第6話 神田龍臣

「おい。お前が一ノ瀬か」

その日いつも通りの昼休みを迎えるはずだった僕を、一人の男子生徒が訪れてきた。

まさかこの瞬間から、孤独で平和な高校生活が壊れ始めるとは、僕はほんの少しだって予想していなかった。

大きく爛々とした双眼が印象的な美丈夫。それが彼――神田龍臣かんだたつおみの第一印象だった。

「お前、幽霊が見えるって本当か?」

――ぞくり、と肝が冷える。

――過去のトラウマが蘇り、僕は一瞬、息が止まった。

――これは何かの罰だろうか。それとも誰かの呪いだろうか。



思えば、最近の僕には良いことが続いていた。

まず店長の計らいで佐藤君と話すことができたあの日、僕の悩みはあっさりと解決した。同時に、僕は自分の思い込みで考え進めて自己完結してしまう性格を恥じることとなった。

佐藤君は最初の印象通りバランス感覚の良い人で、僕が心配するまでもなく、学校の友達付き合いとバイト仲間の扱いを切り分ける器用さを持っていた。

僕が正直に「学校では一人で居たい」と伝えると、彼は学校ではお互い程よい距離を保つことをあっさり了承した。

「俺もバイトしてるのばれると困るし、学校じゃ今まで通り行こうぜ」

彼の爽やかさに救われて、僕はバイトを変えずに済みそうだと胸を撫で下ろした。

佐藤君は、バイトを始めた理由についても教えてくれた。彼の家は母子家庭で、弟が二人と妹が一人の四人兄弟らしい。母親は公務員で安定収入があるものの、自分や弟たちの学費など、少しでも足しになればとバイトを始めることにしたようだ。

「母さんは別にいらないって言うんだけどさ、俺長男だし」

その言葉に、父を一人残し家から逃げ出した僕は、少し胸が痛んだ。

学校の奴らには内緒にしてくれよ、と照れ臭そうに言う彼に、僕は好感を覚えた。そして、自分の家庭の話を僕にしてくれたけれど、けして僕の事情を探らずいてくれたことに、ただただ感謝した。

この町の別の中学に通っていたようだから、もしかすると僕の家の生業くらいは噂に聞いているのかもしれない。そう考えて、僕はまた自分の視野の狭さを恥じ入る。僕の家は関係ない。単純に彼が、人との距離を測るのがうまいだけなのだろう。

約束通り、佐藤君は学校で必要以上に話しかけてくることはなかった。ただ挨拶だけは必ずしてくれて、それが妙に心地よかった。

「おはよう」と「また明日」が言える相手が居る。それだけで、学校への足取りが軽くなるなんて思いも寄らなかった。



もう一つ、昨日は久しぶりにバンさんが来店した。

運よく鴨川さんが同じシフトの日で、僕はいつも通り陳列棚に黙々と商品を並べていれば良かった。

バンさんはキシリトールガムを一つ手に取り、レジへ向かう。

「あれ、バンさん、ご無沙汰じゃないっすか!」

「……ご無沙汰ちゅうたって、たった一週間来なかっただけじゃろ」

鴨川さんと会話するバンさんはいつもより少し機嫌が良さそうだった。気になってこっそり覗き見ると、以前に視た灰色の靄はなく、消毒液の匂いもすっかり消えていた。

「だってぇ、一週間も来てくれないとさびしいー」

「よせぃ、気持ちわりぃ」

二人が笑いあう声に僕は何だかとてもほっとした。

「この間のよ、ロールケーキ。あんがとな。かみさん、喜んだ」

「でしょ~? 女心は任せてちょうだい」

「はは、助かっちょる。わしゃ、そういうのは苦手じゃ」

「なになに、今日はずいぶん素直じゃないっすか」

からかう鴨川さんに、バンさんはいつになく照れ臭そうな声でぼそぼそと話した。

僕には聞こえなかったが、鴨川さんのリアクションでなんとなく察せられた。

「うっそ! まじ!? やったじゃん、バンさんおめでとう!」

「……よせ、声でけぇよ」

「だから今日はいつものじゃないんすね」

「まぁな」

「くー、バンさんも父ちゃんか。こりゃめでてぇや!」

これは俺からのお祝いだ、と。鴨川さんに渡された二つのロールケーキとキシリトールガムを一つビニール袋にいれて、バンさんは帰って行った。

すれ違った時、煙草の匂いの代わりにミントの匂いがした。僕にまで首筋のこそばゆさが伝染してきて、バンさんが本当に喜んでいることがわかった。

その後も鴨川さんは一人上機嫌で、「こりゃめでてぇ日だ」と僕の肩をばしばし叩いていた。



それらの幸運のツケがまわってきたんだろうか。

目の前の男は猛獣のように僕を睨み据えている。クラス内がざわつき、少しずつクラスメイト達の視線が集まってくるのが首筋に感じられた。かつて学校内で僕が注目されたのは、小中学生時代、乱暴者たちのいじめの標的になっていた時以来だろう。

「おい、神田。お前何やってんだよ!」

見るに見かねたのか、佐藤君が僕と闖入者の間に割って入ってきた。

おかげで僕は少し冷静さを取り戻した。神田と呼ばれた彼は、佐藤君より長身で、現世に居ながらまるで乱世の武将のような覇気があった。一瞬、茉莉花に似ているなと感じた。あの少女もどこか浮世離れした雰囲気を持っている。

「おう、アタルか」

「お前、いきなり人のクラスに入ってきてなんなんだよ」

「面白い奴がいるって噂を聞いて来た。アタル、こいつが一ノ瀬か?」

あまりに不躾な言い草、これ程に尊大な態度なのに、彼を見るクラスの生徒達の視線に一種の憧れが含まれていることに僕は気付いた。昔、家で修行をしていた時代、父親について訪問した一ノ瀬家の顧客達が似たような空気を持っていた。ごく一部の、人を統率する側の人間が醸し出すカリスマ。

「確かにこいつは一ノ瀬だけど――」

「やっぱりそうか。おい、一ノ瀬、お前幽霊が見えるって本当か」

何故だろうか、彼を見ていたら、恐れを通り越して苛立ちを感じ始めている自分に気付いた。

「おい――」

「聞こえてる」答えてから、僕はまるで今発している声が自分のものではないように感じた。「いきなり何だ。何か用か」

クラス内にぴりっと緊張が走るのを肌に感じた。目の端で、唖然としている佐藤君の顔が見えた。誰もかれも、僕がこれほど強気な態度をとることが予想外だったのだろう。

ただ一人、神田だけがけろりとした顔をしていた。

「お前に会いに来た」

闖入者はどこまでも横暴に笑った。

「とりあえず一緒に昼飯食おうぜ、腹減った」

これだけクラス内の空気を支配し、かき乱し、混乱させておきながら、あっけらかんと言ってのける神田に僕は一瞬で毒気を抜かれた。小心な性格も、被害妄想的な気質も、全部神田のスケールの大きさに攫われて、すっかり自分を見失いながら僕は答えた。

「幽霊なんて見えないよ」

「ふーん、まぁどうでもいいさ」

お前が聞いたんじゃないか、と。

言う間も与えず、神田は僕の目の前で弁当を広げ始める。

ここで状況に流されるまま一緒に昼ご飯を食べてしまったことが、僕の人生最大の失敗だった――と、気付く日はそう遠くなかった。

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