかさがやけに際立って聞こえた。
「お前って――」この男はしみじみと僕を評する。「ほんと普通な」
じゃあもう来るなよ。
そう思う反面、この時間を居心地良く感じてしまうのは何故なんだろうか。
初めて神田に出逢った夜、バイトを終えて家に帰ると、案の定、茉莉花が玄関の前に立っていた。
すらりと華奢な少女は――いつも何時から待っているのだろうか――いつだって絵になる品の良い立ち姿で僕を迎える。
手に下げたビニール袋の中身は正解だった。今夜は彼女が縄張りの見回りにくるだろうと、彼女用の大福を店で買ってきていた。
「いちにぃ」
凛とした澄んだ声が、ぴたりと止まる。
どうしたことだろうか。
僕を視た途端、少女は過去に見たことのない様子を見せた。
猫が家の住人の匂いを確かめる様を想像してほしい。彼女の様子はそれに似ていた。警戒するような、好奇心を掻き立てられているような、落ち着かない素振りでぐるりと僕の全身を視回す。
気付かなかったけれど、おかしなものが憑いてきてしまったのだろうか――
「あの、茉莉花」
「気に入らない」
彼女ははっきりと言った。「でも、悪くない」
少女が悪くないという時、その匂いの主は合格という意味だ。つまり、彼女から見て、僕が付き合い続けても問題がない人間であるということ。
僕が亡者の匂いや音に敏感なように、彼女は生者の其れがよく視えるらしい。
どうやら、不本意だが、神田は彼女のお眼鏡にかなったようだ。
「嗚呼、でも気に入らない」
「あはは……確かにあいつは変な奴だ」
僕がそう言うと――こんな顔を見たのも初めてかもしれない――茉莉花は悔し気に下唇を噛んで呻いた。
「――なるほど、」
何故だろう、彼女は怒ってる?
「道理で気に入らないわけだわ」
ざわざわと、辺りの空気が乱れた気がした。
庭のジャスミンが匂いたち、
辺りが急にしんと静まり返る。
背筋にひやりとした汗が伝う。
世界中が音を忘れ、花の匂いに一切を征服されたみたいだ。
茉莉花の精神が乱れると、彼女の存在感はこの世界でひときわ際立つ。
何か言おうと口を開きかけ――白く細い指に制された。
一呼吸。
――そして、
世界に程よいざわめきがもどる。
「……珍しいね」
「失敬」
「なにが気に入らなかったの」
「だって」
唇を尖らせ、拗ねる表情も愛らしい。「いちにぃが、誰かをあいつって呼ぶの、初めて聞いた」
――ああ、たしかにその通りだ。
「うん」
「人のことを変な奴呼ばわりするのもよ」
「……うん」
「妬いちゃうわ」
僕は何も言えなかった。
がさり、と音がして。手にぶら下げたビニール袋の存在を思い出す。
「――お土産、あるよ。……安い大福だけど」
何度みても見慣れない綺麗な瞳がこちらを見つめる。
少女は微笑むと、いつも通り一言呪文を唱え、僕に扉を開けさせた。
今のところはまだ、神田は僕の昼休みを占領するだけに留まっている。
強引な人間ではあったが、妙に引き際を心得ているところがある。
はっきりとした拒絶の言葉を繰り出す一歩手前であっさりと撤退していくため、僕は未だ決定的に彼を突き放せずにいた。
茉莉花は神田を合格と言った。
けれど、僕は友人を持つ気はない。
どこかで意志表示をしないと――モヤモヤと考え事をしている間に、バイト先に到着していた。
今日のパートナーは戸倉さんだ。
戸倉さんは四十代の男性で、バイトメンバーの中では二番目にベテランである。
僕は彼が苦手だ。
あまり接客向きの人ではない。表情は暗く淀み、常に汗臭くて、普段はただの無口な人なのだが、時々何かにひどく苛々していることがある。
彼が特に機嫌の悪い日は、大抵身体のどこかに靄がかかっている。
憑かれやすい人なのだ。
だから、僕は彼が苦手だ。
今日はましな日でありますようにと願いながら、裏口から店に入る。準備を済ませてレジに出ると、戸倉さんが先に居た。
僕はすぐに今日がはずれの日だと知る。
いつも通りの店内に、いつもと違う匂いと音。
しくしくと。
すすり泣く声。
噎せかえる暑さ。
湿気を含む空気。
果実が腐っている。
汗ばむ人間の皮膚の匂い。
――つよい眩暈がして、僕は息を止めた。
願いも空しく、その日の勤務は地獄だった。
戸倉さんにレジをお願いし、僕は黙々と陳列棚に商品を補充する。
その気配に意識を向けないよう作業に集中するけれど、店に立ち込める記憶の残り香と残響は恐ろしいほど鮮明で、僕の感覚を侵食してくる。
真夏の猛暑、湿気に汗ばみ。
自分の体臭と、畳の黴臭さ。
果物が腐った匂い。
状況を良くしたくても、もう自分独りではどうにもできない。
助けを求めたくてすすり泣き、求める相手がいなくてすすり泣き。
遠い日の母の優しさが恋しくて呼ぶも、とうにいないと解っていて――
黒い人型の靄が。
レジに立つ戸倉さんの背中に負ぶさり。
僕に、視てと訴える。
ティリリリリ。
不意に流れた自動ドアのメロディに意識を引き戻された。
忘れていた呼吸を思い出し、動悸を抑えようと胸に手を当てる。
手のひらも額も脇の下も、じわりと汗ばんでいた。
少し裏に入って落ち着こうと納品ケースを持ちレジに向かう。
来店したのはバンさんだった。最近いつも買うキシリトールガムとロールケーキ二つを手に、戸倉さんのもとへ向かっていく。
無言でカゴをレジに。戸倉さんは億劫そうにレジを操作し始めた。
――苛々しているのが目に見えて解る。
ガサガサッと大きな音をたてビニール袋を開くと、ガムを投げるように放り込んだ。ロールケーキも放り込み、ぼそぼそ金額を言って、袋をずいとバンさんに押しやる。
「おい」
バンさんの低い、不穏な声がした。
そちらを見なくても、どんな表情をしているかが想像できた。
「その態度は、ねぇぞ……いかんわ」
怒りを抑えた控えめな抗議に、戸倉さんは謝罪したのかもしれないが、僕には聞こえなかった。
バンさんはそれ以上何も言わず代金を払い、店を出て行った。
「呪いと言うのは、実は誰でもかけられるものなんだよ」
昔、父はそう言った。幼いころの話だ。呪術について学ぶことに抵抗があった僕が、祖父に隠れて父に泣きついた時のことだったと思う。
父は言った。
呪いには、本当は特別な技術など必要ない。
ただ相手を頭に浮かべて恨み、怒り、罵倒し、憎悪し、辱め、不幸を願えば、呪いは成立するのだと。その感情が生霊となって自分から切り離され、呪った相手にまとわりつく。
そうすると、悪いことが起こる。
「呪いと知らずに、みんな誰かを呪ってるんだ。でもね、素人の呪いはまだいい。あれは自分を切り離すから。切り離せるのには限りがある。……父さん達やお前は違う。自分を切り離さなくたって、漂ってるやつのどれかを代わり飛ばしてやればいい。そこに有るものを相手に繋げて、飛ばせばいい。聞くと難しそうだが、意外と無意識にできてしまう。だからお前は、自分が何をできるのか、何をしてはいけないのか、どうやったら身を守れるのか――ちゃんと学ばないといけない」
僕は解ったような解らないような顔で頷いたと思う。
それからふと気になって聞いた。
「父さん、じゃあ僕ら以外の呪いは怖くないの?」
父は笑って言った。「怖いよ。呪いは、呪いだもの」
『しねばいいんだ』
その呪詛を唱える声が、戸倉さんのものと気づくまでに時間がかかった。
彼に背中を向けたままなのに。
背中になにが有るのかがわかった。
金縛りの夢を見ている時に似ている。身体が動かない中、大抵見るまでもなく知っているものだ。そばに有るのが恐ろしいものだということを。
聞こえていたすすり泣きが低く、低く。
優しさを求めていた其れではなくなり。
獣のような唸り声に変わり果てていく。
『あいつも、嫁も、腹の中の子も』
これは声に出された言葉じゃない。戸倉さんは無言だ。だからこれは、生霊の声。
『しねばいいんだ』
呪いが起ころうとしていた。切り離された生霊が、店を出て、黄色いアパートの二階、父親の帰りを待つ母子の部屋に飛んでいこうとしている。
止める手段は何だっただろう。
あの時学んだはずなのに。
黒い靄がどす黒くなるのが視えた。蛹からかえる蝶のように、戸倉さんの背中を離れようとしている。吐き気を誘う匂いが思考を邪魔する。呪詛が異国の言語のように頭に鳴り響く。気持ちが焦り、鼓動が脈打ち、頭が真っ白になる。
思い出せない。
少しも思い出せない。
そんな役たたずな自分など、
――代わりに死んでしまえばいいのに。
――不意に。
来客を知らせるメロディが、空気に亀裂をいれた。
「イチ、……一ノ瀬!」
我に返るとドアの前に最近見慣れた学ランの長身が立っていた。
「――神田」
「おい、お前バイトしてるのかよ。優等生に見せかけてとんだ不良だな」
重たい空気の中へずかずかと踏み入ってきた男は、戸倉さんを一瞥すると、「おっさん、人でも殺しそうな顔してるが、大丈夫か。まぁ、コンビニ強盗防止には丁度よさそうだがな」と不躾極まりないことを言い放ち、雑誌コーナーに真っ直ぐ向かって行った。
僕は唖然とし、思わず戸倉さんを見る。
すると、意外にも、戸倉さんもぽかんと僕を見ていた。
陳列棚の向こうから神田が大声で叫んでくる。
「イチ、……一ノ瀬! バイトは何時に終わるんだ」
僕は急に恥ずかしさが込み上げてきて何も言えなかった。
雑誌コーナーは早々に飽きたらしいこの無法者は、次に駄菓子を物色し始めた。
「無視か。もういい、それならそこの強盗を殺しそうなおっさん、イチのバイトは何時までだ」
「あ、二十二時までです」
「おう、ありがとう。良い奴だな!」
僕は状況についていけず、あっという間に、当事者から傍観者へと変わっていた。
買い物かごいっぱいに駄菓子だけを詰め込んだ神田は、戸倉さんの前に立つ。
「お会計を頼むよ」
戸倉さんは目を丸くしたまま、人が変わったように大人しくレジを打ち始める。
神田は戸倉さんの名札をまじまじ見ていた。
「おっさん、……戸倉? クラさんか。あんた、ちょっと汗臭いよ。洗濯してるか?」
「あ、いや」
「まぁ、どうでもいいわな。自分の匂いがついたものに安心する気持ちはよくわかるぜ」
「はぁ」
大量の駄菓子のレジ打ちを終えた戸倉さんは、気の抜けた声で「三千二百五十円です」と言った。
神田はちょうどを支払うと、「これはさっきのお礼だ」と言って、すっぱい粉のついたグミを戸倉さんに渡した。
「クラさん、クエン酸とれよ。イチ、外で待ってるぜ」
後ろ手を振る仕草が役者さながら様になっていて、僕は無性に腹が立った。
戸倉さんは呆然としたまま、珍しく「ありがとうございました」と見送りの言葉を言った。
時計を見ると二十一時少し手前をさしている。神田は今から一時間待つ気なのだろうか。
「一ノ瀬君」
突然話しかけられ、声も出ぬままそちらを向いた。
そこにはまるで憑きものがおちたような顔の戸倉さんが いた。
気が付けば、黒い靄が消えている。匂いも、声も、一切が。
残ってるのは戸倉さんの汗臭さくらい。
「あ、はい。なんですか」
「ぼく、汗臭い?」
返答に困った。「……すこし」
戸倉さんは、そっかと言って、自分の臭いを確認していた。
「さっきの、友達?」
「あ、同じ学校の人で……」
「彼、変だね」
激しく同意だった。
戸倉さんは、「友達待ってるなら早めにあがってもいいよ、店長には僕から言っておくから」とぼそぼそ言った。
僕は初めて戸倉さんから優しくしてもらったことに驚き、思わず「ありがとうございます、そうします」と答えてしまった。
着替えて店を出る前にお礼を言いに行ったら、二回り以上年上の彼は気恥ずかしそうに僕に聞いた。
「……次、バンさんが来たら、謝った方がいいよね」
僕は素っ気なくなりすぎないよう気を付けながら、「ですね」と答えた。
店を出たら本当に神田が待っていた。
買った駄菓子を頬張っている。その姿があまりに似合わなくて、少し笑えた。
「イチ、……一ノ瀬。はやかったな」
「戸倉さんが、早く上がっていいって」
「さすが、クラさん。良い奴だ」
ニカっと笑い、神田は黙ってビーフジャーキーを差し出してくる。いらない、と首を振ったが、結局押し付けられた。
「神田、なんでここに」
「駄菓子が俺を呼んだんだ」
「意味が分からない。大体、なんで僕を待つ」
「イチ、……一ノ瀬が」
「なんで一々言い直す」
神田は短髪の髪を掻き雑ぜながら薄い唇をへの字に曲げ、「なんでなんでとうるさい奴め」と毒づいた。
「散歩中に駄菓子が食いたくなって寄った。そしたらイチが居たから待った。あとお前がイチと呼ぶなと言ったから言い直すんだ」一呼吸の間で言い切り、「――さぁ、次のなんではなんだ、なんでなんでマン!」
説明されてもよくわからず、ただ意外と律儀な奴だということだけわかり。
僕は、白旗をあげる気分になった。
「おい、何とか言え、イチ……一ノ瀬」
「もういいよ、イチで」
神田が瞬きし、「いいのか」と嬉しそうにするのを横目に、僕はさっさと家路につく。
友人になるつもりは毛頭ないけれど、当たり前のように後ろをついてくる男が何者なのか、ゆっくり見極めていくのも悪くないと思った。
「神田はどうするんだ」
「あ?」
「学校にテロリストが立てこもったら」
昼間受けた質問を返す。「抗うのか、従うのか」
神田はまるで逡巡することなく答えた。「抗うし、従うぜ」
それはとてもこの男らしい答えだった。
「どっちにしろ、生き残らなきゃなんにもならん」
気負いも恥じらいもなく言う神田を見て、思い出す。
呪いに打ち勝つもの。
それは陰に囚われぬ陽の氣、即ち――強靭な自我。
「イチ、お前はどうする」
「痛いのはいやかな」
「お前ってほんと普通な」
「ほっとけ」
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