四月十一日 午前六時三十分ごろ

榊香(さかきかぐ)

第1話

 静かで、澄んだ空の、粛々とした朝だった。



***


 2016年の3月21日は、連休末日の月曜で、たまさか家族三人全員の都合がそろったものだから、家から距離のある病院に入院している祖父を見舞いに行こうという話が持ち上がった日だった。


 一年前の湯治旅行から体調がすぐれなかった祖父は、昨年年末ごろには病が頭にまで至り、もう以前のように明朗快活に誰かと会話をするということがなくなっていた。看病でつきっきりの母は多忙を極め、私はついぞ祖父がどのような病気なのか教えてもらえたことがなかったが、年末に挨拶に訪れた際の、生きる世界が己の体から数十センチの広さにまで縮んでしまったかのような祖父の様子を見ていたものだから、この度のお見舞い訪問に私は明るい気持ちで臨むことができなかった。


 年末に見た祖父は、娘一家の来訪を特別歓迎するでもなく、日夜義務的に出入りしている介護施設の職員が部屋に入ってきたのを横目でちらりと一瞥をくれるのと同じような態度で私たちに接した。私の知る賢く優しい祖父は、そのようなぶしつけで冷淡な態度をとる人ではなかった。


 後になって母が父に語る言葉を聞いたところによると、悪性腫瘍が脳かどこかにに転移していたらしい。頭をやられたせいで、意思や思考の制御がきかなくなっていたのではないかというのが母の見立てであったが、その言葉を聞いて私は胸が重く沈み込むような感覚を覚えた。

 それではまるで、今までの祖父の態度はが偽りで塗り固められたものであったかのようではないか。真実の祖父は、あの年末の老人施設の一室で誰にも興味を示さず手を動かしていたあの姿だと言われたような気がした。

 無論、そのようなことはないのだろう。私が祖父から感じていた愛情のすべてが、意図的なものであったなどということは天地神明にかけてあり得ない。ただ、衝撃は大きかったのである。


 私の知る祖父は、戦中戦後を生き抜いただけあって芯のしっかり据わったような人であり、博識で、聡明で、温厚な優しい人だった。

 病が祖父をあのようにしてしまったのだ。

 正月の初詣の願い事は、祖父の病のことについてが大きな割合を占めていた。

老いて病を得、残された天命が少ないのを曲げてくれとは言いません。ただ、どうか以前のように祖父が笑って生きられるくらいにまで回復させてください。

 本殿末社に至るまで、そんな言葉を延々と脳内で繰り返していた。


 そして、神様は願いを聞き届けてくださった。


 一月、二月、いつのころであったか記憶に定かではないが、転院した祖父の見舞いに突然訪れた時、ベッドの上に起き上っていた祖父の顔色は格段に明るくなっており、目には光が宿り、私たちをとらえた双眸にはわずかな驚きと理解の色があった。日々祖父の経過を見続け、その容態の浮き沈みに心をつかっていた母も、この時ばかりは本当にうれしそうだった。


 回復した祖父を見ていたものだから、もう大丈夫だと心のどこかで思っていた。

一月経つだけで人の容体は幾たびも移ろうものなのだと、この時つくづく身に染みたような気がする。

 帰宅が遅くなってゆく母と父との漏れ聞こえてくる会話から、祖父の病状が芳しくなくなってきていることを知った。

すぐさま脳裏に年末の、生ける人形と化したような祖父の姿が目に浮かび、何かの感情が言葉として私の脳に認識される前に、私は思考を真っ黒に塗りつぶしてしまった。何も感じていないふりをするのは、得意なことだった。


 そんななかで3月21日の午後、私たちは祖父の見舞いに訪れた。薄暗い駐車場から病院の棟に足を踏み入れると、祝日のためか閑散とした廊下が広がっている。

 入院施設を備えた大きな病院に久しく訪れていなかった私は、どことなく異世界に迷い込んだような感慨を覚えながらきょろきょろと歩いていたが、通いなれている母はわき目もふらずにさっさと進んでいく。その後ろ姿もまた、知らないものを見るようでどことなく不思議だった。


 302の病院らしい番号プレートのかかった病室らしかった。


 私たちがそっと引き戸を開けて室内に踏み入れた時、祖父は眠っているところだった。


 枕もとのテーブルには、伯父が看護師に当てて残した食事に関する書置き。

 蓋をされた、見慣れた祖父のマグカップ。

 容態の記録シートとバインダー。


 私は何も考えないまま、無造作に置かれていたペンで、持っていたレシートに、模試で好成績を収めたことを書き記した。好成績を取った話をすると、祖父はいつも喜んでくれたから、今度も褒めてもらいたかったのかもしれない。尊敬する祖父に褒めてもらうたび、たとえそれが大した功績でなかったとしても、自分が少しでも高邁な人間になれたような気がしていたのだった。

 その行為に及んだのは、祖父がまだこの世にいることを確かめたかったからなのか、はたまたそんなことは一切考えず、自分の存在確認がしたかっただけなのか、自分でもよくはわからない。ただ、結局こんな時であっても、祖父を喜ばせたいというもっともらしい名分を引っ張り出して自分の功績自慢をするあたり、私は何よりも自分を一番に考え愛していたようだ。

 祖父に喜んでもらいたい気持ちや回復を願った気持に偽りはかけらもなかったけれども。


 しばらく私たちは病室にとどまったが、祖父に目覚める気配がないのを見て取って、「(来ても)せがないから」と、母は疲れた表情で私たちに帰宅を促した。祖父は最近、調子のいい時以外は大概こうなのだとも言った。

 毎日回復と衰弱を繰り返す祖父の経過を見続けていた母は、祖父の容体に対し、どこか捨て鉢にも似た諦めを見せていた。

 その捨て鉢な様子は、私たちの前で本心を取り繕うための仮面であったようにも、はたまた自分の抑えきれない感情を無理に強引に落ち着かせるための一種の暗示であるようにも見て取れた。


 私はそのまま病室を後にするのだろうと思ったが、最後のあがきのように母が祖父を起しにかかった。その強引さは、今から思えばこれが誰かにとっての最後の対面になるかもしれないという予感があったからなのかもしれない。

 軽くやせ細った体を揺らす乱暴な起こし方にひやりとしたが、心の底では目覚めてくれることを祈っていた。


 しかしどこかでは諦める気持ちもあったので、また次の機会に、と思っていたが、祖父は驚くほどすぐに目を覚ましたのだった。


 んん?と窺うような声音。おじいちゃん、と呼びかける母を認めて祖父はわずかに目を瞠り、口を開いた。

どうした、と言いかけた祖父にかぶせるように、私が来ていることを告げる母。

畳みかけるような言い方にたじろいだような祖父は、おぉ、と応じる。

母はくどいほど孫娘の来訪を繰り返した。


 そんなにしつこく繰り返さなくとも祖父も理解しているだろうに。

私は苦しくなったが、「わかってくれているはず」といった、わずかな期待を裏切られ続けてきたゆえのこの時の母の態度だったのかもしれなかった。


 心が凪いでいるのか不安なのか、取り繕う時間が足りなかったのか、私は妙な無感動とともにベッドのそばに進み出た。つけていたマスクを外した。

 私の顔を見て、祖父はほころぶように明るく笑った。

この時胸にこみ上げたものを、わたしはいつもの癖でそくざに抑え込んでしまった。表情も自分の感じたことも、取り繕うことに慣れてしまっていた私は、素直に、自分の心持に見合った表情をつくることができなかった。そんなひねくれぐあいのせいで生まれた数秒の空白は、いぶかしいものとして祖父に伝わってしまっていたかもしれない。ああ、本当に情けない。


 一瞬の間見つめあい、「おじいちゃん久しぶり」だったか、「来たよ」だったか何事かを言の葉に乗せた。祖父も言葉を探していたのか、それとも出てこなかったのか、「おぉ」とか「うん」とか返事をしながら、それでも終始笑顔で答えてくれた。私は、泣けなかった。



 母が祖父に、言い聞かせるような強い口調で、来たけれどもう帰る、というような旨を言い始めた。母が自分ばかり話すものだから、私はマスクをつけ直した。

そのまま母が話し終えると、無言の圧力で退出することになる。

最後の最後、母が「帰るね」を連呼し始めたあたりで、私は「最後」と思って祖父に近づいた。

―――おじいちゃん、それじゃあ帰るね。

 マスクをつけた私を見て、祖父は一瞬戸惑うような眼をした。外そうかとも思ったけれど、せかすような雰囲気にのまれてそれ以上何も口にしないまま、わつぃは一歩後ろに下がった、

―――じゃあね、また来るね。

 祖父の笑み、顔色、皺の位置までつぶさに焼き付けるように最後にじっと顔を見て、私たちは去った。病室の引き戸が閉まるまで、何度も「またね」と言った。

もしかすると、これが最後かもしれない―――そんな予感も確かに脳裏をよぎった。心に何かを抱えたまま病室を出て、先刻までの出来事を胸の内で反芻してみた。


―――それが、最後に見た祖父の生きている姿だった。


***


 四月十日の夜遅く。夜半まで病院に詰めていた母が、「今日は病院に泊まるわ」と言って一度家に帰ってきた。私は少しでも母の負担を減らそうと洗濯物の始末にいそしんでいた。大方片付いたのでしまいにいこうと立ち上がった私は、ふと、視界の右から左へ、しゅるっ、と白い煙の玉が横切るのを認めて目を見開いた。


 先が丸く、尾を引くようなその様は、いつか祖母から聞いた戦時中の焼け野原の中漂っていたという魂魄のかたちにそっくりで、あぁ、おじいちゃんだと私は悟ったのだった。その魂を瞬きもせず、胸にこみ上げるあたたかな驚きを持って見送った。

 その魂がふつりと消えた後、私は静かな心持で片づけを再開した。

その日は明日だと悟っていた。

あの魂には「芯」を、祖父を感じた。

あの魂は、おそらく祖父そのものだったのだろう。


 母が明日の指示を伝え、病院に戻っていったあと、私たちも夕飯を食べてすぐ眠りについた。明日祖父に何かあったら、学校をどうするかの判断は私にゆだねられていた。奇しくも、始業式の日であった。


***


 翌朝、六時手前で目が覚めた。

いつもどおり顔を洗い、歯を磨く。

顔を合わせた父に、おはようと挨拶をした。二人とも、悟りきったような表情で穏やかな物腰だった。


 連絡はあったかどうか尋ねたところ、まだ何も音沙汰はないらしい。

飲み物と先日母が買ってきてくれたコンビニのおにぎりを無言のまま二人で食べた。シーチキンだったかツナマヨだったか、ラベルの文字を何の気なしに目で追って、ふと思い立って窓を開けると朝の清冽な風が強く吹き込んできた。


 目を細め、縹色に近い空を振り仰ぐ。


 静かで、粛々としていて、荘厳な気配をまとった春の空だった。


 一度母からの近況を伝える電話を受け、こちらの現況を伝えて心配しないように言い含めたのがたしか二十分ごろのこと。

 予感めいたものを感じながら自室に戻り、制服の書けられたクローゼットを前にした時、廊下を挟んで隣の父の部屋から着信音が鳴り響いた。

 つい先刻聞いたばかりのメロディに、ぎくりとする。

早すぎる。そんな言葉が脳裏にひらめき、いや、もしかすると先ほど伝えそびれたことがあったんじゃないのか、なんにせよ取ってみないことにはわからないと私は意を決して自室を踏み出した。

 腹の底がどくんとなるのを感じながら、ちょうど用を足していて電話に出られなかった父には何も言わずに携帯を取った。

 画面を開けるとやはり母からだった。

ああ、そうか。

ボタンを押して耳に当てる間、母はどんな声だろう、自分はどんな声でいられるだろうとふっと思った。

 電話を取り、私であることを告げる。

「ああ、〇〇?」と母の声が耳朶を打つ。私が予想していた話題をすぐさま切り出すわけではなく、ご飯を食べたかどうか母は問うた。食べたよと、落ち着いた声音で返す。

「うん、そうか」

 そう言って、一拍置いて、震える声で、けれど気丈に、気丈さを感じさせず、

「今ね、さっき三十分ごろに、おじいちゃんが息を引き取ったから」

 と告げた。


 その言葉は淡雪が音もなく宙にに溶け込むように私の中に消えていった。

静かに顔を上げ、一つ二つ呼吸をし、「うん、そうか」とだけ穏やかに返す。ちょうど先ほど見上げた縹色の空のような心境だった。


 学校をどうするのか聞いてきた母に、私は思ったよりしっかりと今後の予定について話し、最後に「おつかれさまやったね」と言って電話を切った。

トイレの壁越しに父に呼びかけると、「亡くなったん」と答えがあった。

「うん。六時三十分ごろやって」


 その後色々と話し合って、身支度した父が会社に出かけると、私はもう一度自室に身を翻した。部屋に踏み入れた途端に、涙が込み上げた。声を上げて、嗚咽を漏らし、畳んだ布団にもたれかかった。


 ふと口をついて歌が出た。

最近はまっていた歌だった。場違いな歌だったが、歌わずにはいられなかった。

やはり今だって抑え込んでしまうこみあげる感傷のはけ口を、それぐらいにしか見いだせなかったのだった。


 ひとしきり口ずさんで、中途半端なところで歌いやめた。

それからは黙々と身支度をし、リュックサックをひっつかんで玄関を出た。弁当は持たずともよい。昼からは、祖父たちのもとへ行く。


 ほほに風を感じて空を仰いだ。

明るさを増した天球を、あたたかな風が活き活きと吹き抜けてゆく。

ああ、いい季節だね。

心の中で祖父に語り掛ける。

命の燃ゆる、良い季節にあなたは逝った。


 四月十一日 午前六時三十分ごろ


 静かで、澄んだ空の、彼の人の旅立ちにふさわしい、荘厳で粛々とした朝だった。

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四月十一日 午前六時三十分ごろ 榊香(さかきかぐ) @19440704

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