炎の環

笠原修

第1話

      

 私が通った小学校の屋上から、遠くの丘の上に見えた長短二本の煙突。あの二本の煙突は火葬場である。クラスのだれもがそう信じていた。

 煙突からは毎日煙が上がっているわけではなかった。長い方の煙突から煙が上がっているときは大人が焼かれていて、短い方の煙突から煙が上がっているときは子供が焼かれている。そんな噂も出まわっていた。

 五年生になってまもない春先のある日の午前中、野外授業ということで、風景画を描きにいくことになった。担任は、学校を出てまだ一年という、若い女の先生だった。男女合わせて三十五人の生徒は、皆それぞれスケッチブックと色鉛筆を抱え、担任の先生に引率されて、昼間の田舎道を行列をつくって進んだ。

 うららかな日和のもと、野原、田んぼ、苔むした石塀の農家などの出てくる砂利道を、ある者同士はふざけあいながら、ある者同士は雑談をしながら歩き続ける。向かっているのは、ちょうどあの煙突の方角だった。

 野原に咲き乱れる菜の花が、微風に揺れている。私は、うまの合う友人である浩士とならんで歩いていた。一時間ほど歩くと、崖がまわりにいくつか見えてきた。いくつか立ちはだかる低い山を切り開いているようだった。煙突はだいぶ大きく見える。その日はどちらの煙突からも煙は上がっていなかった。

「皆さん、まもなく着きますよ」

 先生はそう言うと、一つの崖地帯に入り、一行はその後に続いた。

 そこは、上から見た場合「L」字型をなすように、二方に崖が切立っていた。

「それでは一時間ほどで描きあげてください。この辺りの崖は、いずれ無くなってしまいますので思い出として残しておきましょう。かならず煙突も入れてくださいね」

 先生は笑顔を浮かべながら語ったが、最後の「かならず煙突を入れて」というところは、意味ありげに強調された声になっているように聞こえた。

「聞いたかよ」

 浩士は、あきれたというような口調で私に問いかけた。

「おかしなこと言った?」

「かならず煙突を入れろだとよ」

「いけないの?」

「おまえ、知らないの?」

「何を?」

「あの煙突は火葬場なんだ」

「そのことなら、噂で知っている。本当の話?」

 浩士は少し困ったという顔つきになり、言葉をつまらせた。

「実のところは俺も、本当かどうかはわからないんだ」

 崖地帯には、腰かけることのできるものは特になかった。皆ハンカチを地面に敷き、体育座りの恰好で、スケッチブックを膝の上に置き、描画にとりかかった。

「こんなところの絵を描かせて、あの先生どういうつもりだ」

 私は、隣に座った浩士に話しかけた。

「俺は先生のよろこびそうな絵を描いてやろうと思っている」

「どんな絵だ」

 浩士は含みわらいを浮かべ、スケッチブックを開いた。

「まあ見てろよ」

 先生は生徒の描いている絵をのぞいてまわっているかたわら、自分でも絵を描いている。

 二十分ほど経つと、私たちのところに先生がまわってきた。先生は、浩士の絵をのぞき込んだ。先生の目が束の間かがやいた。

「おもしろい絵ねえ。とてもよく描けています」

 先生は、私の絵に対してはチラリと一目見ただけで、まったく感心をもたない様子で去った。私は少し疎外感をいだいた。

 浩士の絵をのぞいてみる。一本の煙突が火を吹いていた。その横に人魂がひとつ浮いていた。

「なっ」

 浩士は、色鉛筆を走らせている手を止めることなく、自信ありげに私にそう言った。私には、浩士の絵のどこがよいのかわからなかった。

 浩士と私は、学校に戻ってから、その週の土曜日にいっしょにあの崖にもう一度行く約束をした。


 土曜日、午前中だけの半日の授業を終えた私は、自宅で簡単な昼食をとった後、浩士といっしょに自転車で崖に向かった。

 野外授業のときと同じ砂利道を進む。

「煙突がだいぶ大きく見えてきた」

「けど、ぼくらは煙突を見に行くのではない」

 この言葉とは裏腹に、私は煙突のところへ行くことを暗黙のうちに始めから了解していた。浩士もそうだったに違いない。崖は単なる口実に過ぎない。浩士も私もはじめから煙突、つまり火葬場を見にいきたかったのだ。火葬場を見にいくことに何か後ろめたさを感じていたので、崖が目的だと表面は装っていたのだ。

 崖に着くと私たちは「駆け下り」をして遊んだ。急斜面となった崖壁を、登ることのできるギリギリのところまで登りつめ、そこから一気に駆け下りる。勢いをつけて平地に下りてくるので、平地で自力だけで走ったときよりもスピードがつき、力が増したような気になる。絵を描きにきたときに覚えた遊びだ。

 十回近く駆け下りをした。この遊びにも飽きた私たちは、スタンドを立てたそれぞれの自転車のサドルに腰かけた。しばらくのあいだ沈黙が続いた。私たちは見てはいけないものを見るように煙突に目を向けた。

「せっかくここまで来たんだから、もう少し近づいてみようか」

「そうだね」

 私たちは煙突を目指して自転車をこいだ。

 煙突までは思いのほか遠かった。

 横長の丘が私たちの前に徐々にせまってくる。

 丘の間近かまで到着した私たちはとまどった。上り口が見つからない。私たちは、丘の下をしばらく徘徊して、ようやく上り口を見つけることができた。ここまでくると煙突はもう見えない。上り口からは、鬱蒼とした細い林道が続いていた。傾斜はそれほどきつくはなかったが、途中に、ごつごつした石が頭を現したところや、乾ききっていない雨水のためか、ぬかるみとなったところもあった。私たちは、それぞれの自転車を押して、林道を上っていった。

 丘をのぼりつめると、トンネルを抜けたときのように急に視界が開けた。前方一帯には、ネギ畑が広がっていた。煙突は、巨大という言い方が適切なくらいに大きく見えている。二本だと思っていた煙突は、実際には全部で三本あった。短い方の煙突の隣にもう一本、更に短い煙突が立っていた。その一番短い煙突から、うっすらと紫色の煙が上がっているのが見えた。

 私たちは畑道をすすんだ。畑道はなぜか蛇行していた。先のほうに炎が見える。何かが燃えているようだった。蛇行した畑道を、私たちは炎の方に向かって自転車をこいだ。

 まもなく炎のところまでたどり着いた。円環状の炎だった。神社によくある茅の輪の形だ。赤々と燃えてはいるが、煙も発していなければ音もたてていない。畑道は、炎の環の直前で二股に分岐し、一方は炎の環を通りぬけ、もう一方は炎の環を迂回していた。二本に分岐した道は、炎の環の向こうで再び合流していた。炎の環は「さあ、こちらの道を通ってここをくぐりなさい」と囁いているかのようだった。

「くぐってみようか?」

 私は浩士に聞いてみた。

「やめた方がいい」

 浩士は真剣な顔付きで断言した。

「どうして?」

「これはきっと魔界への入り口に違いない。ひょっとしたら二度とこの世に帰ってこれないかもしれない」

 私たちは炎の環を迂回するほうの道を選んだ。

 その後、私たちは、ときどき後ろを振り返って炎の環を見た。炎のゆらぎは止まっていた。斜め後ろを向いたままゆっくりと前に進むと、炎の環は、遠ざかるに連れて断続的にその直径を小さくしていった。浩士もそれに気付いていたらしい。

「やっぱりあの炎の環の近くは、時空が歪んでいる」

 浩士は大人びた口調でつぶやいた。

 煙突までは、もうすこし距離がある。煙突は、この丘に立っているのではないようだった。私たちは丘の端まできた。急な下り坂になっていた。私たちはブレーキをかけながら下り坂を下りた。下り坂を下りたところのちょうど向かいは、竹林となっていた。竹林の入口に小さな祠があった。

 煙突は竹林の裏に立っていた。小学校の屋上からは丘の上に立っているように見えた煙突だが、実際には丘の後ろに立っていた。

 竹林の中で鳥が鳴いている。高く長い鳴声が空に響きわたっていた。陽差しはすこし弱くなってきている。竹林に沿ったカーブの道を半周ほど進むと、石造りの古びた門が出てきた。門の奥にレンガ造りの建物と太い煙突が見える。門に掛かった看板には「○×鉄工」と書かれていた。火葬場ではなかった。

「なんだ。工場じゃないか」

「だれだよ。火葬場なんて言ったやつは」

 私は、安心と落胆の混在した気持ちだった。

 帰りは、来た道を辿らず、全く知らない道を進んだ。途中何度か迷った。畑仕事をしているもんぺ姿の農婦に道を教えてもらい、家に辿りついたときは、すっかり日が暮れていた。


 夏休みになると、私の家にはひとつ年下の従姉妹のリエ子が来た。リエ子は、前年の夏休みも二週間ほど私の家に滞在した。

 午前中は勉強の時間である。和室の客間に置かれた大きなテーブルで、いっしょに夏休みの宿題をする。祖母がつくった昼食をとった後、午後からは遊んだ。私はすこし涼しくなった昼下がりに、リエ子を連れて自転車でよくぶらついた。リエ子は自転車に乗れなかったので、私の自転車でふたり乗りをして、近くの神社や寺へと出かけた。荷台にまたがり私の腹に腕をまわしたリエ子は、私が好んで語るお化けや霊界の話を、興味深そうに聞いていた。

 ある曇った日の午後、私は、いつもより早い時間にリエ子をさそった。

「今日は少し遠いところに行こう」

「うん」

 リエ子は素直にうなずいた。

 私はあの崖に向けて自転車をこいだ。砂利道から少し離れたところにたたずむこんもりとした森から蝉の鳴声が響いてくる。

 崖に着くと、私はリエ子に駆け下りの遊びを教えた。私もリエ子も五回ほど、駆け下りをした。

 その後、煙突に向かった。その日は、一番長い煙突から煙が上っていた。丘のすぐ手前にさしかかると、私はこのあいだ見つけた上り口を入った。

「煙突は何本あるでしょう?」

「二本」

「そう思うでしょ」

「違うの?」

「実は三本なんだな」

 そんな会話を交わしながら、上り坂の林道では、リエ子が自転車を押した。

 丘の上の平地にさしかかると、私は再びリエ子を後ろに乗せた。

「ほらね」

 私は、三本見えている煙突を指さして言った。

「ほんとだ」

 蛇行した畑道を進んでいると、浩士ときたときと同じ炎が見えてきた。

「何あれ?」

 リエ子は炎に気づいた。

「炎の環」

「何それ?」

 私たちは炎の環に向かった。

 炎の環の前まで来ると、私たちは自転車を降りた。炎は、しずかに燃えつづけている。浩士と来たときとは若干異なる場所にあるように感じたが、分岐した道が炎の環を迂回して、もとの道に合流するという形は同じだった。

「くぐれるの?」

「これをくぐると、向こうは魔界だ」

「やだ修ちゃん何言ってるの」

 リエ子は、きゃっきゃと笑いながら、中年のおばさんみたいに、私の肩をたたくそぶりをした。

「信じないの?」

「だれがそんなことを言ったのよ」

「友だちだ」

 リエ子は炎の環に歩み寄った。

「茅輪くぐりって知らない?」

「神社によくあるやつ」

「その感覚ね」

 リエ子はニコニコしながら炎の環をくぐろうとしている。

「やめとけよ」

 私はリエ子の冒険を止めた。

「大丈夫。案外と意気地ないのね」

「熱くないのか?」

「全然」

 近寄っても熱気は感じていないようだった。私がもう一度止めようしたとき、リエ子は既に炎の環をくぐっていた。その瞬間、木の板を割るような音が上空で鳴り響いた。遠くでとどろく雷鳴のような音だった。

「なんともない。修ちゃんもくぐってこっちに来なさい」

 炎の環の向こうでリエ子は笑っている。私はリエ子から意気地なしといわれて、少し奮発し、自転車に乗ったまま炎の環をくぐった。このときも木の板を割るような音が上空で鳴り響いた。

「なんともないじゃない」

 リエ子は笑いながら言った。

 私は再び自転車の後ろにリエ子を乗せ、煙突に向かった。

 一番長い煙突は、いつのまにか長い炎を上げていていた。浩士が描いた絵と同じだ。煙突から空高くゆらめいている炎が、薄暗くなった空を紫色に染めている。

 自転車を下りて、急な坂道を下り、竹林を迂回すると、例の石門が現れた。石門に掛かった看板の文字を見て、私はがくぜんとした。

「○×斎場」と書かれていた。

 煙突から上がった炎がリエ子の頬を橙色に染めていた。煉瓦造りの建物のまわりには、数名の僧侶によって唱えられていると思われるお経の声が響き渡っていた。

 私たちが帰宅したときは、晩九時を過ぎていた。私は祖母からひどく叱られた。そんなに遅くなったとは思ってもいなかった。気づかないうちに時間が過ぎていたようだった。


 その後、私はこの妙な体験について深く追求することはなかったが、高校一年生のとき、もう一度、この煙突を見に行った。高校に自転車通学していた私は、学校帰りに自転車であちこちを徘徊することが習慣となっていた。

 ある土曜日の午後、学校帰りに、かつて崖に向かったときの砂利道を自転車で進んだ。小学生のときの記憶はだいぶ薄れ、こんなところだったかと思う景色もあった。いくつかあった崖はひとつもなくなり、平地となっていた。ちなみに、小学校のとき崖まで引率してくれた、担任の若い女の先生は、私が小学校を卒業した年の夏に交通事故で亡くなったということだった。

 煙突が近づいてくる。昔と同じように煙突は二本だけ見える。煙突の手前に横たわる丘を越える。

 丘の上には昔と同じように畑が広がっていたが、蛇行する畑道はなく、真っすぐな道ばかりだった。炎の環についてもどこにも見当たらなかった。丘を下りたところにある竹林は昔のままだった。

 竹林から、聞き覚えのある鳥の声が響いていた。竹林を迂回して見えてくるレンガ造りの建物。これも昔のままで、石門に掛かる看板の文字も「○×鉄工」だった。この日、煙突からは煙は全く上がっていなかった。


 私が最後に煙突を見たとき、つまり高校一年生のときから四十年以上が経っている。私が実家を離れてからも久しい。現在、私の実家には姉夫婦が住んでいる。

 昨年の冬場、実家に立ち寄った私は、義兄に借りたミニバイクに乗り、例の煙突を見にでかけた。かつて砂利道だったところは、アスファルト舗装され、道路沿いにはコンビニエンスストアやスーパーマーケットやファミリーレストランなどが建てられていた。野原の一部は残っていたが、一帯は住宅街となっていた。

 煙突はどこにも見当たらなかった。煙突のあったところのおおよその見当はついたが、詳細はわからない。このあたりを曲がったはずだと思われる角のところは、バス会社の車両基地になっていた。

 私はミニバイクを停め、数十台もの大型バスが駐められた広いスペースの傍らに建つ事務所棟に入った。受付カウンターの若い女性に、煙突について尋ねてみたが、知らないとのことだった。管理職らしい四十代と思われる男性にも尋ねたが、煙突のことは全く知らないとのことだった。結局このバス会社では、煙突のことは分からず、私は再びミニバイクを走らせ、近くに建つ消防署に行ってみた。

 比較的新しい建物の消防署だった。

 一階の受付室で二十代前半と思われる若い職員に、バス会社で尋ねたときと同じ内容を尋ねてみた。

「さあ、聞いたことありませんね」

 若い職員は少し不審そうな顔付きでこたえた。

「四十年も昔の話ですが」

「ちょっと待ってください」

 若い職員は、受付室を出て、車庫で消防車をみがいている職員に、四十年前にあったという煙突の話をした。

「本部の○○さんだったらわかるかもしれないなあ」

「聞いてみましょう」

 若い職員は、受付室に戻り、机上の電話器のワンプッシュ操作で本部に連絡をいれ、○○さんを呼び出し、私の尋ねた内容を復唱するような形で聞いた。○○さんというのは、おそらくそこそこに年配の人なのだろう。

「そうなんですか。調べてみます」

 若い職員は、意外だったというような口調でそう応えると、受話器を置き、受付室の奥から古びた住宅地図を持ち出し、ちょうどこの近辺のページを私の前で広げて見せた。職員は鉛筆の先を、地図上にあてた。

「ここですね」

 地図上には○×テクノロジーという記載があった。九年前の住宅地図であるとのことだった。○×鉄工の「鉄工」が「テクノロジー」になっているだけだ。昔の煙突が立っていたかどうかは不明だが、九年前までは工場は存在していたことになる。

「公民館の斜め向かいです」

 若い職員は、ていねいにも公民館までの略地図を描いてくれた。

「おそらくこれでしょう」

 私は職員にお礼を言い、彼が描いてくれた略地図をたよりに公民館に向かった。

ネギ畑が広がっていたかつての丘と思われる丘が現れた。

 丘の周りにも上にも数多くの民家が建てられていたため、丘の存在にはこれまで気付くことができなかった。現在の丘は当時の半分ぐらいに縮小されているように見えた。住宅地開発のために、削られてしまったのだろうか。

 かつての上り口はなかった。舗装道路となった上り坂をミニバイクで上っていく。坂をのぼりつめた上の平地にネギ畑はなかった。住宅が建ち並んでいた。

 その後、急な下り坂を下りると、竹林があった。竹林はほぼ昔のままの形で残っていた。竹林を迂回する道は見覚えがあった。公民館はすぐにわかった。

 公民館の斜め前。消防署で描いてもらった地図からすると、○×テクノロジーの場所にあたるが、そこは広い廃材置き場となっていた。雑然と置かれた廃材の間から奥へ進むと、焚火の炎が上がっていた。炎のまわりで、中年の男四人と女一人が暖をとっていた。私はこの人たちに煙突のことを尋ねてみた。

「私たちも五年前にきた者なのでわかりません」

 とのことだった。

 浩士やリエ子と見た炎の環、そしてリエ子と来たときに掛かっていた「○×斎場」という看板。あれは幻だったのだろうか。だが、大人になってリエ子に会ったとき、炎の環と斎場の話をしたところ、リエ子は「確かにそうだったね」と言っていた。リエ子と私はあのとき魔界をさまよっていたのか。

 後ろの竹林では、鳥の鳴声が、木霊するかのように響いていた。昔聞いた鳴声と同じだった。



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炎の環 笠原修 @kasaharaosamu

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